Top > Media > 未来の娘へ

Media

未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年10月某日(6)

2013.01.12

  最後に、「自然」へのヴェクトルです。正直なところ、現在、探究が最も進んでいないのが、このヴェクトルでしょう。むしろ、これから、この文章を綴りながら、このヴェクトルにどんどん分け入っていきたいと思っています。

 

 たとえば、前述のヴィパッサナー瞑想は、「自己」の心身への深い瞑想ですが、それは(少なくとも私が学んだかぎりのそれは)基本的に目を閉じて行いそれによって全身の感覚=内観に集中するものなので、目を開いたときに視覚的に感覚される、たとえば「自然」についてはどのように瞑想すればいいのか、いまだ疑問のまま残っています。「自然」への瞑想をどのように行えばよいか、今後、自分なりに、あるいはその道の熟達者に教えを乞いながら、探究していきたいと考えています。

 

 「自然」へのヴェクトルで、唯一「捨てる」ことの探究が深められているのは、「食」でしょうか。

 

 食、という、呼吸や排泄などと並んで、生命の維持に欠くことのできない活動。しかし、生にとって根源的でありながら(あるがゆえに?)、その周り、内部には、通常、夥しい記号・情報・コードが纏わりついています。私たちは、一個の「自然」のトマトを食べていると思い込んでいますが、実は単に「トマト」という記号を消費しているにすぎなかったりする。あるいは、お洒落なフレンチやイタリアンに舌鼓を打っていたりしますが、実は単にグルメ雑誌によって入力された情報を無意識に再確認しているにすぎなかったりする。つまり、食という生命の根源につながる活動であっても、実に多くの記号・ハビトゥスに浸されている。それらを「捨てる」こと、そして食の絶対的なリアリティに立ち会い、堪能すること。私は、ある、おそらくは偶然のきっかけから、突然、「捨てる」ことになってしまいました。そのきっかけとは、いたって逆説的なのですが、フランスの下宿先の部屋で深夜食べた一杯のカップヌードルでした。この記号とコードのものの見事な結晶のような食品を、そのとき食したことにより、突如として、自分の「食」に纏わりついていたあらゆる記号・コードが剥がれ落ちていったのでした。そうして「裸」になった味覚は、それ以後、食の絶対的なリアリティを開陳してくれるようになりました。私はこっそりと、「絶対音感」にならって、それを「絶対味覚」などと呼んでいました。

 

 食のリアリティへのそのような「開け」(ハイデガー的意味での)は、当然、そのリアリティをもたらしてくれる食物そのものがどのように成り立ち、作られているかという関心を呼び覚ましました。そして、ささやかながら、自分で畑をもって、「自然農法」と呼ばれるものを学び試み、不恰好ながら、巷で売られている野菜などとは似ても似つかない旨味と生命力を持った野菜を収穫するにいたりました。その過程で、現在の日本のような「農業先進国」でいかに異常かつ危険な製法で食物が作られているかも学びました。そうして作られた食物たちは、人間の生命を維持するどころか、それを根源的に脅かしているのです。

 

 「自己」へ、「他者」へ、そして「自然」へ。以上が、人間的生の「日常」を構成している業・ハビトゥス・構造を、私なりに「捨てる」三つのヴェクトルです。もちろん、その三つのヴェクトルは、互いに独立したものではなく、複雑に絡み合い、促し合い、開き合い、いわば螺旋的に深化し合っていく類のものですが、私はそうした探究を、その螺旋とちょうど垂直に二方向に貫く形で行いたいと考えています。その二方向とは、実践/理論、あるいは身体知/言語知という方向です。人は、たとえば、ヴィパッサナー瞑想という実践を通じて、あるいは「絶対味覚」による実践を通じて、存在の絶対的リアリティを体験することができる。しかし、その体験はしばしば「絶対的」であるがゆえに、主体はその言語を絶した存在論的エクスタシーにともすると耽溺してしまう。そのエクスタシーに、あえて繊細な理論を、鋭敏な言葉を挿し入れることにより、エクスタシーはさらに微分化され、深まり、豊饒になりうる。しかも、理論・言葉のほうも、その絶対的リアリティの感覚的強度によりさらに繊細に鋭敏になり、場合によっては大きな理論的組み換えさえ誘発される。そうして、実践と理論ないし身体知と言語知の間の相互触発・相互深化を絶えず増幅する形で、私は三つのヴェクトルの螺旋的運動を探究していきたいと思っています。

 

 当然そうなると(先ほども述べたように)、この「書くこと」という作業も、その螺旋の中で試練に遭い、溺れそうになったり、辛うじて乗り切ったりと、数々の受難を経験することでしょう。はたして、私の「書くこと」は、どのように泳ぎ切れるのか、あるいは切れないのか、不安はいや増すばかりです。

 

 ところで、私は、この本(?)を、死期を間近に控えたがゆえの、一種の「回顧録」のようなものにしたくありません。自分の人生の幸不幸を自慰的に味わいなおすようなテキストにしたくありません。私は、自分の現在の経験、そしてそれに反響する過去の経験を語りながらも、それが私一人の人生だけに限られるものではなく、逆に一人の人間の生を「日常」の彼方まで掘り下げ、生を根源的に(先ほどの三つのヴェクトルへ)問い直すがゆえに、既存の生活様式の限界を打ち破りながら、新たな(21世紀的?)art of living=生の技芸を素描しうるような、そうしたテキストにしたいと考えています。

 

 是が非でも避けたいこと。それは、このテキストが「それなりに」面白く「ほぼ」満足のいくようなテキストになること、です。

[未来の娘へ]2012年10月某日(5)

2012.12.21

  私は、15年にもわたって大学で教えていますが、通常の「教育」的関係性ほど、そうしたエロティシズム=コミュニカシオンから遠い関係もないでしょう。教師は、空間的にも(階段教室)時間的にも(シラバス)特権的で超越的な一つの中心から多数の学生たちに向け一方的に言説を課し、その学習度合を試験し評価する。学生たちからの異議申し立てすら原則的に受け付けない(ようやく最近、うちの大学でも成績評価へのクレームを用紙に記入してできるようになりましたが・・・)。こうした「パノプティコン」的ともいえる権力関係―しかし実際はその特権的で超越的な視点はたえず無数の視線にさらされていることにより、たとえば講義内容が退屈な場合当然無言の抗議を浴びることになり、教師は危うくなる視座の特権性にますます偏執狂的に固執する、そうしたアンビヴァレントな関係なのですが―は、あらゆる「エロティックな」コミュニカシオンを抑圧して初めて成立する関係性です。(だからこそ、何らかのきっかけでそれが「個人的な」近さを獲得してしまったとき、「セクハラ」という倒錯的な形で抑圧の解除が生じたりするのでしょう。)私は、このハビトゥスに雁字搦めになり、それがゆえに知的生産性も大して上がっていない「教育」的関係に、どんどん耐えがたくなっていきました。そしてついに、10年目になったころ、ある授業で思い切ったことをしました。「教育」的関係を根底から覆し、後に「セルフ・エデュケーション」と名づけることになる方法を実験してみたのです。

 

 4月、学生たちに、自分たちの1年間の授業を自分たちの手でデザインし企画し実行するよう申し渡しました。教室における椅子・机の配置から最終的には成績評価にいたるまで、自分たちで(もちろん私も加わりますが)話し合いながら決め、実行に移していく。私は、そのとき、「教師」という立場ではなく、アドバイザーないしサポーターとして、今流行りのワークショップ用語で言えば「ファシリテーター」として参加し、彼らに助言なり支援をしていく。さらには、授業というものは決められた時間割の中で決められた教室でやるべきものなのか、自分たちの学ぶ欲望が欲するなら、そうした時間空間的コードすら疑ってかかるべきではないか、といった「授業」それ自体の「脱構築」とでもいうべき作業が開始されていったのでした。シラバスも固定された座席もない毎回の授業(?)は、即興、駆け引き、直感、忍耐、危機、思いやりなどに満ちた、文字通り「出来事」の連続となりました。もちろん、私ですら、次回に何が起きるのか、予測できません。そうして、絶えず予期せぬ、異質な力に出会い、翻弄され、傷つき、あるいはそれを乗り切りながら、自分たちの潜在力、生のエネルギー=エロスを累乗させることにより、彼らにしか生み出せない出来事=授業を「発明」していきました。それは、時には、限りなく「エロティックな」授業にすら見えました・・・(Cf. 熊倉敬聡『美学特殊C』)。

 

 もちろん、そうした「エロティックな」授業を実行するにあたっては、大学内で様々な抵抗、障害に遭いました。その過程で、一つの授業のみならず、一大学全体が旧来の組織的因習・ハビトゥスで雁字搦めになっていて、それに「違犯」する実践は、容易なことでは実現不可能な、そうした硬直化した学びの環境に陥っていることが痛感されました。(もちろん、それにもかかわらず、私たちの授業の違犯がある程度可能となったのは、授業の参加者の力量と努力によるところが大きいのですが、そうした組織的因習の最中でも、個人としてあえて「違犯」を手助けしてくれる少数の人たちがいたのも確かです。)

 私の勤める大学は、一応世間的には「リベラル」で「オープン」な大学とされているようですが、それはあくまで表面的にそうであるだけで、たとえば地域社会とダイナミックなインターラクションがあるかといえば、少なくとも数十年前からほとんど何もないに等しい。学生たちは、気の利いたカフェ・喫茶店一つないので、ほとんど地域・商店街に滞留することなく素通りし帰途につく。ごく限られた学生団体のみが、辛うじて地域のイベントや行事にささやかに協力する程度。一方、地域・商店街の方も、学生のますますの離反に打つ手もないままただ手をこまねいているだけ。大学・キャンパスは、物理的に無防備なほどに誰でも自由に出入りできる場所でありながら、制度的・ハビトゥス的にいたって「閉じられた」場としてしか社会的に機能していないのです。

 

 そこで、私は、前述の授業実践の延長線上で、「インター・キャンパス」ととりあえずは名づけたプロジェクトを始めたのでした。それほどまでに閉じられた大学・キャンパスならば、それを文字通り「リベラル」で「オープン」に「開く」ために、オン・キャンパスとオフ・キャンパスをダイナミックに相互作用させるインターフェイス、すなわち「インター・キャンパス」を生成し、そこで従来のキャンパス的慣習の中では行いがたい実験的授業やワークショップを行っていく。しかも、その場では、通常の社会的ハビトゥスでは出会いがたい、あるいは出会いが非常に限定的な「異文化」に属す人々―一般学生、留学生、教員、職員、地域住民、商店主、会社員などが、学ぶ欲望さえあれば、自由に訪れ、交わり、学ぶことのできる、そうした場=インター・キャンパスを創造したいと思い、実際に作り始めたのでした。

 

 準備期間も入れ、約4年にわたる試行錯誤の末、ようやく今年(ささやかな形ですが)、具体的な建物を取得し、自分たちの手で改装を施し、この秋から始動させる予定です。「公」の「授業」でもなく、「私」の「居酒屋」談義でもない、その中間で、異質な人々がカジュアルに集い「エロティック」に学び合える「共」=コミュニカシオンの時空間を作っていきたいと思っています。21世紀的学びの場=「塾」は、そこにあるとすら思っています。(これが「三田の家」となりました。)

 

[未来の娘へ]2012年10月某日(4)

2012.12.01

 このヴィパッサナー瞑想も、身体、特に感覚とその反応に集中的に「気づく」方法ですが、私はまた、10年ほど前から約5年間、身体の「自己」とでもいえるものに直接的に問いかけるあるコンテンポラリーダンスのワークショップに参加していました。勅使川原三郎率いるKARASというカンパニーのワークショップで、ダンスの全くの未経験者でかつ当時いろいろなハンディキャップをもっていた私は、単に踊るということにとどまらない貴重な経験を数多くしました。彼の方法の基礎は、まず何よりも、身体からあらゆるハビトゥスを振り捨てていく。おそらくはヨガや気功にインスパイヤーされた独特の呼吸法を通して、ある時は限りなくゆっくりとした呼吸の中に体のこわばりを溶かし込むように、またある時は限りなく速く強い呼吸で全身を攪拌しつつ、とにかく身体から、頭のてっぺんから足の先まで、「人間」の身体として学習した様々な「型」「くせ」、すなわち身体的「自己」をことごとく取り去っていく。床に寝そべり、全身を床に溶かしこむようにして、あるいは手や足を極限的な高速度で振り回しつつ、筋肉・神経・骨格が覚えこんだキネティックなハビトゥスを捨てていく。まさに「器官なき身体」(ドゥルーズ&ガタリ)の生成でしょうか。勅使川原の舞踊・身体論では、まず何よりも、この身体的「自己」=「器官」を捨て去った身体、すなわち身体の零度こそが、舞踊を立ち上げていく原点なのです。

 

 また、身体の「自己」への問いかけという点では、ここ5年ほど行っているヨガも重要です。KARASのワークショップがカンパニーの都合により中止されたのをきっかけに、以前から関心のあったヨガを始めたのでした。まだ、今のようなブームになる前で、通っていた教室も人がまばらでした。(今は、何という混雑でしょう!)ダンスのワークショップに通っていたとはいえ、元々体が非常に堅い私には、最初、ヨガの様々なポーズはたいそう辛いものでしたが、やがて体が馴染んでくるにつれ、徐々にいわゆる「気」の流れのようなものを自覚できるようになりました。KARASのワークショップのときにも、呼吸や気の流れは大切でしたが、それをヨガという形で自分なりに引き継ぐことによって、それをさらに深く自分の中で方法論化していくことができるようになったと思います。そして、その「方法論」の深化は、おそらくは起源において密接な関係にあったであろうヴィパッサナー瞑想を並行して実践することにより、さらに存在論的な深みを増したように感じます。

 
 以上が、とりあえずの素描ですが、現時点までの「自己」への(からの?)ヴェクトルです。次に、「他者」へのヴェクトルについて簡単に説明しましょう。
他者との関係は、通常、様々な業・ハビトゥス・構造によって縛られるとともに可能になっています。親/子、夫/妻、教師/生徒、上司/部下などです。それらは、ほとんど常にある種の権力関係を内包しています。私の、「他者」へのヴェクトルにおいて、当然最初に問題となるのも、この権力関係を孕んだ習慣的関係性です。他者との出会い・関わり合いにおいて、いかにこの習慣的関係性から身を振りほどくか、そして、いかにその関係性が通常覆い隠し抑圧している(バタイユ的意味での)コミュニカシオン=交流・交感の豊かさを見出し発明していくか。そうです。私が他者との関係において常に追い求めているものは、ある意味でバタイユのいう「エロティシズム」なのかもしれません。
 
男性パートナーにとって、受動的な相手〔=女性のパートナー〕を解体するということには、一つの意味しかない。すなわち、二つの存在が混り合って、最後には同じ解体の瞬間に共に到達し得るような、一つの融合を準備することである。あらゆるエロティックな遂行は、正常な状態では遊びの相手である、閉ざされた存在の構造を破壊することを原則としているのである。
決定的な行動は裸にすることである。裸体は、閉ざされた状態、つまり非連続な生存の状態に反しているのだ。それはいわばの状態、自閉の状態の彼方に存在の可能な連続性を求めんとする、交流の状態なのである。(『エロティシズム』、澁澤龍彦訳)
 
 私は、バタイユのいうエロティシズムを、何も文字通りの性行為におけるそれに限定する必要はないと思っています。「決定的な行動」=「裸にすること」とは、文字通り相手の衣服を剥ぎ取ることでもありえますが、それにも増して相手を存在論的に裸にする―そして、それとともに自分も存在論的に裸になる―ことの方が重要だと思っています。私たちは、相手に魅せられ誘われることにより、エロティシズムの関係性に入っていきますが、その魅惑=誘惑の強度によって、私たちの「閉ざされた存在の構造」「非連続な生存の状態」、すなわち権力関係を孕んだ習慣的関係性が剥ぎ取られ、脱ぎ捨てられ、その非連続の裂け目だったものが多様なコミュニカシオンの力によって満たされ、やがては「一つの融合」の瞬間へと昇華していく。「死にまで至る生の称揚」(同書)。
 
(余談ですが、こうして改めてこのバタイユの一節を読むと、彼の「エロティシズム」という概念が、ジェンダーという権力関係だけは振りほどききれていないことが如実にわかります。それが、彼の思想の限界の一つなのでしょう。)
 
 こうした「エロティックな」関係は、何もいわゆる「恋人」どうしに限られないとも思っています。もし一人の他者とある真正な関係をもとうとするなら、私たちはその人と大なり小なり「エロティックな」関係、すなわちコミュニカシオンの状態に入っていくのではないでしょうか。
 
つづく
 

[未来の娘へ]2012年10月某日(3)

2012.10.27

 こうした「捨てる」ことの実践、それは畢竟、生存のあらゆるレヴェルで(ブルデュー社会学的に言えば)「ハビトゥス」から、あるいは仏教的に言えば「業=カルマ」から、自らを解き放つ試みだといえるでしょう。もしくは、構造主義(もはや死語でしょうか?)的に言えば、まさしく「構造」から解き放つ作業なのです。といっても、業=カルマの理論が究極的に説くようには、生物的プログラムとしての業=構造まで捨てるわけにはいきません。(生命そのものが崩壊してしまいます。)私の捨てることのできるのは、せいぜいそれに「上書き」されている「人間」としての文化的プログラム―一人の人間が文字通り「人間」として生きていくために必要なあらゆる記号的・コード的プログラムにすぎません。もちろん、「すぎません」などといっても、それだけでも大変なことで、実際、少なくとも「日常生活」を滞りなく送るには、最低限のプログラムは普通捨てるわけにはいきません。たとえば、食べ方、排泄の仕方、座り方、歩き方、発語の仕方などは、いわゆる「健常者」―嫌いな言葉です―が、「人間らしい」生活を送るために、通常は意識的・無意識的に保持しなくてはならないプログラムです。私でさえ、もちろん、こうしたことすべてを「日常的に」捨て去ることはできないでしょう。しかし、私はあえて、そのレヴェルの業にまで降りていって、入っていって、それ自体を問いたいと思っています。ことごとく、非常な困難を伴う作業となることでしょう。でも、生の絶対的なリアリティを体感するためにも、あえて自らをそうした根源的な問いにさらしてみたい。


 今のところ、その問いは、主に三つのヴェクトル上で繰り広げられると観じています。一つは「自己」への、いま一つは「他者」への、そして最後は「自然」への、ヴェクトルです。いずれも大変漠然とし、かつ誤解を招きかねない言い方なので、具体的な例を挙げながら少し説明します。


 まず、「自己」へのヴェクトル。「自己」ないし「私」というものが、生まれてこの方、「自然」や「他者」たちとの出会いによってしか成立しえなかった、そして今なお成立しえないことを十分承知した上で、なおかつとりあえず「自然」や「他者」を―それらの新たな相貌を知るためにも―カッコに入れて、「自己」ないし「私」の実存をまさに「自己」ないし「私」のそれとして在らしめているあらゆるハビトゥス=業=構造を問うていく、疑っていく、「捨てて」いく、そうした方向性です。私の場合、こうした探究を生まれて初めて意識的に試みたのは、先ほどもお話したように、10代末から20代にかけて主に文学の研究・体験を通してでした。実存主義と呼ばれた作家たち、サルトル、カミュ、ボーヴォワールなどから遅まきながら文学に目覚め、入れ込んでいった私は、しかし不思議なことに割りと速やかにブランショという「文学」を根本的に問うた批評家に魅せられ、死への空間、虚無への空間としての「文学空間」の中で彼と共に「彷徨」しながら、彼が特権的に論じていたカフカやマラルメ、特に後者の文学的営為に巻き込まれていったのでした(ブランショ『文学空間』、『来るべき書物』)。


 マラルメは、「詩句をここまで深く掘り下げて」(アンリ・カザリス宛書簡、おそらく1866年4月28日)いく過程の中で、その作業があまりに徹底的かつ根源的であったがゆえに、通常の言語運用の崩壊を招き、それとともに、その運用を主体的に支えていた自己の瓦解も招き、虚無の深淵に沈潜していったのでした。その過程を追体験しながら、私も、マラルメと同様の(おこがましいかも知れませんが)言語的・実存的「危機」に陥ったのでした。その「危機」に至った詳しい経緯そしてその実態については後で述べるとして、いずれにしても、このマラルメ≒私の「危機」の中で、「自己」というものもまた徹底的に問われ、それが包み隠している様々な無意識的からくりも暴き出されていったのでした。


 先ほども述べたように、その後の人生の波乱の連続から、しかし、この方面の探究は徐々に損なわれ、ついにはほぼ完全に途絶しましたが、そしてその途絶の習慣化による、「自己」という魔の回帰と呪縛に苛まれ続けましたが(今なおされていますが)、ようやく最近、数ヶ月前から、ある別のアプローチ・方法によって、「自己」を再び徹底的に試練にかけ始めました。そのアプローチ・方法とは、ヴィパッサナー瞑想と呼ばれるもので、(後で詳しくお話しますが)仏陀が最終的に悟りを開いた時に行った瞑想法です。今朝も、この文章を書き始める前に、行いました。その残響が、これらの言葉の合間合間に未だ聴かれるでしょうか?

つづく

[未来の娘へ]2012年10月某日(2)

2012.10.17

 しかし、ある時、限界が来ました。こうした状況そのものがどうにも耐えがたくなり、何か「大きな」決断をしなければ、もう今後おそらく死ぬまで、「それなりに」「ほぼ」の人生を送り続けなければならなくなるだろう。もし、それが嫌ならば、今何か決定的な決断をし、この状況を打ち破らなくてはならない、と思い至りました。そして、決断し、実行しました。それは、「捨てる」ということでした。今までのように、何か少しでも面白そうだと感じたなら飛びつき首を突っ込むのではなく、具体的に限られた時間に鑑みて、自分で本当にやりたいこと、あるいはやるべきことのみをやり、それ以外のことは「それなりに」「ほぼ」面白そうでも、あえて切り捨てる。人との付き合い・交わりも、表面的な社交や惰性的な関係のようなものは切り捨て、互いの存在の深みが交感しあうような「特異な」時間・出会いを最優先する。
 また、「捨てる」は、それにとどまりませんでした。家、をも、捨てました。20年以上も暮らした家を、出ました。長年にわたり、知らず知らず自分の心と身体に棲みついた無数のハビトゥスから少しでも自らを振りほどきたく、とりあえずは家から自分を切り離しました。家出=出家? そう、それは、宗教的な含意のない、一種の「出家」なのかもしれません。これからのあらゆる出会い・縁起に開かれてあるためには、まずは自らが無縁でなくてはならない、とある宗教学者は述べていますが(上田紀行『がんばれ仏教!』)、まさにそうした「無縁」の状態に身を置くべく、家出=出家をしたのです。
 さらに、「捨てる」ことについて探究していく過程で、生の絶対的なリアリティ―相対的に「それなりの」リアリティではなく―を生きるためには、これも長年、というか生まれてこの方心身に棲みついている意識的・無意識的記号・情報・コードを捨て去らねばならないことにも思い至りました。後で詳しくお話しますが、私は10代の終わりから20代にかけてフランス文学、特にモーリス・ブランショやステファヌ・マラルメなどを研究していた関係で、こうした記号・情報・コードの蕩尽consumation(バタイユ!)を追体験し、一時期はそれなりの(仏教的に言うと)「涅槃」の境地にまで至ったものでした。しかし、その後の人生の波乱の連続により、そうした境地の純粋さはことごとく失われ、蕩尽したはずの記号・情報・コードの魔がことごとく回帰し、再び私の心と体を呪縛してしまったのでした。一度、蕩尽した体験をもつからこそ、その呪縛の回帰には、日々鬱々としました。こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、と、いつしか心と体を呪文のように蝕んでいきました。これこそ、あるいは、最優先で捨て去るべきだったかもしれません。いや、そう思ったからこそ、それを実行すべく、後に述べるある瞑想法をしばらく前から実践しています。
 となると、「書くこと」、この言語というすぐれて記号・コードであるものを用い、言述を編み出していく作業もまた、当然根底から問われるべきものとなるでしょう。現に、この2年ほど、私は(それまでの連載をやめたり、原稿の依頼が来ても断ったりして)ほとんど書きませんでした。書けませんでした。記号・コードを捨て去ろうとしている者が、どのように言語を書くことができるのか? まさに、マラルメあるいはブランショ的問いです。この点に関しては、昔これらの作家たちを研究していたときにさんざん問題としましたが、今回「書き」始めるにあたって、当然問わなくてはならない問いだと、自覚しています。しかし、現に、こうして書き出してしまった。だから、この問いは、このテキストをこれから書いていく途上で、繰り返し、問われることになるでしょう。

(つづく)

TOP