CONDUCT A LIBRARY RESEARCH
風見(峯) 遼佑 / Ryosuke Kazami (Mine)
1983年、栃木県生。大学で言語学、大学院で分析哲学を学んだのち、ドロップアウトしダイキン工業入社。現在、エンジニア組織の経営企画的なことに従事。趣味はジャズとかとウッドベース・ボルダリング。
[CALR]vol.24『キェルケゴールの信仰と哲学』
2014.10.13
- 鈴木祐丞 著 キェルケゴールの信仰と哲学』2014年 ミネルヴァ書房 刊 を読みました。取り急ぎ感想を書きます。
大学の先輩、鈴木さんが、博士論文を改稿し、上梓したものです。
- キェルケゴールは、若い時から直接性(=ふつうのひとが生まれて死ぬまでの普通の喜びを何の疑問も持たずに享受する生活)の中に生きることができなかった。
- それは、父の宗教教育のせいで。
- 永遠的なもの(ガチの精神の充実)(この場合宗教的なものを指すと思われる)を求めるよう、教育されて生きてきた
- いろいろあって(『死に至る病』をかいて、自己意識を段階的に深めるなかで)、最終的な自己意識の高まり状態に行ってはじめて、「反省(永遠的なものへの開眼)の後の直接性」というのが最も重要な状態だと、思想の到達点があった
- でも、読んでいる私にとって一番重要なのは、それが、キェルケゴール自身にとって実現不可能な状態だった、と彼自身が認識してしまったこと
- それでも、生きていくには? たぶん、すごい葛藤あったはず。
- さらに思索をすすめていくと、「キリストとの同時性」というのが本当の高みだというてんに気づいてくる
- しかしここでも、そこに普通の人間であるキェルケゴール自身が至ることはできない、と気づいてしまう
- それでも、生きていくには、?理想状態と、自分の状態が全然かけ離れているということに、深く考えれば考えるほど、ハマっていくような状態で。
- →「神の意思について直接的に知ることができず、その意味で「弁証法的な宙吊り」状態に置かれている普通の人間にとって、神意に充実な生つまり信仰とは、…それでも絶望することなく、おそれおののいて、止むことなく神意を尋ね求めようとするべき」「そうした人間の生それ自体が信仰を表現するのである。この信仰のあり方が「自己への無限の関心」」
- →こういう考えに至った時、キェルケゴールの精神が解放されたと思われます。
- →「神意について、手探りしながら、「反省のあとの直接性」という信仰の境地へ到達することに青年時代から憧れ続け、その果てに1984年の宗教的体験を通じてそうした信仰の自身にとっての不可能性を認識する羽目となった(しかも「閉じこもり」からも開放されないという認識にも至る)ことに象徴される彼のこれまでの生徒は、まさに、「自己への無限の関心」の体現」だった。「自分がこれまで神と共に生きてきたことを知り、自分がここに自分自身となったと言うのは、かれのこれまでの生が実は信仰を表現していたという意味での、これまでの生についての全面的な肯定を意味するであろう。
- →自分の日記で、「私はなにも不足していない」「私は私の不幸において祝福された」「私の生の全てにおいて憂愁が存している。しかし、それもまた、言葉で言い表せないほどの救済なのである」…と言えるぐらい、自分の精神が解放されている様が見て取れる。
- 自分は宗教を信じていないけど、理想と現実の間で、最後、ありのままの自分の姿を肯定できたキェルケゴールに、いいね!と言いたいし、人生の殆どの時間をそれにかけなければいけなかった彼自身の特異な人生(たった42年)に、おつかれ。と言いたいし、そういう特別な事例だからこそ、今日でも、特定の宗教に関係なくとも、「理想と現実」に関して疑問などを持った際に、ケーススタディとしてふかく参照される価値をもちつづけているのだろうなと思いました。
- ※本書とまえ書きかけたウィトゲンシュタインの日記の内容が深く関係しているので、また書きたいです。
- 取り急ぎ、以上です。
[CALR]vol.23『企画の図法 PDPC』
2014.04.09
『企画の図法 PDPC』 近藤次郎 日科技連出版社 1988年
PDPC
Process
Decision
Program
Chart
目的達成や、計画をたてるときに用いる手法です。その作り方、効果、が豊富な事例とともに語られている本です。かなり、面白い本。
Operations Research の分野から出てきた手法で、1968年に思いついたというから古い。物事の経緯(過去に起きたことの見える化)ぎゃくに未来に起こり得ることの見える化(何かをゴールに持ってくシナリオ、災害や事故の発生シナリオ)を定性的なことを「いわゆる科学的に」扱おうとして生まれてきた。筆者はこれを東大紛争のただなかで経緯明らかにしようとして思いついたとのこと。
方法自体が厳密に定義されてないがゆえかもしれないが(それがこの手法の良さだと思うが)、固い教科書的な本かとおもいきや、かなり読みやすい。事例も歴史上あった有名なできごとをとりあげており分かりやすい。軽く読み流せる感じ。論とは関係ないが絵もかわいい。
例えば、最初にPDPCの意義を語る箇所ではシェークスピアの有名な「to be or not to be、それが問題だ」を引き合いにだして説明。主人公が最終的に母も恋人も親友も、自らの命も失くすという悲劇を引き起こすのは、ひとえに起こりうる事態を事前に明確にしておかず、重要な分かれ目ポイントにおいて意思決定をあやふやにし続けた結果だ、だからシナリオメイキングとその手法大事でしょう、という具合。
事態を◻︎のなかに書いて、線でつないで行く。2つの事態の組み合わせで次の事態が発生するときは、それがAND条件なのかOR条件なのかを明示(半月か三日月か)する。途中で意思決定しなければいけないポイントや、何かの条件に応じてよって右に行くか、左に行くか分岐するポイントがある。なにかそこは◇菱形で表現して、yes のときとnoのときで線がわかれていく…
ただし、yes or noという文字列を見ると、どうしてもジャズの「yes or no」が頭に鳴り響いてしまう。
これからは意思決定を迫られたとき、迫るとき、PDPCを使うとき、テーマソングはウエインショーターで決定です。
補足
気になるのは、chart の要素一個一個に確率を割り付けて、最終的にそのシナリオの確率を出すてな試み。その補足で確率論の話や主観的確率とは?の話があって、ケインズが英哲学者ラッセル、物理学のボーアの話でてくる部分。
こういう話ばかりがきになる…
[CALR]vol.22『問題プロジェクトの火消し術』
2014.03.26
※しばらく寝ていました。再開します
『問題プロジェクトの火消し術』長尾 清一2007年 日経BP社
このプランしないといけないのは、なぜかを端的に示す。現状どんだけやばいか・問題点・そうなった経緯・ほっといたら何起きるか。リカバリを実行する正当性が有ることを証明する。目標としていつまでに誰が何をどのように、こうして、アウトプットとしてこれ出します。
このように、現状がプラン実行によってどれだけリカバリできるか証明してあげる。(できないことはできない旨、わからせる(スコープの限定ぜったいする))
目的に立ち返ってそもそも何するはずのプロジェクトだったのか?を共有。そのうえで、取り戻せる理想の姿をまず描いてあげること。その上で現実論もちだす。そしてトレードオフの選択もちこむ。A案B案C案。AしなかったらBになりますよ、どうするおつもりで?いい報告書にはかならずそれ有る。そしてそれを「相手に選択させる」ようにもってく。相手が自分で選んだ、という形・気持ちにもってく。あとからの反論を防ぐ。
あなたができないって言ってるのはどういう基準で、どういう事実にもとづいてなのか教えてください(まず理解示す)、からの「じゃああなたどうしたらできると思いますか」→わからない→からの、「じゃあこの代替案ではどうでしょう」→どうせそれもムリって言う→からの、できない理由にたいして「なぜ」「なぜ」「なぜ」…からの最後に出てきた答えに対して、「じゃあわたしあなたがいってるその制約はずす動きかけます。そしたらあなたそれ承認してもらえるんですね???」的なロジック
プラン実行に必要になる偉い人、とか他部門のキーマン、かならず会議に引っ張ってくる。絶対逃さない。
…などなど出来る人は、普段意識せずともやっているし、私だって業務遂行上、似たようなことを(レベルはともかく)しているとは思うのですが、この本はそれを「IT業界でよくおきる火事の火消しを専門としたコンサルタント、兼、さいきん私が大学ノートを入手してうれしかったUCLAの先生」であるところの長尾氏が体系的にどういうロジックやツールあるか述べた教科書であり、一家に一冊。備えあるべき本です。
なぜ一家に一冊か。それは、たとえば家庭内で係争が発生したら、友達との関係で何か取り返しつきそうにないことがおきそうになったなら… そんなシチュエーションにもすごい当てはまる、ていうか日々の具体事例にこんな体系的な態度でのぞめば光が見えるのでは…みたいな頭の整理のために、繰り返し参照できる本だから。手に取った人は全員、じぶんなりの何かを念頭において読んでしまうのではないでしょうか。
たとえば、ちょっとしたレベルのだとこんな事が書いてあります。
「ユーザの心理的な受容性を段階的に高めるために、「悪いニュース」は「早めに」かつ「小出しに」報告。(=Bad news FIRST)」
「最初に関連する小さな要求を相手に承認してもらった後で、大きな要求(本来納得させたいこと)を持ち出すと、相手は承諾しやすい(フット・イン・ザ・ドア)(新聞屋がドアに足挟んでまず奥さんに洗剤わたす的な?)」
それから、
よくスポーツ選手、毎日試合の前に自分の帽子のつばの裏に書いてる言葉反芻して、気合入れる。言霊? あると思います。いつもそのこと考えてたら、なんかその方向行きます。
私もそれ一つあります。逃げない
・ごまかさない(できてるかは別)。同じこと、この本に書いてありました。リカバリプランの提案者は逃げ態度、ごまかし態度出したら、いっぱつでNG。人離れてく。みんな、その人の人柄までみてプランを判断する。そのとおりだと思います。
それから、
高校の友だちで、営業マンとはこうあるべきを体現する尊敬してる人いるのですが、けっこう強烈なバイヤーのかたがたと付き合いあるらしく、とにかくコスト叩かれる。さまざまな否定の文言を浴びせかけられることもしばしば。しかし、全部聞くとのこと。だけどいち㍉も効いてないのだそう(聞いてないのか?)。ご意見もっともおっしゃるとおり。納得してますの「演出」は完璧。そして最終的には逆に獲って帰ってくる。鉄の心、をもって自分の要求を通す、不利な合意しない。その意気やよし。この業務にも、なんでも、それ求められます。
また、サッカーの本田さんが、「どれだけ準備できるか」の重要性まえ言ってたのですが、この本でも、背景整理・プラン実行までのベンダ側・ユーザ側への承認ストーリの事前展開(PDPC法というか、フローチャートというか。こうきたらこう、こうきたらこう、ゴールはABCDを想定。優先順位としてA、最悪でC目指す、みたいな。)
それらは要するにどういうことかと筆者がいうのが、そしてそれがなにより刺さるのが、「間に入る存在で、権限を持たないにもかかわらず事態をリカバリ求められる火消し役が何をもって業務遂行、完了もってくか、その武器は「根回し」だ!」という論。しかもその詳細展開。まじ納得。でかい組織内に、会社vs会社に入り込む時に分けてわかり易く書いてある。そんな教科書があるなんて。根回しなんて、いやですよねえーイメージ的に。汚い!みたいな。でもこれが、具体的な手法として非常に重要なのですこの業務においては。いいねーこの本まじで。
他にも、あえて僕この意見しかないんですけど(まちがっててもOK)、他にないですか:わかってないキャラ演じることによる落とし所意見呼び水スタイル
僕分かってないんですけど、もう一回説明もらえませんか:わかってないキャラ演じることによる、相手のロジックの裏にある前提を暗に確認する。そして前提の間違った推論は推論がどれだけ正しくても意味をなさない旨、刺さりに行くスタイル
飛んで火に入りながらも様々な技術や気合いを駆使して解決もちこむ「火消し」の魅力がよくわかりましたが、それを生業とするなら、江戸時代のめ組さながら入墨いれてその職にコミットがいる…などと夢想をくりひろげる昨今です。
以上です。
[CALR]vol.21-2『生き方と哲学』 (パート1)
2013.06.22
『生き方と哲学』鬼界彰夫 2011年 講談社
【パート0】からの続きです
【パート1】
本書では、アリストテレスが『形而上学』で行った分類に従い、人間の活動を「キーネーシス」と「エネルゲイア」に分けて説明しています。
キーネーシスとは、「何かの目的を達成するために行う行動」
エネルゲイアとは、「自分の命の発露」とでもいうべきもので、なにかの目的達成のための行動「ではない」点がポイントなのですが、私では説明が難しいので本文から引用します。
「生の始まる一定の時期に置いて形成し、獲得し、習得した能力の総体としての自分の命を働かせ、自分として有ることであり、諸条件が許す限り自分の命を働かせ続け、自分としてあり続けること」
p.49
これがエネルゲイアだ、というのですが、難しいですね説明が。とにかく、なにかの目的達成のための行動「ではない」点を意識して頂きたい。自分の事を振り返ったときに、「別に何かの目的達成の為に行っているのではない行動」、そういうものがないでしょうか。それがエネルゲイアだと思います。
詳細については、本を読んでいただくのが一番ですが、例として。私だったら ;
「自転車を、他人と競争するのではなく、自己記録更新をめざすのではなく、ただ集中して漕いでいるだけの状態。そしてそれが楽しい」
「家族や友人と他愛のない時間をすごす」「コーヒーを入れる途中」
など、「自分が自分らしくいられる活動やその時間」がエネルゲイアに相当すると思っています。ほかにもエネルゲイアに相当する部分は沢山あります。
さて、詳細は飛ばしてパート1で考えたかったことを2つ書きます。
【パート1で考察したいこと① :人生に目的はない】
本書でも考察されているのですが、キーネーシスとエネルゲイアの観点で言うと、人生はエネルゲイアであるとおもいます。「人生は何かの目的を達成するために行う活動ではない」と思います。よく「人生の意味は何か?何のために人は生きているのか」といった問いかけがありますが、人生に意味はないというか、そもそも人生はなにかの目的を達成するために行う活動ではないのです。目的達成活動ではない活動の目的を必死に問うというのは、倒錯した行為でしかない、というのが私の意見です。
【パート1で考察したいこと② :仕事は基本的に目的達成行動である】
みんな仕事をしているわけですが、仕事は基本的に、各人が社会的に与えられた役割に従い、自分の生の発露(エネルゲイア)を支える(ようするに金などを稼ぐ)ために行う目的達成行動だということです。
本書では、この②がわりと容易に忘れ去られやすい点。またその理由。またそれよって起こる「自ら望んで生きづらい状態に陥る現象」。について考察が繰り広げられています(金&名誉に関する考察)。ここがたいへん面白いので、直で読んでいただきたいです。
とばして結論部からすこし引用します。
「こうした事態を避けるための方法は(…)まず自分と家族の命の本来の働きを支えるためにどれだけのものが必要かを認識することである。そしてそれらを得るために自分はどれだけ働かなければならないかを知ることである」
ここで私は「仕事を怠けろ=与えられた役割を満たすことが不十分でもOK」ということが言いたいわけでは1㍉もありません。「目的」達成のため、必要なのがどれほどなのか認識せよが言いたいことです。必要とする量は、個人個人の生の要求によってかなり異なります。仮に必要に足りなかったらむしろ今よりも働く必要があります。
そういう基本的な原則の上で仕事は行われている点を再度認識したいです(ただし、現実ではおかしなことがいろいろ起きるので、自らの生を支える目的でおこなう仕事という活動を継続していく際には、例えば実務スキル・気合い・勇気…といった、様々な技法が必要とされると思う)
【ひとつの疑問; 仕事は完全に目的達成行動なのか?】
上記のとおり、仕事は基本的には「生を支えるためのものを得る」という目的を達成するための行動ですが、おそらくその仕事という活動のなかに「エネルゲイア的な要素」が全く含まれていないか、と言えば、そうではないはずだ、「仕事でも命の発露的な要素が必ずあるはずだ」と私は思いたい。
※ 全く入っていない方もいるでしょう。
いろいろすっとばしてありていな言葉で言えば、仕事でも、すきなことがなるべく沢山入っていれば、より楽しいということです。そして私はそういう生を生きたいです(そしてそのように仕事をしむけるという目的達成のためには、何かの実務上のスキル・気合い・勇気…などの具体的な技法が必要でしょう)。
今回は以上です
(パート2においては、「上記で書いていることは下流志向・理想および向上心・野心なき思考へとつながる、ひ弱思考」なんじゃないか? という、自らの疑問と対峙してみたいと思います)
[CALR]vol.21 『生き方と哲学』 (パート0)
2013.06.22
『生き方と哲学』鬼界彰夫 2011年 講談社
※ドタバタの中で手に取った1冊の本を読むのに思いのほか時間を要し、久々の投稿となってしまいました。引き続きお付き合い下さい。
【パート0】
かたい読み物がけっこう好きな私ですが、今回読んだのは、ウィトゲンシュタイン研究の第一人者で私が学生時代お世話になった哲学者の鬼界彰夫氏が様々な観点から「生き方」を考察した本です。
「生き方と哲学」…かつて哲学をかじったからこそ、以前の私なら「生き方を説く…? これはうさんくさい」、で片付け、ポイと投げたであろうこの本。「こういうケツの青い話は、学生のうちにでも片付けておけよ」てな内容が書かれているはずだ、とタカをくくっていた訳なんですが、今回、ブーメランと化しかなりの確度で私に刺さってきました。
そんなことが起きたのは現在、なんとなく私に「思考の波」が打ち寄せてきているから。だからのような気がしています。
「思考の波」…それは、私が置かれている状況 ( 社会人となりしばらく経った・結婚した・等々 ) が今までにないものであり、なんとなく「岐路」な気がする…その気分が生み出しているものの事を指しますが、
説明もかねて、本書のはじめ、第一部から文を抜き出してみます。
「我々が生き方に悩むとき、少なからぬ場合に問題は自分の職業(仕事)をめぐる問題として現れてくる。例えばそれは、私はどんな仕事をして生きてゆけばよいのか」「私は今の仕事を続けながら生きていってよいのか」「この仕事を辞めて、私はどのようにして生きてゆけばよいのか」といった思考によって表現される。(…)自分の生き方について悩むという宿命を人間に強いている当のもの、それこそが人間固有の(…)自由である思考の自由である」
「我々の行動、経験、思考、願望は日々積み重ねられ次第に成長する長い砂洲のごときものである。それは常に自由な思考という波に繰り返し洗われ、削られ、変形してゆく。こうした波とその作用を我々は一日たりとも拒めないし、それを通じてのみこの砂洲は我々の「自分」として姿を整えてゆくのである。そして砂洲全体が水没しそうになるといった危機的状況において、思考の波は沈みつつある砂洲全体を、自分のこれまでの生き方として我々に突きつけるのである。」
「他の何が拒否できても、人間は人間であるかぎり、自分の砂浜に寄せる自由な思考の波を拒否することはできない。生き方の悩みが訪れたなら、それから逃れることもできない。それに向きあうこと、それが唯一の受け止め方である」
(pp. 32-36)
忘れてました。マジな哲学というのは基本的に、「ある対象について真剣に、考えに考え抜く」という行為、「ただそれだけなんだけど、本気でマジでそれやります」という行為だ、ということを。それを追いながら自分も真剣にある対象について考えること、これが哲学書を読むことの意義です。
それほど危機的な状況にあるわけではありませんが、なんとなく、自分は今、人生について考えたい欲求があるんだということが分かってきました。そして中途半端でも、その考えた結果を残したい気持ちがあります。
それを本書の内容にそくし、パート1、パート2と分けて書いてみたいと思います。
いったん、今回は以上です。