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CONDUCT A LIBRARY RESEARCH

風見(峯) 遼佑 / Ryosuke Kazami (Mine)

1983年、栃木県生。大学で言語学、大学院で分析哲学を学んだのち、ドロップアウトしダイキン工業入社。現在、エンジニア組織の経営企画的なことに従事。趣味はジャズとかとウッドベース・ボルダリング。

[CALR]vol.20 『Exit Through the Gift Shop』

2013.03.20

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『Exit Through the Gift Shop』 Banksy 2010年

 

今回、趣向を変えまして、映画です。インフルエンザ感染で家にいるしかなかったため、映画を何本か見ました。その中で、あまりの感動に打ち震えた一本を紹介します。

 

この映画、超有名なイギリスのグラフィティライターバンクシーが作ったドキュメンタリーとして、好事家の間では話題となったものです。

 

グラフィティの中でも特に、ステンシル・ボスター・ステッカーという手法を用いる人たち(代表格はもちろんバンクシー。他、OBEY、など。スプレー缶、マジックといったクラシックな手法ではないやり方でグラフィティし始めた点がエポックメイキングな方々)が実際に夜な夜な街に繰り出し、実際にやらかす場面が克明に捉えられており、それだけ見ても、かなり盛り上がる映画なのですが…

 

この映画のストーリーはかなり複雑です。

 

1. だいたい、見はじめた時点はこんな映画かな?って感じました。

 

様々なライターがグラフィティしてる場面を克明に捉え、とりわけその中心選手であるバンクシーに極限まで迫り(メディア出演いままで1回もなし。顔も知られていない彼の)、グラフィティ行為を初めて撮影したドキュメンタリー。なのかな…

 

2. 見てる途中、それが全然ちがうことに気付かされます(1コ目の打ち震えポイント)

 

実はこの映画は、「バンクシーの姿を初めて克明に捉えた映画。以上終わり」ではなく、バンクシーを追いかけ、その姿を映像に収めつづけた「あるカメラマンの半生を、逆にバンクシーがドキュメンタリー化してしまった映画」。だったとは…

 

つまり、バンクシーは彼を撮影したいと言ってきたカメラマン(フランス人のちょっとマヌケそうなオッサン。しかし、グラフィティ行為を撮影することに異常な執念をもってとりくんでいる)の半生に逆に興味を持ち、なんでそういう情熱を持つに至ったか、どんなふうに撮影に臨み、何を考えているのか。それを逆にバンクシーが撮り直してしまった点が斬新!

 

3. 映画を最後までみると、実は話は2.だけにはとどまらないことが知らされ、バンクシーの謎掛けよって完全に混乱させられた状態に陥る (2コ目の打ち震えポイント)

 

バンクシーを撮影したかったフランス人の彼には映画の才能がないことが判明し、カメラを置いた。そしていきなり一念発起し、おれもバンクシーになる!とMr.Brainwash(MBA)の名前で活動を開始。作品はすべてバンクシーの丸パクリで何のスタイルもないが、なんやかんやと偶然がかさなり、開いた展覧会が大盛況。経済的に成功を収め、2009年にはマドンナのアルバムジャケまで作成。これにはバンクシーも苦笑。自分のスタイルをパクられ、マヌケでアートの事を全く知らない彼が作った作品が、バカ売れしている。バンクシーはこの矛盾的状況をドキュメンタリーとして発表し、マヌケで実態のないアート作品が経済的に大成功するなんて、「アートの本当の価値とは何なのだろう?」と、強烈な批判的問いを投げかける作品を完成させた。

 

バンクシー、すごすぎる!!!と吠えるのはまだ早い。

 

なんでって、映画終了時点で「3.」が事実なのかそうでないのか、よくわからないように作られている点がなによりの打ち震えポイントなのですからね!

 

というわけで、勝手に推理をくりひろげてみました。

 

 

[推理]

①ストーリーどおりの理解

 

バンクシーは、フランス人カメラマンが異常な量のグラフィティ映像を所有していることに興味を持ち、バンクシー自身と彼の盟友たちのドキュメンタリーを作ってもらい、世に問うてみることにした。ところがフランス人カメラマンは映画の才能が全くゼロで、出来上がった映画はあまりに酷すぎた。だからバンクシーは映画をあきらめ、カメラマンには、今後は君もグラフィティでもをやったらどう?と提案。すると思いも寄らないことに彼はバンクシーやOBEYを丸パクリした作品を大量に作り始め、経済的に大成功。この矛盾をバンクシーは映画におさめた。

 

 

②バンクシー策士説

 

バンクシーは、フランス人カメラマンが異常な量のグラフィティ映像を所有していることに興味を持ち、彼をMBAに仕立て上げ、映画を作成することを思いついた。そして、その事にマヌケなフランス人の彼は気づいていない。彼は何にも気づかないままアートの世界で成功を収めてしまっている状態。バンクシーは、マヌケで実態のないアート作品が経済的に大成功するなんて、「アートの本当の価値とは何なのだろう?」と、強烈な批判的問いを投げかける作品を完成させた。

 

③バンクシー&フランス人どちらも策士説

 

バンクシーは、フランス人カメラマンが異常な量のグラフィティ映像を所有していることに興味を持ち、彼をMBAに仕立て上げ、映画を作成することを思いついた。マヌケそうに見えるフランス人も実は策士で、バンクシーとタッグを組んでわざとMBAという虚像を生んだ。そして「マヌケで実態のないアーティストが経済的に大成功をおさめる」という矛盾的な状況を作り出し、マヌケで実態のないアート作品が経済的に大成功するなんて、「アートの本当の価値とは何なのだろう?」と、強烈な批判的問いを投げかける作品を完成させた。

 

…これらがどれでもありえる点。現在も現実としてMBAの活躍が続いてしまっている点。そういう状態自体を、バンクシーは作品として発表しているのだろうか??とか思わず勘ぐってしまう点。そして、何より「アートの価値って何だろう?」ということに対し、強烈な問いを投げかけている点…この映画の魅力はハンパないです!

 

私はバンクシー、今までそれほど興味なかったのですが、この映画を見てもう尊敬せずにはいられなくなり、バンクシーシンパとしてやっていくことを決意いたしました。

 

以上です

 

 

[CALR]vol.19 『加藤淳の本』

2013.03.16

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『加藤淳の本』加藤淳 2002年

 

※インフルエンザからやっと復帰できました。

 

『さんまのスーパーからくりTV』に10年ほどまえ出演していた加藤淳さんが、インタビューを中心に自らの半生を語りつくした本です。

さいきん再読し、そのすばらしさに再び魂をゆさぶられたところです。

 

 

「ていうか加藤淳て何の人?」

 

この質問に答えられる人は、からくりTVを観ていなかった人はもちろん、毎週のように観て爆笑していた方ですら少ないのではないでしょうか。

 

実は、あのロン毛でフォッフォッていう笑い方の変な人…は、企業デザイン業界では高名な方でして「飲料メーカGEORGIAのロゴ」「新潟県のマーク」などを作った人と聞けば、加藤さんを見る目もかなり変わろうというものです。

 

そんな加藤さんの魅力が彼自身の言葉で「彩られている」という言い方がしっくりくるこの本。

この本に関連して、2つのことを書きたいと思います。

 

まず1つ。

この本が私のライフスタイルにけっこうな影響を与えた事。

私は2005年の横浜トリエンナーレ会場で彼と鉢合わせしたことから、ちょっとおもしろ半分でこの本を買い求めたのですが、本を開いてすぐ、それが全くの間違いであったと気づきました。

  • 驚異的な博学がゆえの、豊富すぎる語彙 (それが一般人にはおもしろい奴と映ってしまう)
  • エッセイにおける静謐さをたたえた筆致 (普段の暮らしぶりが反映されている)
  • 仕事で確かな実績を残し、その忙しい仕事の合間を縫って様々な遊びも重ねてきた、都会の粋人である点
  • 相談事への返答から感じ取れる、実直さとロマンチストぶり (文字おこしされているが故に、際立つ)
  • この人は実はすごい人だったんだ! と自分のおもしろ半分心を恥じたほどです。

 

その影響は小さくなく、私、ついついこの本に書かれているのと同じ行動を取ってみたりしていた時期がありました。

例えば…

  • 紺色のスーツを購入する (加藤さんによると、紺スーツで一番良いものはコム・デ・ギャルソン)
  • 素敵なシャツを買ったら、クリーニングにはお金をかける (加藤さんは、購入価格の5%までならクリーニングに支払うと決めている)
  • 東京神楽坂を降りきったところにあるカナルカフェに行ってみる (加藤さんによると、お堀沿いのオープンテラスが素敵なカフェ)
  • ホテルの最上階などにあるバーに足を運んでみる  (加藤さんは若い頃、御茶ノ水の「山の上ホテル」でひとりグラスを傾けていた)
  • アーティスト川俣正の活動に目を向ける (加藤さんは、川俣正と懇意。2005年の横浜トリエンナーレのディレクターは川俣正だった)
  • 機会を得て高級ホテルに宿泊したとき、ホテルのプールに行ってみる (加藤さんは、ホテルのではないけどプールで泳ぐそう)

などなど

 

あらためて思い返すと痛々しいこともやっていますが、それほど加藤さんがさらりとやってのける様々な行動にあこがれ興味をいだいていた自分がいました。

 

もう1つ。

再読して感じたこととして、自分のライフスタイルについて、ミニマルを愛し、都会(サバーブではなくシティ)暮らしを愛する加藤さんとただ一点だけ、意見を異にする部分があるという事。これが自分にとっては重要です。

 

「28歳ぐらいの時には、僕は女友達と週末だけ一緒にいたかった(…)週に3日とか、週末だけ一緒に住んで、あとの日はそれぞれの仕事とか、自分のやるべき事をやってきて、それで1週間、自分の引き出しに、いろんな情報とか印象のストックを持ってきて、それを週末に交換するっていうか、そういう生活がいいなと思っていました」

 

 

私自身、結果として遠距離恋愛が長かったのですが、上記のようには思いません。「自分のやるべき事をやって」という、そのやるべき事は、特にひとりでなければいけないのか? あるいは、そんなふうにひとりでやるべき事があるように思うのは勘違いであって、よく考えるとやるべき事自体、特に無いのではないか。また、もしそれでもそれが良いっていうのなら、結婚という手続きする意味はないし、ありもしない「ひとりでやるべき事」を心で求め続けるならば、それは相手との関係を次第に悪くする原因になるだろう。ようするに、上記引用部分のようなことがしたければ独身でいるのが良いし、結婚するのならそうでないほうが望ましいのではないかという事(そして実際に加藤さんは独身だから、自分のことをしっかり理解して暮らしているという事)。

 

 

このように、単なるおもしろ本と見せかけて、時にはライフスタイルに関する深い問いを投げかけて来さえする本書。現在手に入れる手段はたまに¥1で出品されるアマゾンしかありませんが、ぜひ彼自身の言葉からその魅力を直接感じ取ってもらいたいです。

 

以上です。

 

 

[CALR]vol.18『新訂 福翁自伝』

2013.02.10

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『新訂 福翁自伝』 福沢諭吉

 

言わずと知れた諭吉(敬意をこめて諭吉と呼ぶ)がなくなる3年ほど前に脱稿した自伝です。

 

恥ずかしながら諭吉に対し、「日本の開国の時に何か役割をはたした」「英語の重要性に日本で最初に気づいて学んだパイオニア」「慶應義塾を作った」「1万円」程度の認識しかなかった私がなぜこんな本を読もうと思ったかというと、彼は「日本初のリバタリアン」であるというような事を聞いたからです。

 

リバタリアニズムとは、ウィキペディアから引用すると「自由主義思想の中でも個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する」考え方で、「リバタリアニズムは他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える」ような主義のことを言うそうです。

 

政治でいうと「政府が公共事業の拡大などのバラマキによって個人の自由な経済活動に介入してくるのは反対」のような立場のことを言うそうですが、詳細の説明はウィキペディアでも読んでいただくとして、私が諭吉に関心を寄せているのは「個人としての独立」という点であります。

 

卑近な例で言うと、「自動車に乗るとき、シートベルトを絶対にしない」と決めている人がいるとします。その人は、法律で決まっているにも関わらず、シートベルトを絶対にしないのですが、その理由がこうだとしたら、その人はリバタリアンでしょう;

 

「シートベルトをすると、すごくつけ心地が悪くて気持ち悪く、運転がしづらい。そうして運転の精度がさがってしまうことを防止するためにシートベルトをしないと決めた。もし事故にあったら車体から飛び出して即死してしまうし、そもそも警察に見つかったら捕まるような状況に陥るが、その事を了解し、自分で責任を取ると決めている。そして、この行動によって他の車や通行者が事故に遭う可能性が増えるわけでもないため、この行動は合理的だと考えている」

 

…こうした態度がいかに重要かは、法律が存在しないときにより鮮明になると私は思うんです。以下の事例を考えてみてください。

 

「自転車に乗るとき、ヘルメットを被らずに車道をすごい速さで走る人」がいたとします。現在の日本には、自転車は必ず車道を走らなければならないという法律も、ヘルメットを必ず被れという法律も、どちらもない状態です。この人は、前者の方は自分の中の決まりとして守り、後者は自分の判断であえてやらない。その時に、以下のような考え方に基づいて判断をおこなっていたら、その人はリバタリアンであると言えるのではないでしょうか;

 

「自分は自転車の乗り方として、左側の端を通行するという軽車両が車に最低限迷惑をかけず安全に走ることができるやり方で走れる能力を有するため、そういう仕方で走行し、歩道は走らないと決めている。また、結局チャリで車と衝突等の事故に遭遇してしまった時にはヘルメットぐらいの軽装備では全くムダなため、被ることには意味がない、という自己判断のもと、ヘルメットは被らない」。

 

…法律がないわけですから、(これは車を運転したことがある人ならすぐに分かる非常に危険な迷惑行為ですが)車道の右側をチャリで通行することも可能です。そして多数の人が現実にやっている行為です。その人達の多くが仮に、「それが現在の日本の車社会においては非常に危険行為だということを分かった上で、何かおきても自分が自分でケツ拭く」という自己判断の元にやっているわけではなく、ただなんとなく便利だから逆側走ってるという状態だとしたら、その人たちは1ミリもリバタリアンではありません。そして、もし仮にその人が転んでケガしたときに「向こうから来る車が危なかった…」「皆やってるから僕もこの走りかたに疑問もってませんでした」というような言い訳をし始めた場合、リバタリアンからは冷笑されるでしょう。

 

長々と書いて何が言いたいかというと、「世間的にみんながこうしてるから」といった判断基準で行動するのは、「自立した個人」ではないのです。そして、私は自立した個人でありたい。そしてそして、おそらく日本社会における自立した個人の最初のひとりはどうやら諭吉だという事です。

 

彼が生きていたのは封建社会の中だったわけですが、「門閥制度には意味がない」が基本スタンスですし。明治維新に際しても「他の仲間は政治を志し、明治新政府に入っていくが、皆がやるから俺もやらなくちゃいけない、という考え方はおかしい」という姿勢で、一貫して民間人でした。

 

諭吉の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」で始まる有名な一節が私は大好きですが、それは「ひとは皆平等なんだぜ!」ということを言いたかったわけではなく、その後に続く文章を読むと分かるように、

”でもこの人間世界を見渡すと現実には、貧乏人・金持ち・身分の高い人・低い人が存在してしまっている。それは何故なのか。ある古典に「人学ばざれば知なし。知なきものは愚人なり」とある。つまり賢人と愚人との別は学ぶが学ばないかによってできるものなのだ”…

と、とてもニュートラルなものの言い方で、この現実社会でスタンドアローンでサバイバルしていくためには、勉強が、努力が、知が要るんだよという事を説いています。

 

いやあー1万円になるだけはある! そして、自分が何か迷ったときの参照点は「独立した個人であるところの諭吉」であることは間違いなさそうです。

 

しかし、この本、爺さんになってもまったく老けこんでない、キレキレの諭吉の話がきけて面白い。とくに、若い頃いろんないたずら悪戯をしまくりつつ、俺は勉強で身をたてるという気合い、そして一生かけて付き合うと決めたオランダ語が役に立たないと悟り、それを捨てて英語の勉強に飛び込むときの決心、など、読みどころは満載です。

 

以上です

 

[CALR]vol.17『光の教会 安藤忠雄の現場』

2013.01.24

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 『光の教会 安藤忠雄の現場』平松剛 2000年

 

建築家、安藤忠雄の有名建築、いわゆる「光の教会」が完成するまでを、追いかけた、建築ドキュメンタリー的な本です。

解説によると、そういういち建築プロジェクトのを当事者の声を交えてルポ的に書いた本は、それまであまりなかったそうです。その真偽はわからないのですが、読んでみて初めて、よく聞く「建築家もすごいけど、それを施工する人のほうがもっと凄い」という意見の意味がよーくわかりました。

「雨が振る日のコンクリート打設は困難。でも他の日に伸ばしたら、当時バブル時代で日雇いの職人が引く手あまた過ぎて、赤字プロジェクトの現場には来てくれない。他の現場に行ってしまう。どうしても今日打たなければ…」

「あのコンクリート打ちっぱなしにあるの「○」の跡は、施工上規則正しく並んでいることに意味はないけど、安藤建築ではその並びをミリ単位で管理するため、大工さんがそれを知らずにやってしまい、寒空の中やりなおした」

「天井面のコンクリートを打った後、温度管理が重要。さらに浮いてくる液をコテでならす作業が深夜までつづく。雪が降ってきて、ブルーシートが風で飛ばないよう、徹夜で人が押さえているしかなかった」

こういったことは、建築素人の私は読んで初めて理解したことでした。これから安藤建築(さいわい、プライベートで訪ねる機会が非常に多い)を見る目がかなり変わりそうです。

 

この本を読んで特に思ったことは2つあります。

 

①自分の生活をきちんとしたい:安藤忠雄の言葉に「建築はハコであり、その中でどういう生活を作っていくかが、大切!」というのがありました。私事ですが、最近引っ越し先を探しています。賃貸サイトの間取りを眺める日々ですが、重要なのは、そこで自分がどんな暮らしをつくっていけるかだということは肝に銘じないといけないのです。

 

②仕事のやり方がおかしい:これはいい意味でも、悪い意味でも。自分はふだん会社で働いていて、モノづくりにはある程度決まったプロセスがあり、それをもとに関連部門とやり取りしてものを作っていくものだ、時にそれが無いような新しい仕事でも、ある程度そこは考えながらやってくもんだとは思っているのですが、この本に書かれている安藤建築研究所の働き方は、そんなもんじゃねー、という感じです。

  • 自分が作るものへの強烈な思想をもってお客さんに臨み、相手の意見に安易に迎合しない(十字架になった窓にガラスをはめない・床もイスもは足場材…etc、普通の人ならしてしまいそうなことを、思想に基づいて断固やらない)
  • 気に入らなければ、何度でもやり直し(我々、QCDの達成というのを必死で追いかけますが、プロセスがめちゃめちゃでDを成り立たせるのは、当事者はマジでキツイと思う…)
  • アトリエ的建築事務所は大変だなーという思いと、商品をお客様に本気で気に入ってもらうには?というマーケティングへの強烈なヒントが書かれているように感じました。

 

[その他に、この著者の本のいい点]

『磯崎新の都庁』を読んだ時も思ったのですが、建築家がその建築案を頭の中に浮かび上がらせるに至った背景ごとや、その瞬間の描写がされており、それがけっこうわかりやすく書かれていて、そこがいいなと思います。この光の教会では、安藤がヨーローッパの教会で得た経験(シトー修道会の、非常に質素な、石造りの、暗い教会の中に、ガラスのない窓から光が差し込んでくる瞬間)が、その後の彼の建築のバックグラウンドになっていることが、わかりやすく説明されています。それをもって、安藤建築は、地中に潜っている建築が多いことなど考えると、非常にわかりやすいなあと。

 

[ひとつだけ、残念なところ]

バブルという建築がらみで金が恐ろしいほど動いていた時代に、赤字プロジェクトを引き受けた安藤忠雄と、それをさらに赤字で引き受けた施工会社という背景ごとを書いているのですが…建築完成後、施工会社の社長さんが亡くなってしまったこともあり、「この教会は、バブルという金がすべての時代に対する安藤の思いをのせた、そして亡き社長の完成への思いをのせた光の教会なのだ…」という浪花節感が漂います。そしてそれは申し訳ないことにそれは少しわざとらしいものになっているように感じてしまいました。

建築に関するホロリとさせる話を書かせたら、石山修武さんにかなうやつはいないぜ!と私は思っているのでね、私は。

 

しかし、結論としては面白くて、手に入れて2日で読んでしまった本。ちなみに同著者の本で言うと、新東京都庁コンペに挑んだ磯崎新を追いかけた『磯崎新の都庁』もよく書き込まれており、完成度が高いです。気になった方はそちらもおすすめします。

 

以上です。

[CALR]vol.16 『spectator 第26号 outside journal 2012』

2013.01.13

 

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 ※新年おめでとうございます。ことしも地道につづけて行こうと思います。

 

不定期に発売される雑誌、spectatorを手渡しで売っている友人から入手。久々に読みました。

たまにしか読まないこの雑誌ですが、手に取った際はペラペラめくるのではなくさいごまで読み込みます。そして、だいたい同じ感想を持ちます。

 

この雑誌に対しては「カウンターカルチャー的アウトドア」「大麻」「音楽」「平凡社とかの雑誌カルチャー」等々…のかなり特異な方を紹介しているという印象を持っておりますが、おなじようなテーマを取り上げた他の雑誌と異なる特徴が2つあると感じます。

 

ひとつ目は、「カタログ性」があまりないのかなということです。

 

POPEYEやBRUTUSなどを読むと、「こんな服欲しいなー」「こんな部屋にしてみたいなー」「ここ行ってみたいなー」というような気持ちにさせられる写真がこれでもかと羅列されております。もともとPOPEYEなどは、そういうカタログという雑誌のジャンルが日本にないところに、意識して創刊された雑誌だそうですね。

 

一方のspectatorですが、僕の印象では、「いいなー俺もこんなふうにしたいなー」とは思えないような振り切れた方や、マイナーで、現時点でそれを読んでおもしろい!と思える人が少ないカルチャーの動きを意識して紹介している本と感じています。

 

例えば今回、「10年間毎日ノグソだけしかしない、ノグソ業界では有名な人」が紹介されています。

 

彼の主張は、かなり論理的です。

「ノグソではなく、トイレでした場合のウンコの処理過程をずっと追っていくと、最終処理にはウンコを燃やすという工程が入る」→「燃やした後の灰はコンクリートの材料になる」→「有機物だった食物が、無機物になったまま、循環が止まってしまう」&「処理に化石燃料を大量に使っている」→「トイレでのウンコは「資源の破壊と生態系の破壊」を同時にもたらす、とんでもない行為」

 

理屈は分かります。しかしだからといって、10年間ノグソしかしないというのは、かなりの行動力がなければ不可能です。そんな人に対して、面白いな、すごいなとは思いこそすれ、「いいなー俺もやってみたいなー」とは全くならないのです。

 

これは極端な例ですが、とにかく「自分もあこがれたり、ほしいと思ったりする物事のカタログ」ではないところ。したがって決して読みやすいフツーの雑誌にはなっていないところは、spectatorをspectatorたらしめている特徴の一つだと思います。

 

もうひとつの感じるのは、ある知り合いの言葉を借りれば、「カルチャー寄り」だということです。

 

「カルチャー寄り=ガチじゃない」という程度の意味なのですが、僕が思うに、ある程度クライミングしている人・ロングトレイルを走破している人・MTB乗り回している人・旅している人・音楽演奏している人、等々は、spectatorを読んでもあまり魅力を感じないのではないか。それは、紹介されている内容を自分がもう毎日やってるからです。

 

例えば、今回クライミングしている時の感覚を書いた記事があったのですが、それをソファーで寝そべって読むというのはどういうことなのでしょうか。自分でやっていて、疑問を持ってしまいました。

 

つまり、フツーの雑誌では紹介しきれない内容の深堀があるのはいいが、ガチでやってない人が、カウンターカルチャー的なものの影響のもと、頭でっかちで外側からみたことだけ書いていないか。それを読む読者も、アウトドアウェアやツール、そういう生活スタイルの情報だけは詳しいが、実際はやってない人が多いのではないか。そういう読者の再生産に寄与してはいないか。ということです。もしそうであれば、読んでるだけより、実際にやったほうが楽しいよ…と言ってあげたい。

僕の思い違いであれば嬉しいのですが。

 

もし気になる方がいたら、ぜひ手にとって僕の言っていることを確かめてみてほしいです。そして、ちがう! / そうだ! というような意見交換ができたら嬉しいです。

 

以上です

 

※spectatorはソーシャルキッチン内にある本屋「not pillar books」にも置いてありますよ。

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