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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.28 行政による文化芸術の支援について2

2010.08.06

 第一に文化芸術の公益性について確認する。
 片山泰輔によると、芸術文化がもつ公共財としての便益について、文化経済学は次のような諸説を呈している(※4)。これらの便益は、市場メカニズムに委ねているだけでは、必ずしも十分に供給されない場合がある、とされている。
 一、文化遺産説
 一、国民的威信説/地域アイデンティティ説
 一、地域経済波及説
 一、一般教養説(※5)
 一、社会批判機能説
 一、イノベーション説(※6)
 一、オプション価値説(※7)
 これらは経済学上の「公共財の便益」という視点からまとめられたもので、もちろん、文化芸術の特質を網羅するものではない。とは言え、上記諸説は、単体で、あるいは幾つかのセットとして、本稿にとって十分に有効である。過去の文化遺産や新しい創造が、まちに活力を与え地域経済を再生させる、というシナリオは、創造都市論として近年盛んに提唱されている。文化経済学の知見は、「一定程度、文化芸術に公益性はある」ということを示している。(※8)(※9)

 次に、行政が文化芸術を支援することについて、法的妥当性を確認する。
 文化芸術をめぐっては、以下のような法的規定がある。
 まず、世界的には、ユネスコの世界人権宣言第27条、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第15条等により文化権が明らかにされている。国連に加盟している以上、日本においても、これらの規定は有効であろう。
 文化権には、自由権としての側面と、社会権としての側面がある。日本においては今のところ、前者は憲法第13、19、21、23条により、また後者は第13、25、26条により、それぞれ保障されていると考えられている。ただし、その実質は、第25条においてプログラム規定説が有力であるなど、行政の裁量に委ねられるところが多い。
 また下位法規では、2001年に文化芸術振興基本法が公布され、文化芸術の振興についての国の責務が規定されている。(同法の中でも、文化権を認める記述があるが、憲法の定説に則り、実体的規定にはなっていない。)さらに、1975年の釧路市を嚆矢とし、自治体でも文化芸術についての基本条例を定めるところが増えている。
 これらの規定は、先述の「文化芸術の公益性」を前提とし、明文化したものと思われる。
 要するに、行政は、(個人の努力だけではいかんともしがたい諸条件整備の部分において)文化の振興のための施策を、「その裁量により」積極的にとらなければならないと考えられる。

 第三に技術的妥当性について検討する。
 技術的とは、財政、時間、人件等、リソースの物理的な制約を問題にするということである。とりわけ問題になるのは、財政的制約であろう。公益性があり、法的に努力義務が定められても、ない袖は振れない、ということはある。
 ただし、これはあくまで技術的要件であり、ある程度、既定の手続に則って検証され得るものであろうと思う。(分野Aの事業aを実施したいというときにリソースが足りないとする。この場合、事業a'、a''...、ないし分野Bの事業b、b'、b''...と、効果、効率性、緊急性等の指標を比較し、吟味する。結果、aが却下されることもあれば、a'、b''にかけているリソースの一部をaに回すということもあろう。)そこでは「いのち」や「文化」のように、ほとんどその実体を指示しない文言は、慎重に排されるべきである。「いのち」の分野にもグラデーションがあり、無駄もあり得る。「文化」の領域でも、他の政策でも同様である。当たり前のことだ。

 最後に、有効性について確認したい。
 ハンス・アビング『金と芸術』では、政府機関による芸術家等への助成金は有効とは言えない、と指摘されている。それは、芸術家の平均収入を上昇させ、彼らの貧困を解消するのではなく、単に、芸術家になろうとする者を増やすだけだ。文化芸術においては、いくつかの理由により、収入の期待値の低さにもかかわらず、参入者が過剰である。云々。
 この経済学上の指摘は、ある程度正しいものだと思う。供給の適正化、コストの適正化といったことは、多くの場では当然のことであるが、文化芸術においては必要悪としか捉えられていないのではないか。私の同僚の中にも、「必死に経営を維持しているベンチャー企業には直接的な助成はない。芸術家もハングリーな者だけが生き残るのが当然ではないか。文化芸術の助成は、かえって不公平なものなのではないか。」と指摘する者がいる。
 文化芸術に公益性があり、その支援が法的に妥当で、かつ技術的にクリアであるとしても、行政の支援が文化芸術の質を向上させ得ないとしたらどうだろう。供給やコストの構造を歪めるだけだとしたら、どうであろうか。
 ここでは、適正規模ということが問題になるだろう。どのような物事についても、有効性を評価をするには、一定の枠組が求められる。仮定的であったとしても、文化芸術の適正な規模、コストを提示しなければ、議論は空転するだけだ。
 有効性を査定するには、最初に枠組を示す必要がある。

 以上を要約する。
 文化芸術には公益性があり、法的にもそれは認められている。行政には、文化芸術を振興する努力義務が課せられている。
 ただし、それは技術上(とりわけ財政上)の吟味がなされた上でのことである。その過程において、有効性を検証するためには、文化芸術の適正規模を示す必要がある。

ハラトモハル

(つづく) 


※4 『アーツ・マネジメント概論 三訂版』(監修・編:小林真理・片山泰輔)から

※5 「一般教養教育の普及が社会全体に広く利益を与えるということは一般に認められるが、芸術文化もその一部を構成する」という考え方

※6 「芸術文化におけるイノベーションは、実際に公演会場等に足を運んだ観客以外の人にもあふれ出て利用可能となる」

※7 「オプション価値とは、実際には消費しなくても「消費することができる」という可能性から得られる満足のこと」

※8 文化芸術においては、個人的達成がまず重要であるだろうと思う。それは人間存在の根本に深くかかわるものであると、個人的には考えている。
 また、文化芸術は、今や、企業のブランディングやファッション等、他の領域にも深く関与している。これらの特質は、素朴な意味では公共的ではないが、社会のインフラとしての文化芸術という視点は不可欠のものであろう。

※9 林容子は著書『進化するアートマネージメント』の中で、アートの必要性として七つ挙げている。
  一、人間が人間であるためになくてはならない
  一、アートは世の中を変える力を持つ
  一、アートの持つ創造性は、コミュニケーションに不可欠なものである
  一、この世の中には多様な価値観が存在し、アートはそれを一番端的に私たちに教えてくれる
  一、アートには「人類の歴史」「社会の鏡」としての役割がある
  一、死後に残すコレクションにより自己の存在をこの世に残す欲求、すなわち「名誉心」を満たす
  一、サイドエフェクト(イメージアップ、経済波及、国際交流の道具、など)

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