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風見(峯) 遼佑 / Ryosuke Kazami (Mine)

1983年、栃木県生。大学で言語学、大学院で分析哲学を学んだのち、ドロップアウトしダイキン工業入社。現在、エンジニア組織の経営企画的なことに従事。趣味はジャズとかとウッドベース・ボルダリング。

[CALR]vol.21 『生き方と哲学』 (パート0)

2013.06.22

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『生き方と哲学』鬼界彰夫 2011年 講談社

 

※ドタバタの中で手に取った1冊の本を読むのに思いのほか時間を要し、久々の投稿となってしまいました。引き続きお付き合い下さい。

 

 

【パート0】

 

 

かたい読み物がけっこう好きな私ですが、今回読んだのは、ウィトゲンシュタイン研究の第一人者で私が学生時代お世話になった哲学者の鬼界彰夫氏が様々な観点から「生き方」を考察した本です。

 

「生き方と哲学」…かつて哲学をかじったからこそ、以前の私なら「生き方を説く…?  これはうさんくさい」、で片付け、ポイと投げたであろうこの本。「こういうケツの青い話は、学生のうちにでも片付けておけよ」てな内容が書かれているはずだ、とタカをくくっていた訳なんですが、今回、ブーメランと化しかなりの確度で私に刺さってきました。

 

そんなことが起きたのは現在、なんとなく私に「思考の波」が打ち寄せてきているから。だからのような気がしています。

 

「思考の波」…それは、私が置かれている状況 ( 社会人となりしばらく経った・結婚した・等々 ) が今までにないものであり、なんとなく「岐路」な気がする…その気分が生み出しているものの事を指しますが、

 

説明もかねて、本書のはじめ、第一部から文を抜き出してみます。

 

 

「我々が生き方に悩むとき、少なからぬ場合に問題は自分の職業(仕事)をめぐる問題として現れてくる。例えばそれは、私はどんな仕事をして生きてゆけばよいのか」「私は今の仕事を続けながら生きていってよいのか」「この仕事を辞めて、私はどのようにして生きてゆけばよいのか」といった思考によって表現される。(…)自分の生き方について悩むという宿命を人間に強いている当のもの、それこそが人間固有の(…)自由である思考の自由である

 

我々の行動、経験、思考、願望は日々積み重ねられ次第に成長する長い砂洲のごときものである。それは常に自由な思考という波に繰り返し洗われ、削られ、変形してゆく。こうした波とその作用を我々は一日たりとも拒めないし、それを通じてのみこの砂洲は我々の「自分」として姿を整えてゆくのである。そして砂洲全体が水没しそうになるといった危機的状況において、思考の波は沈みつつある砂洲全体を、自分のこれまでの生き方として我々に突きつけるのである。」

 

「他の何が拒否できても、人間は人間であるかぎり、自分の砂浜に寄せる自由な思考の波を拒否することはできない。生き方の悩みが訪れたなら、それから逃れることもできない。それに向きあうこと、それが唯一の受け止め方である」

(pp. 32-36) 

 

 

忘れてました。マジな哲学というのは基本的に、「ある対象について真剣に、考えに考え抜く」という行為、「ただそれだけなんだけど、本気でマジでそれやります」という行為だ、ということを。それを追いながら自分も真剣にある対象について考えること、これが哲学書を読むことの意義です。

 

それほど危機的な状況にあるわけではありませんが、なんとなく、自分は今、人生について考えたい欲求があるんだということが分かってきました。そして中途半端でも、その考えた結果を残したい気持ちがあります。

 

それを本書の内容にそくし、パート1、パート2と分けて書いてみたいと思います。

 

いったん、今回は以上です。

 

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