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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.21 ヘルシンキ・スクールについて

2009.07.18


 過日、友人に「ヘルシンキ・スクール」という写真家の一派を教えてもらった。近年、欧米で注目を集め、先日、資生堂ギャラリーでも紹介されたのだそうだ
 http://www.helsinkischool.fi/

 数年前、十一月の暮、僕はスウェーデンで十日程を過ごした。彼の地、第三の都市、マルメに投宿し、そこからルンドというところへ通って働いた。冬というにはまだ早いが、それでも空気は冷たく澄み、日が暮れると、物寂しさがしみじみと感じられた。クリスマスはまだ遠い。辺りに人通りは少ない。所定の仕事を終え同僚とパブで夕食を食べると、もうすることはない。ホテルのラウンジで本を読むのにも飽き、少し外を眺めて、シーツに潜り込む。
 それは北ヨーロッパの晩秋のことであった。


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ヘルシンキ・スクール(ヘルシンキ派)とは、ヘルシンキ芸術デザイン大学の教師、学生、卒業生たちのグループだ。ヘルシンキ・スクールの写真に共通して見られるのは、美しい自然が作り出す風景と、北欧独特の光と色の捉え方、風景の内に表される物語性だという。
一九九六年にヘルシンキ芸術デザイン大学は、一派の活動をサポートするために「ギャラリー・タイク」を立ち上げた。ギャラリーは、展覧会を開き、作品集を出版し、少しずつアーティストたちを世に知らしめていった。次第に、彼らは主要な国際アートフェアで注目を集めるようになり、二〇〇八年にパリの国立高等美術学校、二〇〇九年にはドイツのウォルフスブルグ美術館で展覧会を行った。

 時折、友人から外国のことを聞く。信じられないほど大きくて美しいアイスバーグのことや、熱いマチュピチュのことを。濃いアマゾンの緑を。それらを聞き、僕は強い渇きを覚える。こことは全く異なる空気、温度や風のこと、匂い、吐き気がする程のディスコミュニケーションを、僕は欲望せずにはいられない。

 マルメの夜はどこまでも薄く青暮れてゆく。その記憶は、一本の道を通じて、対岸のコペンハーゲンへとつながっている。コペンハーゲン国際空港のオイルを引いたウッドデッキが、オレンジの光を反射し,白や青をへだてなく混ぜ込んだ空に少しの赤味が足される。
 二つの街は、本来、直接的に関係するものではない。海上を走る真っ直ぐな道でつながっているが、スウェーデンとデンマークは、なお異なる土地だ。両者は、ただ僕の記憶の空の中でのみ溶け合っている。僕が氷山の風景を欲望するとき、その欲望が、僕の眼前の物事を溶かすように、何者かが、僕のマルメと、彼女のコペンハーゲンを、溶かしているのだ。
 眠りに滲む夢のごとく、二つの街は深く果てなく結びつく。


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 ヘルシンキ・スクールの、瑞々しい写真群を眺めていると、僕は朱の差す空のことを思い出さずにはいられない。
 一派の写真は、ベッヒャー夫妻とその弟子たちのように、一つの方法論から出てきたものではない。確かに、そこには水や緑が横溢し、物語性や抽象性が共通して感じられる。しかし、ヘルシンキ・スクールの、スクールとしての特徴はそこにはないのではないか。
 彼らの写真を眺めるとき、僕はいつもそこに赤い光を見出す。その色味がどこから来ているものか、未だ僕には判然としない。が、あのマルメの空に薄く滲んだ朱のことを、僕は悲しく思い出してしまうのだ。

ハラトモハル

[淡水録] vol.20 仕事のこと

2009.06.22

 僕は京都市文化芸術企画課に所属している。担当事務の一つに「京都市文化芸術都市創生計画の推進」というものがあり、その一環として「若手芸術家等の居住・制作・発表の場づくり」について検討している。色気のない施策名だが、それでも夢は膨らむ。
 僕にとって最初に思い浮かぶのは、ウィーンのWUK、かつてのSOHO、バルセロナのla makabraである。環境も対象も異なるのだから、これらのモデルがそのまま使えるとは思わないが、それらのコミュニティが持っていた高揚感を、個人的に、僕はこの施策に期待する。

 僕が公務員を志望した理由の一つは「文化行政に携わりたい」というものであった。
 クリエイターはしばしば行政を敬遠する。スピードが遅く、意味不明な制約がやたらとある。犯罪的にセンスが悪い。担当者には仕事に対する愛情がなく、しかも数年でコロコロと変わる...。
 あるいは、より根本的に、それが「体制」であるという点で、彼らは行政を嫌うのかも知れない。
 しかし一方で、行政は膨大なリソースを持っている。バジェット、時間、権限、人材、さらには各界とのコネクション。(先の諸々の制約の多くは、この大きなパワーを制御する代償としてある。)行政のもつ豊富な資源を一概に否定することは、作家たち自身にとっても幸福なことではないはずだ。
 ならば、その矛盾を埋める者が必要だろう。あちらとこちらの間に、双方の言語に通じた通訳者が必要なのではないか。それは誰にでもできることではないだろうが、もしかすると僕には可能性があるのではないか。
 それが、僕の文化行政への志向の出発点であった。
 京都市に入庁して三年目。この春、異動があり、僕は文化芸術企画課に配属になった。

 「若手芸術家等の居住・制作・発表の場づくり」のポイントの一つは、「芸術家が京都の町に暮らし続けること」である。京都市には芸術系大学が多いが、卒業生の多くは京都から他都市へ出て行ってしまう。(あるいは制作自体をやめてしまう。)このような状況を解決できないだろうか、というのが施策の基本的な問題意識だと思う。
 このような問題設定は、実のところ、恐ろしく根が深い。アーティストでい続けることはただでさえ難しいことだが、そこに京都(ないしは日本)の政治、経済、社会の多くの要素が絡み合う。「場所」を整備するだけでは問題の答えにはならないだろう。いくつかの成功例が示すような、マーケットとメディアとに支えられたあり方は、恐らくこの施策では選択できないし、またすべきではないのではないかと直感的に感じる。
 ではどうすれば?

 文化行政に関わることは、いつもこの種の「恐ろしく根が深い」問題と付き合うということである。自分は何も成し遂げないままにここを去るのではないか、という無力感とも常に顔を合わせねばならない。
 「若手芸術家の居住・制作・発表の場づくり」は、文化行政の諸問題を抱え込んだ施策のように見える。「このプロジェクトがうまくいけば、僕の文化行政の道行きに光が指す」、そのような試金石としての仕事だと感じる。

[淡水録] vol.19 歴史の歴史

2009.05.07


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 国立国際美術館「歴史の歴史」展を観る。
 杉本博司の写真作品と、彼が蒐集してきた様々なものを並べてみせる。
 展覧会の最初に、彼は次のように記す。

「アートの起源は人類の起源と時を分ち合う、それは人間の意識の発生をもってその始源とするからだ。私は私の技術を磨く過程の中で、学ぶべき先人の技術を体得する為の手本が必要とされるようになっていった。手本は先人が到達すことができた地平のサンプルと呼び変えても良いだろう。(中略)
 ここに集められたサンプルは、私がそこから何かを学び取り、その滋養を吸収し、私自身のアートへと再転化する為に、必要上やむを得ず集められた私の分身、いや私の前身、である。私はそれらのサンプルから、過去が私の作品にどのように繋がってきたのかを類推し、その現場を検証するという空想に遊ぶようになった。(中略)
 天地開闢以来、幾多の文明が栄え滅びてきた。その度に歴史は書かれ又書き換えられてきた。歴史とは生き残った者が語り継ぐ勝者の歴史に他ならない。語り継ぐ者のいなくなった敗者の歴史は遺物となってその内に閉じ込められ、私に何かを語りかけてくる。数十億年前に絶滅してしまった生命の種が化石となって私に語りかけてくるように。こうして私は歴史から一歩距離を置いて、私が収集してきた遺物を眺め暮らすようになった。」

 杉本博司の凄味は、その作品の見せ方にある、と常々思っていたが、益々その感を強くする。
 「見せ方」の内には、作品単体のクオリティー、物理的な配置の仕方、それらの関連のつけ方、それに言葉の按配まで、幾つものレイヤーがある。それは、松岡正剛の言葉を借りるなら「情報の編集」というアート/技術であろう。
  杉本のアートは尋常ではない。時間軸のうねり、光の照応、硬質なエッジ、有機的で底の伺えぬ造形。それらがないまぜになって、彼の世界を生み出す。
 本展では、数億年前の化石から、重要文化財級の古美術、NASAの宇宙食までが並べられる。それらを総じて「杉本博司」と冠するのは、デュシャンを通過した我々をしてなおたじろがせる程の、甚だ恐ろしい所業である。しかし、その恐ろしさまでを御して、これが一つの世界であると納得させる力がある。杉本の視線は、最早、「美術館」のそれである。幾重にも恐ろしいことである。

 杉本は「歴史」を俎上に乗せる。写真というメディアを扱う以上、誰しも時間に対して意識的にならざるを得ない。まして、彼程に厳密に考えを進めてきた者ならば、「歴史」は避けては通れないテーマであろう。
 我々の時間意識には、幾つかのバリエーションがある。
 一つは、過去から未来へと流れる日常的な時間意識である。その中では、我々は我々の眼前をツルツルと流れる事物に即応するのみであり、美しい情動は生まれようとも、そこからは死への切迫も、「歴史」も生まれない。
 また、一つは、未来から過去へと流れる時間意識である。それは、究極的には、「全てを語り終えた者」を想像的な起点として現在を照らし出すような、そのようなものとして考えられる。ミステリ小説が構造的に示すように、一つ一つの伏線は、結末から眺めることで初めて、伏線としての意味を浮かび上がらせる。「歴史」は仮想的な消失点をもって初めて、「歴史」になる。

 過日、青山の骨董屋でガンダーラ時代のレリーフを見たときに、軽い眩暈を覚えたことを思い出す。レリーフには、二~四世紀、インド北部云々という説明書が付されていたが、女神の横顔は思いのほかクッキリと、微細なラインを示している。一体、その白い石の表面に幾許の時間が積もっているのだろう。どのようにして、彼女は海を渡り、今ここにいるのだろう。それは「歴史」を想うときに、多くの人が抱く感慨ではないだろうか。「歴史」を見出すとき、我々は図らずも、遥か天空の神々の椅子に座して、我々の深みを見下ろすことになる。眩暈は、そのようにして生じる。

 本展で、ことに感じ入ったのは、新作「放電場」のシークエンスであった。
 広い空間に、十枚程の「放電」の写真がライトボックス様にして置かれている。暗い照明の続いた後だけに、明るい白色光が眼を射る。一方の壁には全面に鏡が張られ、一枚が派手に割られている。一隅には、デュシャンの古いポートレート写真。これまたフレームのガラスが割られている。
 ツイと立つ、雷神像。ケレン味に満ちる。
 が、省みると、鏡も、鏡/ガラスの割れも、タルボットに触れた文章も、もちろん放電の写真も、すべてにフックがあり、次々と考えを進められる。
 これは空間の割れであり、時間のズレであり、ズレたところで一致した何ものかではないのか。それが一人の美術家の中で遭遇しているのではないか。これは大きな「写真」なのか?この、一連のアクセントと、参照と、凡庸な反復と、それらのズレを、「歴史」と言うのならば、それを一つのイベントとして示すことは、これこそが「歴史の歴史」なのではないだろうか。



 杉本は、歴史から一歩距離を置いて、と書く。彼はどこに立っているのだろう。微分的な、美しい情動のうちかだろうか。それともモダニストを自称する彼のことだ、危険な光を閃かせ、「歴史」のその始まりに、彼は立っているのだろうか。

 本展は、いずれを切っても、息を吐くことができない。深い海に潜って人魚に会う程の、心身を削られるような類のものである。

ハラトモハル


[淡水録] vol.18 滋賀会館について

2009.03.03

 過日、シンポジウム「滋賀会館の放課後」に参加した。パネラーは、須川咲子(hanare)、高嶺格(美術作家)、根木山恒平(栗東芸術文化会館さきら)、山本淳夫(滋賀県立近代美術館)。滋賀会館のサイトには次のように説明が掲げられている。
 「アート現場で活動する様々な人々の活動事例を中心に、アートに関わることについて考えます。また、滋賀会館を含む周辺地域で何が出来るのか?参加者と一緒に可能性を探ります。」

 シンポジウムでは、パネラーがそれぞれの活動を簡単にプレゼンし、その後、意見交換が行われた。僕には、次の二つの発言が印象的だった。
 高嶺さん「作家はハコとではなく人間と仕事をしている。(一緒に仕事ができる)人がいることが大事」
 須川さん「いろんな要素のある変な場所で面白い。囲碁教室から現代アートの展示まで、地域の人が企画を持ち込んで何でもできる、二十一世紀型の公民館がつくれたらいい」
 何かのマネジメントを考えるとき、ソフト、ハード、ヒューマンの三つの要素があるが、いつでも最重要なのはヒューマンの部分だ。経験に裏打ちされた高嶺さんの発言は、シンプルだが重いと思う。

 質疑応答では、発言者から滋賀会館への愛情が表明された。正直なところそれを共有するのは難しかったが、シンポジウム後の"滋賀会館ツアー"により、僕も彼らの想いに同意することになる。
 屋上、最上階の映画館から順に、諸室を見て回る。会館全体が古くてスキだらけである。よく分からぬ青々とした空間が、ただ広がっている。かと思うと、文化サロン(喫茶店)があり、自民党支部や行政関連団体の事務室があり、地下には八百屋や魚屋(の跡)まである。緩い。今は使われなくなった大ホール、映写室、タイル張りのロビー。構造を捉えられぬまま、狭くて暗い廊下、県庁へ続くという廊下などをグルグルと見て回る。
 一口に言うならば、そこには、特権的な空間があった。ただ、それだけがあった。

 滋賀会館は、1954年に開設された県の文化施設で、今は(財)滋賀県文化振興事業団が管理している。所管は県民文化課。
 2007年の県の資料「滋賀会館のあり方について」※1では,滋賀会館の用途廃止が決定済みとされており、取り壊しにも言及がある。行政がここまではっきり書くからには、事が政治問題にでもならない限り、そのようになるであろう。滋賀会館は2010年3月末で無くなる。直近の滋賀県の文化振興に関する報告※2でも、文化施設活用についての記載があるが、滋賀会館には触れられていない。
 今後、建物のポテンシャルが発揮される可能性は、非常に低い。将来的な取り壊しは避けられないであろうし、それまでの最後の数年間も、行政の倉庫くらいにしか使われないかも知れない。

 滋賀会館のような場所は、全国的に見ても稀少であろう。たとえば、京大・西部講堂にも同様の自由があるが、それでも"我々"以外の誰かの手が入っていることを思わせる。東京で見た古いビルや、大阪の寂れた倉庫も、やはりそれは"我々"のものではなかった。
 滋賀会館は、そこに集まった者たちだけの、"我々"の秘密の花園を想起させる。明日から、ここで何かを始められるのではないか、という錯覚を抱かせる。大変な親密さだ。

 シンポジウム後、人々の集まった中華料理屋では、滋賀会館の今後のことが様々に述べられた。僕は、この建物に出会ったばかりだが、それでも、この場所があまりにも惜しいと言うことはできる。
 僕は最終的には人材がいればどのような場所でも面白くなり得ると思う。どのようにすれば、この建物に最期の花を咲かせ、この場所の空気を人々の記憶に残せるか。「次の滋賀会館を産むために」。おそらくそのように考えねばならないのだろうと思う。

 www.shiga-kaikan.jp/
 ※1 www.pref.shiga.jp/c/kemmin-s/shigakaikan/191003sigakaikansiryou.pdf
 ※2 www.pref.shiga.jp/shingikai/shiga_bunka/saishu.html

[淡水録] vol.17 或は灰色の風を無言で歩む幾人か

2009.02.16

 contact Gonzo 「the modern house - 或は灰色の風を無言で歩む幾人か」展を見る。

 contact Gonzo について説明するのは、未だに容易ではない。Gonzoは、当初、コンタクト・インプロビゼーションとして捉えられ、ダンスの文脈で扱われてきた。が、彼らがシアターでのパフォーマンスにとどまることなく、その始まりから路上で殴り合い、確信的にYou Tubeを使ったことで、彼らはダンスの範疇から抜け出していくことになる。Gonzoは、多くの人やメディアを巻き込み、増殖し、いくつもの旅を内包しつつ、一個のプロジェクトとしての全貌を現し始める。

 http://contactgonzo.dtiblog.com/

 会場では、折に触れて、殴り合いが繰り広げられる。

 Gonzoの重要な要素の一つに、水がある。彼らは、殴り合いながら水を飲む。ペットボトルの水を、場のそちこちに起き、思い出したようにそれらを飲む。時にはそれを蹴り、投げ、またそっと置き直す。激しい動きと暴力的な行為の中、水は、ささやかな空隙をもたらす。
 Gonzoは、次のように語る。
 「ゴンゾをやっていてたまに、言葉的な思考回路が外れるというか、瞬間的なことなんですけど、「ごろん」って転がってる時に上から人が「ばん」って飛んできて、一瞬何か分からんけど、「パッ」て動いたら凄くきれいにかわせて、なおかつまだその人と一緒につながってるみたいな。ホンマに一瞬全てのことが「完璧に上手く行くぞ」って、確信できる瞬間があって。」
 この感覚を、僕は"共感"と呼ぶ。自分、他者、世界、それらが時間と空間において共にあるという感覚。しかし、この感覚は極めて危険でもある。私とあなたが一体化すること、私たちが世界と一体化すること、そこからは容易に、グロテスクな全体主義が開かれる。おそらく彼らは共感の瞬間を悦ぶとともに、コンタクトの恐ろしさを知ってもいるのであろうと思う。
 コンタクトは恐ろしい。それは常に痛いものでなければならない。
 コンタクトは恐ろしい。であるからこそ、彼らは水を要請する。水は、いつも、理解することの狂気を知らしめる。


 「the modern house」展は彼らにとって、初めての個展である。会場は大阪府立現代美術センター。パフォーマンスではなく、"展覧会"というフォーマットで、彼らが空間の全てを埋める。僕が観た日には、会場内で家が作られていた。それを取り囲むように橋が設けれら、また旅のビデオと、パフォーマンスの写真が、インスタレーションとして並べられている。
 家は10㎡ほどの土台の上に建てられる。土台はシーソーのようになっており、誰かが動く度にガタガタと揺れる。ドリルの音が響く。ほとんど思いつきのように、窓が作られ、玄関が飾られ、ペインティングがなされる。延々と続く、遊びとしての家作り。


 Gonzoの重要な要素の一つに、写真がある。彼らは殴り合いをしながら、フラッシュをたき、互いに写真を撮る。今回の会場でも、大量の写真が壁に貼られ、またマガジンとして編集されていた。何故彼らは写真を撮るのであろう。彼らは写真の記録性を利用しようとしているのか。あるいは、フラッシュの扇情的な効果に期待しているのか。撮り、撮られることのうちに、幾重にも張り巡らされた、記憶と視線のシステム。無言の空間に、フィルムを巻き上げる音と息遣いが、魔術のように響く。

 写真には、いつも"構想力"がついて回る。
 三木清によれば、構想力においては主観と客観が一致する。三木は次のように書く。
 「構想力とは像を作る能力であるが、この像は常に個物的なものである。...しかし他方構想力は単に知的な能力でなく却って感情であり、感情の性質は一般性と見ることができる。従って構想力において個物的なそして知的な像はつねに同時に一般的な意味を有している。個物的と一般的という相反するものはそこでは直ちに一つに結び付いている。」
 個物的なもの/主観/ロゴスと、一般的なもの/客観/パトスを結び付けるには、その上位概念としての何物かがなければならない。「形なき形」としての何か。形をもって存在するもの、その存在に対しての、飢え。
 写真には、いつもそのような飢餓がまとわりついている。世界の空気を一つのイメージに構想し、対象を写し取ろうとするならば、そこにはいつも超越の契機としての構想力が働かずにはいられない。己の凝視する世界を、正確に写し取ったとき、そこにはかつて見たことのないものが写り込んでいる。あるいはデジャブとしての未来/過去が。

 Gonzoの写真はいつもあらぬものを写し取っている。地面、舞い散る雪、闇夜、そして誰かの身体。それらは半ば意図されたものであり、半ばは何かの弾みに撮られてしまったものであろう。
 彼らは押す。身体を。殴る。シャッターを。彼らは何もないところから、極めて強烈な構想力をもって、彼ら自身のうちに一つの像を提出する。身体に触れ、相手の様子を探り、ときに使い慣れた身体の動きを試してみながら、彼らは、あてどなく創造する。超越の契機としての、それらの所作を"虚無"と名づけるならば、彼らは、闇夜に舞い踊る、雪に近しい。光を待つ夜に舞う、重い牡丹雪たちよ。

ハラトモハル

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