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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.16 祖父の昔話

2009.01.27

 二〇〇九年、元旦。広島・東城の義理の祖父の家へ行く。東城へは電車では行けないので、新大阪の駅からバスで行く。交通の便はあまりよくない。途中、雪が降り始め、除雪車に引かれながら漸く辿り着く。時刻は二十二時。

 祖父に昔の話を聞く。

 祖父は、戦時中、東京の眼科医の下で書生をしていた。医師は祖父に大変よくしてくれたのだそうで、夏には皆で海に行き、海の近くに邸を構える文人とも交流をもったという。祖父は、医師のことを、恩人だ、と言う。
 一九四五年三月、祖父は、東京大空襲に遭った。家のあった新橋から、どんどん南へ逃げる。蒲田の麦畑まで逃げ延びたところ、品川に積んであった古い線路の枕木に火がつき、その明かりで新聞が読めた。品川から蒲田までは大分離れている。まるで、アレクサンドリアの大灯台のような話だ。
 夜が明けて祖父が家に戻ると、家財は悉く焼けていた。祖父と彼の父親は、そのようなこともあろうかと、従前から庭に米と釜を埋めていたのだそうだ。米を掘り返していると、近所の住民たちも戻って来たので、皆で飯を炊き、おむすびにして食べた。食べた後、人々は三々五々どこかに立ち去り、それ以来、彼らとは会っていない。

 その後、東城に帰った祖父は、土建業を一から始める。彼は学校で物理を学んではいたが、土木については全くの素人だった。ズブの一個人が、突然、架橋工事の入札に参加する様というのは一体どういったものだったのだろう。入札に参加した祖父は、事前に談合をしていた業者たちを押しのけて、工事を落札してしまう。彼は、町で初めての近代的な橋を、苦労をして架けることになる。
 その後、祖父は何度も数億規模の事業を手がける。土砂崩れを取り除き、整地する話。工事が捗らず、図書館で古い工法を研究した話。笑いながら、大仰な身振りで話す祖父の話は、なかなかに趣深い。

 祖父は、苦労をして財を成した。自ら「私は成功した」と言って憚らない。

 雪の降り積もる東城に着いたとき、彼は真っ先に分厚いカーディガンを取り出し、僕に手渡してくれた。僕はそれを着て、二階の座敷で眠る。寒い、暗い山村の夜。

ハラトモハル

 「gadget展」について

2008.12.24

  「gadget展」について

 京都芸術センターで「gadget展」を観る。

 開催日:2008/12/14~12/26
 企画者:林田新、中西園子
 出展者:芳木麻里絵、今村遼佑、中村裕太、西園淳
 http://arata-h.sakura.ne.jp/contents/gadget.html

 「ガジェット」という言葉は、あまり一般的ではないかも知れない。ガジェットはもともとは、比較的小さな装置や機械、またそれらを構成する部品も含めたところの総称であった。僕の感覚では、現在ではもう少し狭く、携帯電話やPDAなどの小型電子機器を、主に指すのではないかと思う。
 僕は携帯電話メーカーにいたので、当然その言葉に触れる機会があり、その意味でも、興味深い展示であった。

 たとえば、携帯電話を考えるときに、いくつかの切り口が考えられる。社会的コミュニケーションのシステムとして、電話とカメラとテレビを飲み込んだ電子機器 として、あるいは「もう一人の自分」として。(携帯電話は、衣服の次に、最も長く、最も身近にあり続けるモノである。)
 携帯電話を、印籠文化の延長として捉えることもできる。印籠はもともとは薬入れとして持ち運ぶものであったが、凝った蒔絵や根付によってデコレーションされ、本来 の機能を逸脱していった。携帯電話を「印籠を掌中でもてあそぶ美意識」の延長に置くならば、日本における携帯電話のガラパゴス的な発展が理解できるような 気もする。

 「掌中の美」というのは、日本における一つの特徴なのではないかと思う。それは大変アンビバレントな性質のものである。対象の距離は非常に近く、眺め入れば、他事を忘れて没入してしまう。しかしながら、そこに辿り着くことはできない。近づけど近づけど、なお触れることはできない。ちょうど孫悟空が遠大な距離を飛行してもなお、釈迦の手の平から逃れられなかったように、そこには無限の距離がある。最上級のフェティシズムである。
 このことは、松岡正剛が次のように表現している。「触れるなかれ、なお近寄れ」と。体温と肌の湿気を感じるほどに近付くが、しかし触ることはしない。にじりより、主体(視覚)と客体(身体)がない交ぜになる、そのような局面のエロス。

 周知のように、距離は、政治の問題である。そうであるなら、一瞬のうちに、掌中に無限大の距離を乗せてしまった日本は、特異点としての政治状況を生きていることになる。
時間が一定のとき、距離を無限大にすることは、速度が無限大になることである。高速の日本。ハイウェイスターとしての日本。もし、日本において、携帯電話や美術が特異なもの、世界市場の常識から零れ落ちたものであるとするならば、この高速性、「掌中の美」に遠因が見られるのではないか。

 「掌中の美」ないしは「高速の日本」は、ガジェットにおいて、折に触れて顔を見せるだろう。「gadget展」に出品された作品は、様々なガジェット性を有している。しかし、少なくとも、僕が芳木のシルクスクリーンのインクや、今村の回転木馬に見入っていたとき、僕は孫悟空のように無限の距離を飛んでいたのだ。

[淡水録] vol.14 ある子供

2008.12.14

 ダルデンヌ兄弟『ある子供』を観る。
 18歳のソニアは、男の子を産み母親となった。子供の父親は20歳の恋人ブリュノ。だが父親としての実感も自覚もない。真面目に働いてほしいというソニアの願いをよそに、彼は手下の少年を使って盗品を売りさばく暮らしを続ける。ある日、ブリュノは赤ん坊を高く買い取る組織があるという話しを耳にする...。

 ブリュノは徹底したダメ人間である。立ち止まって考えることをしない。目の前のものにだけ夢中になる。反射する。心底悪い人間ではないが、彼は、どうしようもなく浅薄である。「ある子供」とはブリュノのことである。

 「子供」は、ごく単純な社会的関係のうちに閉じ込められている。それ以上の広がりについて、具体的に思いを馳せたり責任を取ったりすることはない。逆に、そのような、縁のようのなものを引き受ける者を「大人」というのではないか。「大人」は民族のことを話したり、アフリカの飢えのために行動したり、未来の動植物を想って環境問題に熱をあげたりする。大人には大人の浅薄さがある。がそれは、少なくとも子供のものとは異質である。

 ブリュノは、手下の少年のために動くことで、大人になったと言える。彼はこれからも浅薄であろう。いずれまた過ちを犯し、違う質の涙を流したり、ベビーカーともスクーターとも違う形の重荷を押して歩いたりするだろう。しかし、物語の最後に彼が流す涙は、
その瞬間限りの、ある種の通過的儀礼としての、極めて特別なものではあったのだと思う。

ハラトモハル

[淡水録] vol.13 東京、上海、釜山

2008.11.23

 この夏、あちこちと出かけた。東京、長野、山口、神戸、上海、和歌山、釜山、横浜。それに名古屋。それらの情景の一つ一つを、もはや詳らかに覚えてはいない。旅のことは、ちょうどカメラのシャッターを切るように、僕の眼前に一瞬姿を顕しては、また消える。

 旅に出かける日の朝は、気分が高揚する。まだ早いうちから、白っぽい光の中をてくてくと歩く。電車や飛行機の椅子にもたれて、本を読んだり、弁当を食べたりすることを想う。知らない街の人々の表情や仕草。
 上海の魯迅公園を抜けたところにある清々とした道のことを、とりわけ鮮明に思い出す。間口が狭く、古くて暗い家々が並んでいる。扉を開け放って、何かを料理する女性がいる。傍らに上半身裸の老人が立っている。ほとんどの建物は古くて暗いが、しかし気持ちがよさそうだ。風が吹く。昔の歌謡曲が流れる。
 上海と釜山と横浜では、大きな美術展を見て回った。
 釜山ビエンナーレの会場の一つは、何かの遊園地の宿泊設跡(?)を転用した空間で、大変暗く、床に厚手のカーペットが敷かれていた。人のほとんどいない廊下を手探りをするように進む。椅子に腰掛けてTeresa / Alexanderの"Eight"という作品を観る(http://www.hubbardbirchler.net/works/eight/)。暴風雨の中のパーティーをモチーフとした映像作品だ。作品の冷たい光のせいか、行き場のない気持ちになる。


 旅は、時には幾人かの友人と一緒であり、あるいは妻と二人きりであり、また独りであったりした。
 釜山の海辺の急に開けたところで、その開け具合にうたれて振り向くと、友人たちがばらばらに歩いて来る。その様子。皆、それぞれに興奮した顔つきで、話をしたり何かを見たりしている。その様子。
 また、妻の歩き疲れた顔を眺め、我々の若さあるいは老いのことを、茫漠と広がる未来のことを考える。暗い夜の街に、とんとんと走る電車の光のことを思い出す。
 早い時間から冷たいシーツに包まり、本を読む。少し外を歩く。和歌山では中華そばと早なれ寿司を食べる。本屋に寄って、また本を買う。

 数年前の冬、東京の上野で友人と臓物を食べた。寒い夜だったように思う。街には人が多く、皆屋外で口から蒸気を吐きながら、ビールを飲んだり、煮た何かを食べたりしていた。白熱灯のオレンジの光があちこちで揺れ、それは友人の実家の、古い部屋のことを思い出させた。
 彼は語る。もちろん語ったはずだが、もう覚えていない。

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[淡水録] vol.12 不純な日本人

2008.10.12

 過日、友人から「日本の純度」と題したメールを貰った。要旨は概ね以下の通りだと思う。
 日本は、たとえばアメリカがそうであるようには、オープンではない。日本社会が今後も「純度」を重視するとき、良し悪しは別として、日本のプレゼンスはある程度予測できるものなのではないか。そしてその見通しに対してどれだけ議論をなしうるかで、日本の方向性が決まるのではないか。
 このことは以前から彼と話していたことだ。

 「日本」について誰かが話をするのを聞くと、僕はいつも当惑する。「日本」が主語になることが、いつまでたっても腑に落ちない。一体「日本」はどこにあるのだ、と、初手で躓いた子どものような気持ちになる。これは社会学の基礎的な問題だろう。
 社会とは何か。社会は存在するのか。
 もちろん、「日本」社会は実体として存在する。法制度と通貨によって※。究極的には、理由なき暴力によって、それは担保されている。しかしそれはそれだけのことだ。「日本」は原罪としてしか、僕には現れない。一段低いレベルでは、メディアや領土や血脈も、「日本」を形作っているといえるかも知れない。たとえそれらのグラデーションの端っこが有耶無耶に霧の中に溶け込んでいるにしても、慣習として、それらは「日本」意識させるだろう。しかしそれはそれだけのことだ。
 内田樹に倣って言えば、「日本」というレベルの社会は幻想に過ぎない。僕はその幻想が好きではない。僕は、「京都」や「パリ」といった幻想の方が好みだし、やくざや公明党や隣近所といった社会に興味を覚える。

 友人は、「日本」を扱ってはいるが、実はコミュニケーションのことを書いているのだと思う。そうであるならば僕は彼の意見に賛同する。というか、こんな回りくどいことを書かずとも、僕は敬意をもって彼を信頼している。
 僕もまたオープンでありたいし、そのような場にいたいと思う。しかしそれと「日本」社会の話とは別だ。

 海外で生活すると、日本人であることを意識させられる、という話をしばしば耳にする。僕には長く海外で生活した経験がないので、そのことはよく分からない。
 たとえば、金子光春という人がいる。昭和初頭に、中国、ヨーロッパ、東南アジアを放浪した人だ(自伝『どくろ杯』などに詳しい)。それは欲望と貧困の、濁流のような旅である。東京から長崎を経由して、船で上海に渡るのだが、ともかく金がないので、行く先々で不義理な借金や、書き殴りのやくざな仕事をする。
 彼は上海について次のように記す。
「漆喰と煉瓦と、赤甍の屋根とでできた、横広がりに広がっただけの、なんの面白味も
 ない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるとこ
 ろとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれはつづいてい
 た。かさぶたのしたの痛さや、血や、膿でぶよぶよしている街の舗石は、石炭殻や、赤
 さびにまみれ、糞便やなま痰でよごれたうえを、落日で焼かれ、なが雨で叩かれ、生き
 ていることの酷さとつらさを、いやがうえに、人の身に沁み、こころにこたえさせる。」
 この陰惨な紀行文の中には、しかし、日本のことは出てこない。金子という人が寒々しい上海のうえを歩き、流れ、人に会い、寝たり食べたりしていたことばかりが書かれている。「日本」はただの事実でしかない。

 「日本」について語ることは、最初から、一つのロマンスに過ぎないのではないか。

 英語や中国語が話せず、うまくコミュニケーションをとれないという経験は多くの人にあるだろう。僕にはある。お互いに意欲があっても、なお意思疎通ができないというのは悲しいことだ。中国に行ったときにチャーハンを食べようとして、筆記のうえに絵まで描いてみせたのに、冷飯が出てきたときは涙をこらえて天を仰いだ。それは悲しいことではあるが、特段に「日本」を思わせるということもない。
 僕は「日本」を信じるのが嫌いだ。そういうやり方で、「日本」に対して意識的であり作為的である。「日本」の大半が新聞とテレビによって作られているというのなら、僕はそれらを拒否しよう。目に見える街の様子と友人の姿態だけを、ひたすらに奉じていよう。そのことで、ぼくはどれだけ「日本」から逃げられるだろう。

※ 政府や国民や天皇や民主主義のことはまた別にあるとしても。

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 Kalaf、友人よ、僕の返事は、随分的外れだろうと思う。そもそも「日本」を持ち出したのは僕の方なのだから、あるいは、幾分、誠実ではないかもしれない。気を悪くしないで欲しい。
 次はまたいずれ、「マイアミ」のことを聞かせてほしい。

ハラトモハル

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