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須川 咲子/Sakiko Sugawa

「hanare」の運営メンバー。“hanare x Social Kitchen Translation” という翻訳事業のディレクションをしながら、世界各地で政治問題を扱うプロジェクトを実施している。毎日の暮らしの中で見たこと、考えたこと等をアップしていきます。

Sakiko Sugawa is a founding member of "hanare." Sakiko runs “hanare x Social Kitchen Translation” as a director while initiating a number of politically charged projects around the world. This diary records her everyday life.

artscape blog

2010.05.03

5月から7月くらいまでの間、artscapeというウェブサイトでブログを書く事になりました。hanareの活動を中心に紹介していく予定です。そこで書き始めるということは、hanare media上でバイリンガルで書くことがほぼ不可能になるので、しばらくは他の執筆陣に任せたいと思ってます。原君もメリーも、堀内くんも三者三様でとてもクオリティーの高い記事を書いてくれています。即効力とかお手軽感とかがまったくないこのhanare mediaですが、書き手が熟考し、慎重にテキストにしていくようなメディアもやっぱり大事だよ、と思います。私はこっちの方で英語のみで書いていくことを考えてますが、どうなることやら。

I am going to write a column at artscpae, art based website (Japanese only) staring from May, meaning that I will be absent from hanare media for a while and rely on other contributors, Hara-kun, Mary, Horiuchi-kun, who will continutingly deliver quality texts. While twitter and and other forms of communication tools have diversified and become more popular, I still see much potential in quality texts that require writers to go through much thinking and crafting.

Maybe I will only write English texts here...


Sugawa, Sakiko

"Conversation Pieces" (5)

2010.03.30

「Conversation Pieces - Community + Communication in Modern Art」を読み終わって考えるのは、「dialogical art」とケスターが名付けているアートの表現形態を考えることは、そもそもコミュニティーとは何ぞや?ということを考えることにつきるのではないか、ということです(時間軸の問題、最終的な表現形態の問題ももちろん大事)。そのことを考えるヒントとして、以下の点を考えていきます。

○「Coherent Community」という概念について
○「Coherent Community」の問題点
○「Coherent Community」という概念を日本社会の政治/経済/文化(特に言語活動)/宗教との関わりでどう理解するのか
○「Coherent Community」にならないコミュニティーオーガナイズは可能か?この場合は、政治的プレゼンスをどういう風に位置づけるのか?

この本の中で著者が試みたのは、「dialogical art」というアートの形態が、アート史の分脈の中に位置づけることができることを証明し、無視されがち/誤解されがちなこの形態に言葉(批評)を与えることである。こういう本のリサーチをしていると、アートの分脈の中で語られるものと、パリコミューン、ロシア革命、1968年等の、歴史的な分岐点を検証しながら、アートと社会運動が常に結びついて来た流れに焦点を置いたものがあり、今度はそっちを読んでいこうと思っています。

"Conversation Pieces" (4)

2010.03.07

「Conversation Pieces - Community + Communication in Modern Art」という本をゆっくり読む一人プロジェクト、まだまだ続いています。

  コミュニティーアートと呼ばれるプロジェクトが台頭してきた経緯として、Kesterが主に扱っているアメリカ、イギリスで80年代から90年代前半にかけての政治の保守化、サッチャー、レーガンの台頭による公共財、公共サービスを民営化するネオリベラリズム政策の影響が指摘されている。公的機関、公的サービスの不効率性が叫ばれ、「小さな政府」確立という政治的イデオロギーを基に、公的サービスからの政府撤退があり、多くの国営企業、公的サービスが民営化された。その背景には、社会サービスに頼ることは、個人的な意志の弱さ、モラルの低さに起因しており、社会福祉を必要とする状況は公的援助によって継続され、悪化させるという大キャンペーンがあった。個人のモラルが低いせいで、または、個人の努力が足りないために公的サービスに頼るという前提に立てば、社会福祉に国家予算を投じることは、負担のバランスをゆがめ、貧困等の公的サービスに依存する原因が経済の仕組みに内包された構造的なものであることを認めることになる。単純に効率の問題だけではなく、社会的、経済的な立ち位置を個人に全面的に負わすイデオロギーのもとに、民営化は実施された。(p138-139)

  この流れで、国家予算を社会福祉に向けない代わりに、財団等、私的団体や個人がフィランソロピーとして公共サービスへ資産を投入することが推奨されていく。潤沢な資金を備える団体があくまでも「自発的」に、関心分野に資金を提供することで、「機能しない公的サービス」に新たなアプローチを導入するという流れである。お金のある人が「自発的」に税金によって強制徴収されない形で、自分の倫理に基づき、好きなときに、お金のない人に援助を差し伸べるという構造が出来上がってきた。要は、社会サービスに頼る人と、財団を作りフィランソロピー活動ができる人という極端な経済状態を生み出す社会構造そのものを不問にした上で、個人のモラルにまかされた分配の仕組みが出来上がっていく。(p138)

  一方で、具体的に存在している政治、社会問題に対して、わざわざ「アーティスト」として中に入っていき、その問題に影響されるコミュニティーの人たちと一緒に、ある一定期間の間、「dialogical process」を通して、そのコミュニティーに押し付けられた表象を作り変える作業、そのコミュニティーが直面している様々な問題に対して、これまでの福祉政策とは異なるアプローチで、アクションを共に生み出していく試みがアーティストの側から出てくる。既存の表象システムを疑い、その背景にあるシステムに対して、挑戦するというアヴァンギャルドアートのコンセプトと、間接民主義の範囲内を超え(税金の使途方法を選挙で決める→税金を収める→公的サービスにお金が回る、それが必要とされている人自動的に届く)、つまり、税金を支払うだけの間接的な関わりではないやり方で、ある特定の地域やあるアイデンティティーの人たちで構成されたコミュニティーに対し、より個別化された複雑な問題解決を、自分たちで恊働して行いたいという流れでもあるのだと思う。

  もう一方で、前述したようなイデオロギーのもと、公的機関、サービスの民営化が進められ、構造的な経済政策の失敗を補完する仕組みとしての公的サービスに投入される予算が、激減していくという流れ、そして、個人のモラル、努力、モチベーションを「再教育」し直すことで、社会問題の解決を目指すような財団、個人が福祉事業に提供する資金が、貧困、若者の失業、貧困地域にある子供の教育、寂れた街の再生、移民問題等々と取り組むコミュニティーアートプロジェクトの財源となっていく。コミュニティーアートプロジェクトが、場合によっては、既存の社会政策を今以上に弱体化させていくことへの危険性が指摘されている。(p139)

  財源元に対して意識的にならないと取り組んでいる社会問題の正当性まで問われるのではないか、という話を知人にしたら、現場の人間にとったらそれはわかり切っている問題であり、その中で絡めとられないように工夫や想像性を発揮し、より多くの人のためになるような活動になっているという反応が返ってきた。そういう倫理観を一方的に押し付けても解決策になるどころか、政治的正さを追い求めるあまり、逆にがんじがらめになるのではないか、という指摘であった。その通りだと思う。ケースバイケースでないと判断できないことを、相対論を持ち出すことで現場で踏ん張る人たちを取りこぼすという意見にも納得する。ただ、その「政治的に正しくあろうとする態度」を押し進めることで、プロジェクト財源を確保するための新たな方法を生み出していく契機に繋がらないだろうか。難題ではあるが、hanareが活動を継続していくためには、この試行錯誤を続けていくしかないのだろうと思う。

Kester, Grant H., Conversation Pieces, University of California Press, 2004

Sakiko Sugawa






"Conversation Pieces" (3)

2010.02.23

  Kesterが「dialogical art」を批評する際に重要視している、「他では許容されない質問が提起され、批評的な分析がきっちり存在しうる、開かれた場所としてアート」、「特権的に表現の自由が保障されている領域としてのアートが、より広い文化、政治の分野へ開いていく」ということについて。Kesterも認めている通り、「特権的に表現の自由が保障されている領域としてのアート」がその外へ「他では許容されない質問、批評的な分析」を持ち出そうとすると、往々にして、無視されたり、拒否されたりという反応が起こってくる。(p68) でも、だからこそ、その場限りのショック療法的な問題提起ではなく(アートワールドの外で、どや!って作品を持っていても、「お前偉そうに誰やねん!」という反応がまっとうに返ってくる)、ゆっくり&じっくり「Dialogical」なプロセスを通し、アーティストと参加者が一緒になって問題を共有し、「他では許容されない質問」を共有してゆく方法論が生まれてきたのだろう。

  「アーティストと一緒に街作り!」「みんなでワークショップをしよう!」「アートを使って人と繋がる」。バックグラウンドの異なる人たちが大人数で集まる機会そのものがなくなっていることを考慮すると、たくさんの人が巻き込こまれる大きなプロジェクトでは、どんな目的であれ、それがどんな結果を生む/生まないにせよ、間違いなく高揚感と一体感が生まれる。そういう場そのものの意義、高揚感のありがたさを理解できないわけでもない。人の繋がりが生まれるのは大事に決まっている。ただし、その何となくの達成感、高揚感に納得させられていいのか、とも思う。

  「近代化の過程で無視されてきた、声をもたない性格の」場所、人、考え方に対して、アーティスト達が「dialogical art」という方法を用いて、その問題に直接的/間接的に影響される人たちと一緒に、その歴史を掘り起こし、分断化された個人のアイデンティティーとコミュニティーのアイデンティティーを再構築し、表現のためのツール、場所、制度を獲得していく活動が継続されてきた。そこでは、一方的な哀れみや怒り、作品制作のために冷酷に他者の痛み利用する態度、行政の下請けとしての福祉的機能、中途半端な高揚感が前提になっているのではなく、現在の社会構造を共に変革するための「参加者」としての態度、参加者と参加アーティストその両方が、「dialogical」なプロセスを経て、自己の新しい可能性を開いていく態度が前提となっている。(p79)

  人間は生きていく上で、自己の世界認識と実際の世界のありようとの間に、なるべく大きな矛盾が生じないようにする生き物だという見方がある。自分の理解を超えるもの、自分の存在を脅かすものを経験したとき、そのことで生じる不安を避けるために、その経験そのものを無視/否定する自己防御的機能が備わっている一方で、自己の認識と実際の世界との間に大きな矛盾を生まないために、認識の枠を広げようとする性質もある。「拒否る→でもちょっと気になる→やっぱり無理や!→この違いはなんや?私が考えてきたことは何やったんや!」というふうに私たちのアイデンティティーは常に固まった状態にあるのではなく、揺れ続け、変化し続けている事実、この揺れのメカニズムが、アーティストと参加者の中で共有されることが、政治的、社会的に繊細な問題を扱う「dialogical art」プロジェクトの骨組みになるのだという指摘でした。(p74-81)

Kester, Grant H., Conversation Pieces, University of California Press, 2004

Sakiko Sugawa




[Note] Some thoughts...

2010.01.16

  先週水戸芸術館というところに呼んでいただいて、hanareの話とか、2008年に参加したレジデンスの話とかをして来ました。いろんな出会いがあったり、水戸芸術館と遊戯室の、両者の持ち味を生かした緩やかで自然な関係を目にして、素晴らしいなと思ったり。

  あと、遊戯室で展示中の白川昌男さんの話が印象的でした。白川さんが群馬という中心から離れた場所で、制作を続けていくにあたり、東京と地方の歪んだ関係性を廃棄物という形で目にし、北海道、ドイツで仕事をしてきた群馬の炭坑労働者の存在を知ることで、いい意味でも悪い意味でも、群馬の経済、社会状況も、世界の政治経済から孤立しているわけではないと、感じたこと。だからこそ、その場所でも制作を続けていけると思われた、という話は印象的でした。その繋がりを感じたことで、群馬で作られた作品は、世界の他地域に住む人にとっても、意味を持つのではないか、と思った話は心に残りました。世界のあらゆる、中心ではない地域で活動を続けるときに、白川さんの感じている葛藤があると思う。グローバリゼーションとボディーポリティックスの問題。世界中のどこに住んでようが、何らかの形で世界の政治経済に接続されてしまっている。接続されているからこそ、表現活動でも、その他の社会運動でも、その地域以外にも通じる普遍性を持つ可能性があるのだと思う。一方で、いくら接続され、グローバルになったとはいえ、グローバリゼーション云々という、大きな政治経済の話をしても、どうにもこうにもならない、小さな、小さな問題がそれぞれの地域では山積みなわけで、それに対しては、現場で日々頑張ることでしかなんとかならない。。。というローカルな話になってくる。うーん。

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