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未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年1月14日

2012.06.15

 また自宅の縁側。また横たわりながら。また瞑想した後で。でも、今日は横たわり始めた頃、冬の陽が燦々と降り注いでいましたが、やがて雲がかかり始め、陽は陰り、が、瞑想に入っていたので、そのまま体の冷えるに任せながら、横になり続けていました。
 瞑想を終えると、少し薄日が差し始めましたが、陰ったり差したりの繰り返しで、なかなか体が喜ぶまでには降り注いでくれません。こればかりは、仕方ないですね。
 君とお母さんは、まだ沖縄ですね。いったいいつ帰ってくるのでしょう。本当に、帰ってくるのでしょうか?

 まだラーメンと超資本主義の話が途中でしたね。はたして、こんなことを本当に君に伝えたかったのでしょうか?疑問になってきました。それに、ここまで書いてきたことは、書き方は違うけれど、内容的には先に挙げた本『汎瞑想』にすでに書いてある事柄です。でも、ここで中断してしまうのも気持ち悪いので、一段落するまで書き続けます。

—瞑想は、何よりも、その超資本主義的執着から私たちの心、体を解き放つ、脱‐執着的技・行なのです。巨大かつミクロなクモの巣のように張り巡らされた超資本主義的条件=プログラムの網の目から、私たちの存在を脱条件=脱プログラム化する技・行なのです。
 どのようにしたら、瞑想はそんなことを可能にするのでしょう。「止観」によってです。一点に精神を集中し(「止」)、今ここに在ることをありのままに観る(「観」)ことによってです。
 瞑想を始めると、心を一点に集中し、何も考えないでいようとしても、次から次へと雑念・妄念・夢などが襲ってきます。まさに超資本主義的条件=プログラムが心身の表面や奥底に浸透し働きかけた結果、醸成されたイメージやコトバの断片、その連なりが、沸々と湧き出してくるのです。瞑想は、しかし、そうした雑念・妄念・夢の湧出を断ち切るように、あくまで精神を一点に集中するよう差し向けます。僕がやっているヴィパッサナー瞑想では、まず鼻の穴と上唇の間の小さな△に心を集めるようにし、その△の上を流れる呼吸の在り様をありのままに感じ取るように促します。
 最初はもちろん、そのように集中しようと思っても、やはり沸々と雑念・夢が湧いてきてしまって、なかなか集中が続きません。でも、回数を重ねるごとに、徐々に徐々に雑念・夢の湧出が起きなくなり、△の上を渡る呼気の在り様に集中できるようになり、やがては(時計で測ればたぶん)5分10分15分と、全く雑念・夢が浮かばず、△の上の呼気の在り様だけに集中できるようになります。そして、それをさらに深めていくと、△の呼気の在り様をありのままに感じ取りながら、心が完全に、完璧に「止まる」瞬間が訪れます。それが「止」の始まりです。心の完璧な「止」は続いていきます。時間を、世界を、一点で突き通すように、どこまでも続いていきます。そして、その心の完璧な「止」を通して、それ以外のすべて、今ここに立ち現れる世界のすべて、宇宙のすべてが「動」くことを感じ取ります。まさに、森羅万象の諸行無常がありのままに、鮮やかに、感じ取れるのです。心の「止」に、宇宙の「動」が映り込むよう。
 そして、「観」。瞑想を、「止」をさらに深めていく、つまり「止」そのものを、決して動かさず動かされず、ただただ観ていく、観つづけていく。すると、不思議なことに、「止」が「止」でありながら、姿を変えていく、「止」そのものが、「止」の中で変貌していくという不思議な事態に立ち会います。しかも、心はただただその「止」の変貌をありのままに、決して動かしたり/されたりせず、次に何が起こるか「待つ」こともせず、ただひたすら「止」のありのままを「観」つづける。しまいには、「観」るということすら止め、「止」そのものになる、なりきる。
 すると、その後も、実に不思議な体験をしていきますが、それはあまりに筆舌に尽くしがたいので、ここには書きません。にもかかわらず、僕は、そうした文字通り言語を絶する体験を、何とか言葉にして、ノートに書きつけています。それら、奇妙な断片たちを、そのうち、この君に宛てる文の中にも書き入れるかもしれませんが、君がお父さんのことをますます「変人」だと思うかもしれないので、たぶん躊躇するでしょう。

 ここまで書いてきた瞑想、その「止観」の深まりを初めて経験したのは、お父さんの場合、先のヴィパッサナー瞑想の10日間コースの中盤以降からだったでしょうか。一日(食事や休憩をはさみながら)10時間以上も坐れば、お父さんでなくとも(個人差はあるでしょうが)こうした深い経験をするのだろうと思います。
 こんなに深く長くなくてもいい、一日一時間でも、30分でもいいから、ある人が瞑想するようになれば、そのたびに完全な「止」に至ることはないかもしれませんが、少なくともかなりの雑念・執着から解放され、物事が、世界が、ありのままに、澄んだ心で感じ取れるようになるでしょう。そうすれば、何かを食べるとき、何かを聴くとき、何かを見るときなどに、超資本主義的情報・イメージにたぶらかされ、心を濁らされることなく、その「何か」の在り様を、ありのままに、真の意味で「リアルに」感じ取れるのではないでしょうか。
 お父さんは、少しでも多くの人にそうした「リアルな」体験をしてもらおうと、大学の授業でいくつかの瞑想の試みをしてみました。一個の苺を食べることそのものを瞑想する。つまり、五感を全開にして、一個の苺を食べることそれ自体に精神を集中して、そこに起こることをありのままに、十全に感じ取る。あるいは、ふだん何気なく、おそらくは携帯をいじりながら、イヤホンで音楽を聴きながら、友達とお喋りをしながら歩いているキャンパスを、やはり五感を全開にし、歩くことそれ自体に精神を集中しながら、そこに立ち現れる出来事をありのままに堪能する。そうして、「日常」的行為の瞑想を学生たちにやってもらい、その言語を超えた体験をあえて言語化してもらったところ、多くの人たちが「リアルな」体験を、しかも人生で初めてしたようでした。
 お父さんは、瞑想が単に禅寺や僧院だけで、つまり日常から隔離された場で行われるだけでなく(瞑想を深めるにはそうした場も必要であると十分承知しつつも)、日常の様々な場面、歩く、食べる、聴くなどの場面で、その日常の行為それ自体を瞑想することも非常に重要だと思っています。なぜなら、まさに、そうした日常の様々な場面・行為の中にこそ、超資本主義的執着が潜んでいるからです。日常の刻一刻の刹那に、瞑想により超資本主義的執着から解き放たれること、それをお父さんは「汎瞑想」と呼び、先の本のタイトルにもしたのでした。
 君も、汎瞑想ができるような大人になっているでしょうか?

[未来の娘へ]2012年1月13日

2012.06.06

 冬の陽が燦々と降り注ぐ縁側の代わりに、今、冷たい無機質な蛍光灯の白々とした光のにじむ大学の研究室に、やはり寝そべりながら書いています。また、例の手術痕が芳しくないためです。仕方ありませんね。
 君はまだ、お母さんと沖縄。パーマカルチャーのセミナーは終わったのに、お母さんは友達たちと素敵な時間を満喫しているようです。少し羨ましい。そう満喫しながら、彼の地で、エコヴィレッジ的生活を送っている人たちを巡り、自分たちのありうるかもしれない新たな生活の可能性を探ってくれているんです。
 お母さんが送ってくる君の写真を見ると、現地に暮らす子供たちに交じりながら、ますます逞しくなっているような気がします。

 ラーメンの話が中断していました。再開しましょう。
 ―しかし、それは本当に美味しいのでしょうか?彼(女)は、その五感を全開にして、今現に食べつつあるラーメンの滋味を味わい尽くした上で「チョーおいし~!」と感じ入っているのでしょうか?もしかすると、本当は五感を全開にし、澄んだ心で味わえば、さして美味しくない、不味くさえあるものを、「チョーおいし~!」と思い込み、食べているにすぎないのではないでしょうか?前もって見たり読んだりしたラーメン特集、グルメサイトの情報が「おいしい」と告げていたがゆえに、「おいしい」と思いこまされ、そう信じさせられ、遠くまで足を運び、長い行列を作り、またそうした労力を費やしたがゆえに、実際は不味いラーメンを口にしながら、「チョーおいし~!」と悦に入っている。そんな、傍から見れば滑稽でしかないことを、多くの人が、ラーメンのみならず、あらゆる食べ物、食べ物のみならず、あらゆる生活・文化の消費財に対して行っているのではないでしょうか?
 彼らの五感、欲望は、隅々まで、超資本主義の張り巡らす情報・記号・イメージの網の目に、そうと知らず、絡め取られ、突き動かされ、超資本主義的「チョーおいし~!」を、超資本主義的「チョーかわい~!」を、超資本主義的「チョーいけてる~!」を、消費しているにすぎないのです。私たちは、だから、超資本主義的情報・記号・イメージに「執着」しきって、生き、食べ、着て、観ているにすぎないのです。

[未来の娘へ]2012年1月12日

2012.05.27

 私たちは、「人間」として世界を、自分を、他者を知覚し、認識し、行動しながら、生きている。「人間」としての条件=プログラムに則り、その無数のミクロな「構造」によって知覚させられ、認識させられ、行動させられながら、生きている。それは、確かに「人間」として生きるには、全うであり、豊かでさえあるでしょう。しかし、それは逆に見れば、私たちの存在、生を、「人間」として限定する、つまり「人間」として以外のやり方で、世界・自分・他者を感じ、認知し、行為する可能性を捨て去る、ないし抑圧することを意味しないでしょうか?
 瞑想は、ある種の心身の修行により、そうした私たちを「人間」として限定し可能としている条件=プログラムから、私たちの存在・生を脱出させ、解き放ち、「人間」として以外の世界・自分・他者との関わりを開き、生きるよう促す技なのです。
 ところで、現代に生きる地球上の多くの人にとって「人間」の条件=プログラムとはなんでしょうか?それが、資本主義、超資本主義なのです。私たちはもちろん皆が皆、毎日毎日金儲けに血眼になっているわけではない。むしろ「先進国」でさえ、ますます経済的に困窮している人たちが増えている。しかし、そうした人たちさえ、彼らの生存を可能にしている社会的・文化的・実存的条件=プログラムのほとんどは、「経済」を溢れ出して隅々にまで行き渡る超資本主義のクモの巣のような巨大かつミクロな網の目でなくてなんでしょうか。テレビを見る、携帯を操る、パソコンを打つ、あるいは単にラーメンを食べる、服を着る、道を歩くのさえ、私たちは超資本主義的「人間」として食べ、着て、歩いているのです。
 例えば「おいしい」ラーメンを食べるとき、私たちは、前もって、テレビや雑誌のラーメン特集、インターネットのグルメサイトなどで、「おいしい」ラーメン屋を探し出し、その情報・評価を読み、そして店の前で行列し、ついに席に座り、「おいしい」ラーメンを食べる。そして「チョーおいし~!」と悦に入る。

[未来の娘へ]2012年1月9日

2012.05.18

 今、縁側に寝そべっています。
 冬の陽が、燦々と、降り注いでいます。あったかい。空はどこまでも青く澄み、宇宙の果てに突き抜けそう。
 君は今、お母さんと一緒に、沖縄にいるはずです。ここ1週間、沖縄は天気が悪かったようですが、今日はどうでしょう?
 君とお母さんは、パーマカルチャーの勉強のために、彼の知にいるはずです。まだ2歳にもならない君は、いったい何を学んでいるのでしょう?きっと僕には及びもつかないようなことを、新鮮な、どこまでも新鮮な驚きとともに、感じ、学んでいることでしょう。Sense of Wonder。目をきらきらとさせ、耳をそばだて、舌鼓を打ち、鼻孔をいっぱいに膨らませながら、沖縄の太陽を、風を、海を、大地の実りを、大人たちの言葉を、体いっぱい味わっていることでしょう。
 お父さんは、今日から、君に伝えたいこと、言葉を、このノートに書き留め、君がこれを読み、理解し、感じ入れるようになるまで、続けてみようと思います。なぜ、こんな心境になったのでしょう。新年を迎えたからでしょうか。人生の残りの時間が限られているからでしょうか。君が今たまたま長期不在だからでしょうか。そのどれでもありそうだけれど、よくわかりません。
 ただ、今、人生のこの時期に、本当に大事なこと、貴いことを書くとしたら、君に宛てたいと思っただけ。お母さんが嫉妬するでしょうか。いや、君に宛てるということは、君をこの世にあらしめてくれたお母さん、最愛の女(ひと)にも宛てています。お母さんがいなければ、お母さんと出会っていなければ、君も今この世にいないのだし、お父さんも今在るお父さんではなかったし、従って、こうした言葉を君に宛てることもなかったでしょう。
 僕が、親しい人たちに、冗談まじりに言うように、お父さんとお母さんは「遺伝子的出会い」なのだから、君も遺伝子的運命を担っているにちがいありません。その「運命」を、これからの人類にとって、文明にとって、君が存分に活かし、生き尽くすであろうこと、それを、僕もお母さんも、君が宿った刹那、君が生まれた瞬間、そして君が日々生きている折々に、深く感じています。だから、今、君は遠い沖縄の地で、大人にまじり、パーマカルチャーなどを学んでいるのでしょう。

 ノートの白い表面に、冬の陽のかげろうが淡い陰翳を映し、立ち上っています。なぜ、僕は今、縁側なぞに寝そべっているのでしょうか。瞑想をしていたんです。陽を、そのエネルギーを、燦々と浴びながら、瞑想をしていました。本当は坐りたかったけれど、2年少し前に手術した痕が疼き芳しくないので、仕方なく横になりながら、瞑想していました。書くのも、寝ながらです。
 お父さんは、数年前から瞑想をしています。たぶん本格的に始めたのは、7、8年前。この世界で長年修行していた或る人に勧められて、京都府の丹波というところで、ヴィパッサナー瞑想という瞑想を、10日間コースで行いました。大変でした。人生の中でも、最も辛く痛い瞬間、時間を、過ごしました。でも、辛く痛い分だけ、あるいはそれ以上に貴重な、そして至福とも言えるような経験をいくつもしました。どんな経験だったか?その詳細は、今準備中の本『汎瞑想』に書いたので、興味があったら読んでみてください。経験した人にしか本当にはわからないことが、いろいろと書いてあるので、君が読んでもチンプンカンプン、奇妙に思うだけかもしれません。あるいは、もしかすると、それを読む頃には、君も瞑想を経験していて、すんなりと頷けるかもしれません。
 (陽も翳ってきたので、部屋に入ります。美味しいリンゴのタルトと紅茶をいただきました。)
 なぜ、瞑想をやっているのでしょう?そこに、文明史的意義があると、思っているからです。詳しくは、先の本に書いてありますが、簡単に言うと、この通りです。
 この、少なくとも200年もの間、人類の多く(ますます多く)は、資本主義というものに取り憑かれています。資本主義とは何か? それは、他人より、そして現在の自分より、1円でも1ドルでも多い貨幣を所有したいという欲望が競い合って駆動する社会システムです。それは、キラキラと観念的に、硬貨の向こう、紙幣の向こう、カードの向こう、コンピューターの画面の向こうに煌めく「何か」に魅せられ、惑わされ、「執着」する心が、その輝きをさらに増やそうと、さらに眩いものにしようと、他人を騙し、出し抜き、あるいは自分の現在の生の享受すら抑圧して、作り上げているシステムです。
 近代のヨーロッパという時代的にも地理的にも限定された場で生まれたこの「経済」システムは、その後、20世紀を通して、全世界的に広がり(「グローバリゼーション」と呼ばれます)、そしてそれ自体「経済」という本来の領域から溢れ出して、他の社会・文化領域、そして日常の生活の微細な襞にまで浸透し尽くしました。限りなくグローバル化しミクロ化する資本主義。それを「超」資本主義と呼ぶこともできるでしょう。
 君が、今生きている社会・生活は、この超資本主義によって全面的に覆い尽くされているのです。私たちの一挙手一投足が、この巨大で微細な不可視のシステムに絡めとられ、突き動かされています。無限大かつ無限小に広がるクモの巣のように。
 この尊大かつ狡猾なクモの巣から逃れる手立てはないのでしょうか? それから「真に」逃れる可能性を有するものこそ、瞑想だと思うんです。なぜでしょうか? それは、瞑想が何よりも脱「執着」の技であり、知恵であるからです。
 瞑想とは何でしょう? それは、人間が自らの生存の条件から脱する「脱条件」=解脱の技・行です。人間は、「人間」として生きるために、様々な、無数と言っていい「条件」、プログラムを学習します。言語はもちろんのこと、箸の上げ下ろしから、排便の仕方、二足歩行に至るまで、人間はそうした条件=プログラムを学習しない限り、「人間」として生きていくことはできません。(狼に育てられた子どもは、二足歩行すらできなかった話は有名です(J.M.G.イタール『新訳アヴェロンの野生児』、中野善達・松田清訳、福村出版、1978年参照)。
 昔、シモーヌ・ド・ボーヴォワールというフランスの女性作家が、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」といったのと同様、人間は生まれつき「人間」として生まれるのではありません。「人間」になるのです。(君はまさに今「人間」になりつつあります。うれしいが複雑な心境です。でも、一度「人間」という条件を学習しなければ、脱条件の幸福も味わえないわけですから、それほど悲しむことはありませんね。)
 人間は、「人間」としての条件=プログラムを学習することにより、「人間」になる。しかし、それを翻って見ると、逆に人間は「人間」としてしか生きられない。条件=プログラムに則って生きている限り、「人間」以外のものとして生きる可能性を捨てているとは言えないでしょうか?

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