Top > Media > 未来の娘へ

Media

未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年10月某日(1)

2012.10.10

 今日は、青が空を突き抜けています。
 昨日から今朝にかけて、強烈な台風が日本列島を駆け抜けていきました。
 きみは、「ば〜ばちゃん」の家にお泊りに出かけていきましたね。これから迎えに行くところです。

 以下の文章は、6年前に書いたものです。当時『遺言書』と名づける予定だった本を出版しようと思っていて、その序文として書いたものです。その本は、結局いろんな事情で出版することができず、この序文も宙に浮いたままでした。最近(今年の3月)、その本文になるはずだったものを大幅に削り、書き直し足して、『汎瞑想』という本としてようやく出版することができました。ただし、『汎瞑想』は、かなりアカデミックな枠組みで出版しなくてはならなかったので、この序文を採録することはできませんでした。
 つい最近、何とはなしに、この序文を読み返してみたら、もちろん、これを書いた当時は、きみの誕生などまったく予想だにしなかったにもかかわらず、あたかも「未来の娘」に宛てている「遺言」であるような気配が濃厚なのです。もしかすると、僕の遺伝子にすでに懐胎していたきみに宛てていたのかもしれません。
 そこで、少し長いのですが、これからそれを連載していこうと思います。

***

 私は、もうすぐ、死にます。
 つい最近、47歳になったので、仮に平均寿命まで生きたとしても、残りはおよそ30年。元気に仕事をし、活動できるのも、長くてせいぜい20年くらいでしょう。でも、これも、私が平均寿命まで生きたと仮定しての話で、もしかすると、残された時間はもっと少ないかもしれない。あるいは、長いかもしれない。いずれにしても、私の余生、いや「残生」というべきでしょうか、は、確実に限られているのです。その「限られている」という事実を、数年前から非常に具体的に感じるようになりました。生々しいほどまでに、「残された」時間、「限られた」生が、感じられるようになったのです。
もっと若いときにも、折に触れて、生の限界、死の不可避性などについて悩んだものでした。しかし、それは、今の具体性、生々しさに比べれば、良くも悪くも形而上学的であったがゆえに抽象的な悩みだったように思います。哲学的なアポリアの一つについて、歳相応に、実存的かつ存在論的に懊悩していただけにすぎなかったのかもしれません(それなりに真剣でしたが。)現在感じる、限られた時間の生々しさは、全く異質なものです。こういっては失礼かもしれませんが、何らかの病のために死期を宣告された人たちの感じる生々しさと同質的な感じすらします。この具体的に限られた時間の中で、何をなすべきか、何ができるのか、何がしたいのか。これまでの46年間の人生の中で行ってきたことからすると、残りの20年(?)ないし30年(?)でできることは、ごくごく限られたことのように思われるのです。
 30代は、とにかく面白そうだと感じたことは、可能なかぎり飛びつき、あるいは自分から作り出し、とにかく結果を恐れず実践していたものでした。そのほとんどが、単なる自己満足に終わらず、社会的にも意味ある活動だったように自負しています。しかし、それなりにほとんどすべてが(自分にとっても社会にとっても)面白く意味あることだったとしても、ふと気がつくと、あくまで「それなりに」であり、「ほぼ」満足できる活動ばかりでした。いつしか、その「それなりに」や「ほぼ」が、真綿のように首を絞め始め、このままでは人生そのものが、「それなりに」「ほぼ」満足のいくものにしかならないように痛感されました。このままでいいのだろうか、と事あるごとに悩み始め、でもその悩みをあざ笑うかのように、毎日毎日「それなりに」「ほぼ」面白く意味あることが起こり続け、その微温的快感に酔いしれていました。

 

(つづく)

[未来の娘へ]2012年6月某日

2012.07.22

 体のなかに、降り注ぐ雨音が沁みわたり、鳥のさえずりが、澄みわたっています。
 朝まだき高原のロッジに、寝そべりながら、書いています。
 清里。きみも来たことのある清里。
 お父さんは、あるワークショップのために、一人来ています。

 今朝、例のように、四時半頃目が覚めると、携帯に、お母さんから、何とも辛かったであろう、だからこそ何とも嬉しかったであろう出来事についてのメッセージが入っていました。それを寝ぼけ眼で読みながらも、お父さんも、目頭を熱くしました。
「今日ははじめて、一日中パイパイのことで泣きませんでした。
 お風呂では『ちっちゃい赤ちゃんがくるまでお休みしてねーばいばーい』と。
 夜寝るときにはいつものように『パイパイ〜』の代わりにとっても穏やかな声で『まーま』と微笑みながら眠りにつきました。
 ちいさなからだとこころで、すべてを受けいれてくれたようです。
 そして私のおっぱいは、もう一滴も出なくなりました。
 お布団のなかでひとり涙なみだの卒乳式です。
 最後の身体的繋がりから放たれることで、『母子』から『親子』という新たな精神的信頼関係を結んでいくのですね。
 卒乳を支えて励ましてくれてありがとうね。」
 
 一昨日、お父さんは、君たちの元を去り、こちらに来たのですが、その二日前から、お腹のなかにきみの「妹」―「ちっちゃい赤ちゃん」ときみが呼び、お父さんが「男の子?女の子?」と尋ねるといつもきみが「女の子」と答える赤ちゃん―がいるせいでしょうか、お母さんのおっぱいが出にくくなり、お母さん自身もきみに吸われると、今までにないような痛みを覚えるようになりました。いよいよ「卒乳」の時が来たな、と思ったものでした。
 お母さんによっては、おっぱいに恐い顔を描いたり、辛い食べ物を塗ったりして、無理に「断乳」する人も多いようですが、きみのお母さんはなるべく自然にきみにおっぱいを卒業してもらいたい、それまでは存分に吸わせてあげたいと、きみの欲するがままに任せていたのでした。
 「ちっちゃい赤ちゃん」の誕生がわかった頃からでしょうか、きみとおっぱいとの関係が変わってきたように感じました。「卒業」を予感しはじめたのか、これまでになく執着し出したようにみえました。
 この世に生まれてから今まで、最も大事な生命の源だった「パイパイ」(きみはこう呼んでいました)。母との最も根源的なコミュニケーションの場であったパイパイ。それを、もしかしたら、一生涯、金輪際、失ってしまうかもしれない恐怖。限りない不安。それが、強烈な執着を生み出しているようでした。
 そして、ついに、お母さんが、あまりの痛さから「卒乳」を決意した日。それは、お母さんの意に反して、きみが自然と自ら欲して(諦めて?)「卒業」していく形ではなく、半ば自分の身体の不調からお母さんがやむなく決断したものになってしまいました。まだ、執着が捨てきれないどころか、逆に未来永劫失うことへの不安と恐怖の只中にあるきみは、パイパイを乞い、でも拒絶されるたびに、今まで見たことのない激しさでもんどり打ち、文字通り手の付けられないほど、悶え苦しみ、お母さんもあまりの苦渋に全身を歪めていました。お父さんは、そんな二人を前にして、何の手の施しようもなく、ただただ二人の頭をなでたり、体を抱きしめたり、無力でした。
 そんな最中、二人の元を去らなくてはならなかった。さぞかしお母さんは遣る瀬なかったことでしょう。
 そしてついに、このメール。そして「卒乳」を二人で祝った「卒乳ランチ」の写真。
 なにか大いなる宿命を、受け入れあった―それまでの堪え難いまでの苦悶を共に乗り越えあった「同士」のように、晴れ晴れとした「記念写真」。
 これもまた一つ、きみの「旅立ち」なのでしょう。

 

IMG_0698.jpg

[未来の娘へ]2012年6月某日

2012.07.08

 最近、きみは、虫に興味を持ちはじめました。
 ある朝、玄関先で、いつものようにダンゴ虫や蟻の挙動に釘付けになっていました。「ワッ!」とか「いっぱいいる~~!」とか、感嘆の声を挙げながら。
 ふと、傍らを見ると、庭土を覆う苔の上に、毛虫が――黄と黒で異彩を放つかなり大きな毛虫が、まどろんでいました。「あっ、毛虫!」と僕が思わず叫ぶと、きみはそちらに目を向け、恐々と、でも興味津々といった様子で、少しずつ近づいていきました。
 「きもちわる~~い!」と繰り返し、でもじっと見つめつづけたあと、やにわに「かわいい!」と、そしてなんと「笑ってる!」と、つぶやいたのです。
 ハッと、しました。毛虫=気持ち悪いもの=害虫としか思っていなかったお父さんの心に、きみの「笑ってる!」は、なんと爽やかな一陣の風を吹きかけてくれたことでしょう。いや、爽やかどころか、どこまでも透きとおった清水を浴びせかけてくれたのでした。
 僕が、日々、きみが一人前の(?)「人間」になるために、お母さんや、その他の家族とともに、きみに、ごはんの食べ方、おしっこの仕方、あいさつの仕方、服の着方・脱ぎ方など、ありとあらゆることを「教えて」います。こちらが教えているつもりのないことまで、きみは器用にあるいは不器用にまねをし、言葉を発し、道具を操り、歌い、踊っています。
 でも、そんな合い間、きみは逆に、僕たちに、忘れかけていた、がおそらく僕たちもきみの年頃には抱いていた感覚の鮮やかさ、Sense of Wonderに、改めて気づかせてくれるのです。たぶん、ぼくも同じ年頃に、毛虫を見て、「笑ってる!」と感じたのかもしれません。だからこそ、ハッとしたのかもしれません。

 きみは、最近急激に「自然」に強い興味を持ちはじめた、いや、自然への漠とした、でも大いなる“怖れ”が少しずつ薄れ、個別の事柄に強く引きつけられている感じがします。
 もしかすると、きみが最近「なかよし会」に通いはじめたからかもしれません。
 「なかよし会」は、1985年に数人のお母さんたちが鎌倉に立ち上げた青空自主保育の集まりです。鎌倉の谷戸や海の豊かな自然に、子どもたちを解き放ち、彼(女)たちが自然と直に向き合い、格闘し、戯れることによって、自然から自ずと学ぶ。子どもが転ぼうが、崖から滑り落ちようが、泥にまみれようが、大人たちは(原則として)一切手を出さない、口を出さない。子どもたちが喧嘩を始めても、決して仲裁することなく、子どもたちが自ら状況を収拾するのをじっと待つ。そうした徹底した見守りと、子どもたちの(文字通りの)自主性と協調性、自然からの自発的な学びを哲学とした保育です。
 きみは、この「なかよし会」に二か月前から通い始めました。その数か月前に、僕とお母さんは、きみの「見学会」(実質は体験入学でした)に同伴しました。確か、その時は(1・2歳児の)「小さい組」と(3歳児の)「大きい組」の混成グループで、20数人の子どもがいたでしょうか?通常は、各組に一人の保育者と二人の親が同伴するそうです。この日は、「見学会」なので、僕たちを含めて、かなりの数の親(主に母親)が付き添っていました。
 ある大手のシンクタンクの元本社で、今や廃墟と化している敷地跡がスタートです。その荒れ果てた裏庭(だったらしい)空き地で、保育者が泥団子を作り始めました。多くの(すでに通いなれている)子どもたちは、受け取って、食べる真似をしつつも、実際に口の中に入れたりはしません。自分の娘はとみると、何の気なくガブリと食いついてしまいました。途端に、顔が歪み、泣き出しました。口の周りも中も泥だらけ。拭き取ってあげたくても、口の中まではなかなか拭けません。第一、手を出さないのが原則です。まさに「自然の洗礼」でしょうか。この「洗礼」を受けていない子は、大概まずはガブリといくそうです。でも、同時に、実は、親としてハラハラもしていました。放射能は大丈夫だろうか? この会は、もちろん人一倍環境への意識も高いので、独自に専門家に依頼し、活動に使う主なポイントの線量を測ってもらったそうですが、それでもなお、すべての地点を測ることなど不可能なので、不安は拭い去れません。自然の生命からの学びのはずが、もしかすると反‐生命への危険を孕んでいるかもしれない。自然と人間との根源的な関係に大いなる矛盾・脅威を突きつけるこの放射能=原発事故という大問題。この会に参加する限り絶えず付きまとう問題でしょうから、本格的に参加した暁には、親たちと真剣に議論したい問題です。

 しばらく歩くと、開けた広場のような空間に出ました。昔、グラウンドだったのでしょうか。子どもたちは思い思いに、走り回ったり、小山によじ登ったり、木々と戯れたりしています。娘はと見ると、見知らぬ子どもたちの自由奔放なふるまいに、ただ呆然と立ち尽くすばかり。状況にどのように関わったらいいのか、とじっと観察し、戸惑っています。見かねたのか、ある年長の(3歳?)の男の子が近づき、娘を促します。一瞬ためらった娘も、次の瞬間には男の子に手を取られ、他の子どもたちの奔放な戯れの中へと旅立っていきました。そう、それはまさしく「旅立ち」でした。生まれて初めて「親との世界」から離れ、未知の“外”の世界へと旅立っていきました。その男の子に手を取られながら、背を向け、遠のいていく後姿を見るにつけ、これからやってくるであろう無数の「旅立ち」を予感しました。それは、今まで、自分が人生で味わったことのない「親」としての感情でした。

 次は、けもの道に分け入っていきます。大人でもためらってしまうほどの急坂や崖。小さい子たちや、慣れていない子たちは、皆泣きじゃくり、でも大人でも容易でない急な斜面を必死に這い登る、いや、絶えずずり落ちながらも何とか懸命に、岩の出っ張りに足をかけ、木の根の節に縋りながら、よじ登っていきます。まさに人間としての、いや動物としての「本能」が、何とか生き延びようとする本能が全開しています。感動すら覚えます。
 しかも見ていると、どうしてもよじ登れない小さい子がいると、大きな子が手を差し伸べ、引っ張り上げたりしている。もちろん誰か大人に指図されたわけではなく、ごく当たり前にそうしている。涙さえ出そうになります。
 毛虫が「笑ってる!」同様、大人の僕の奥底に食い込む光景です。
 まさに修験道、そう、それはまさに修験道を思わせます。僕は、去年の夏、生まれて初めて出羽三山で三日間の修験を経験しました。他人から誘われ、興味本位で何気なく参加したのですが、興味本位を遥かに凌ぐ強度と厳しさで、僕を打ちました。出羽神社の2500余りもの石段、足元を一歩間違えれば谷底に転落しかねないほど傾いた月山の雪原、雪解け水そのままの滝に打たれる滝行、無数の蚊に瞬く間に襲われる湿地での「休憩」、湯殿神社の巨岩の頂からこんこんと湧き出る妖艶な温泉、などなど。50年の人生の中で最も過酷で、最も魅惑的な自然の力に圧倒されました。
 今、目の前で、子どもたちの体に漲っている本能に、その体験は生々しく共鳴しています。その本能こそ――それはもちろんある程度まで「人間化」されたものでしょうが――、私たちがまさに「人間」になるにつれ、忘却・抑圧していってしまう、が、本来は私たちが自然の中で生き延びていくのに根源的な力なのにちがいありません。

 きみは、そんな「なかよし会」に、毎週二回ずつ通い始めています。日々、家にいても家具などによじ登るのがうまくなり、散歩に出かけても「だっこ~!」と甘えることが減り、虫をつかむのも平気になってきています。おそらく、きみは、会を、会での体験を、数々の自然の不思議、過酷さ、きらめきを、仲間との戯れ、諍いを“楽しんで”いることでしょう。でも、本心はどうなのでしょう? 心底から楽しんでいるのでしょうか? もちろんそうなら、お父さんとしても心底から、参加させてよかったと思います。でももし、たとえば辛いだけでまったく楽しめない楽器のレッスンやスポーツの練習を、親が強く望んでいるからこそ、それを察してあたかも「楽しんで」いるかのように、親に対してふるまってしまう(お父さん自身、ラグビーでそうした苦労をしました)。きみの中でそんなことになっていなければ、もちろん心底うれしい。
 これからも、きみのことを、きちんと見守っていきたいと思います。

[未来の娘へ]2012年7月某日

2012.07.02

IMG_0714_2_1.f4v お父さんは、先日、お母さんと大飯原発再稼働に反対するデモに行ってきました。以下は、そのレポートです。きみは、出掛けに紫陽花の花束をつくってくれました。ありがとう。


***


 "何か"が、起ころうとしている。この国で、長く長く"政治"に麻酔をかけられていたこの国、この民の中で、"何か"、そう"政治"が目覚めようとしている。
 6月29日。首相官邸前。二歳の娘が手向けてくれた紫陽花の花束を掲げもつ妻とともに、私は「デモ」の中にいた。脱原発デモに参加するのは、初めてだった。
 夕方6時頃、着いたろうか。人々は、三々五々、静かな熱気を秘めながら、集まりはじめていた。
 暮れなずむ空は、梅雨時には珍しく、清々しい青に澄みわたっていた。
 私たち、人々は、整然と立ち並ぶ警官たちに誘導されながら、漫ろに、首相官邸正門を臨む歩道に、佇みはじめる。「NO NUKE」「再稼働反対」「原発はいらない」など、手に手に、思い思いの意匠を施したプラカード、弾幕、旗を掲げている。合間に、紫陽花の紫、薄紅(くれない)、薄緑がかった白が、漂う。誰が名づけたか「あじさい革命」。
 それにしても、行儀がいい。「デモ」のはずなのに、警官たちに守られ、大通りの路傍、「歩道」の上に、大人しく佇む人々、私たち。
 世界的に見て、これほど「行儀のいい」デモは希有だろう。これが「デモ」なのか? ヨーロッパやアメリカで、広い街路を埋め尽くす人の群れを見慣れた目には、やはり異様な光景に映る。
 そんな大人しい人々の群がりのなか、私も大人しく立ち尽くす。
 デモの「主催者」と思しき人たちも、(デモに関係のない)一般の人々の通行を妨げぬよう、あるいは車道に人が溢れ出ぬよう、「秩序」を呼びかけている。
 警官、参加者、主催者こもごも、行儀よく、一つの「和」に己を嵌め込もうとしている。またしてもか?
 徐々に、空が青を失い、薄闇に滲んでいく。とともに、人々の数も増えはじめ、「再稼働反対!」というシュプレヒコールも、じわじわと音量を上げていく。
 本当に雑多な人々だ。出で立ち、顔つき、年齢、国籍、実に様々な人たちが、立ち並び、行き交い、叫び、黙し、その場に、いる。携帯で一眼レフで写真を撮る者、スマホでプロの機材で動画を撮る者、あちこちで様々な人が様々な人にインタビューし、拡声器で肉声で「再稼働反対!」「原発は犯罪!」「野田辞めろ!」と叫び、手を振りかざし、官邸前の虚空に、虚空を隔てたこの国の元首に、訴えつづける。(元首は「大きな音がしてますね」と宣ったとか。)
 波動――こらえながらも渦巻くエネルギーの波のようなものが押し寄せ、満たし、溢れ、引き、また寄せ返し、人々を、いや増す人々を、少しずつ、ほんの少しずつ、前へと前へと、突き動かしている。車道の方へと、警官たちの張る黄色い非常線へと躙りつつ、少しずつ少しずつ、人々の熱の、怒りの、黙した、断固とした波の圧力が、静かに静かに強さを増し、迷いを、ためらいを、恥じらいをかなぐり捨て、自己の力を確信していく。
 なおも、その自信に満ちはじめた波を押しとどめようとする警官たちも、少しずつ少しずつ後ずさりし、せざるをえず、ついには、なんと、非常線の黄色いテープを手放してしまう。車道へと、公道のただ中へと、人が、人が、溢れ出し、広々とした交差点を半ば占拠せんとする。シュプレヒコールが、一段と高まり、凱歌を揚げんとする。
 いいのだろうか? こんなことが起きていいのだろうか? この、行儀のいい、世界で一番行儀のいい国で、しかも首相官邸前の公道で、起きていいのだろうか? 熱いものがこみ上げてくる。
 と、どこからともなく、装甲車が、一台、二台、三台と現れ、私たちの群れと官邸の間に立ちはだかる。屋根に、赤いサイレン灯がくるくると点滅している。

 突然、40数年前の光景が蘇る。神田神保町は駿河台下の交差点。私は、夕方、母と都電に乗っていた。古本屋街を抜け、交差点に差しかからんとする瞬間、突如、左の大通りから無数の若者たちが溢れ出し、雄叫びとともに、火炎瓶を、右手に陣取る機動隊めがけて、投げつける。突然の擾乱を目前に、都電は立ち往生。生まれて初めて見る尋常ならざる光景に、震えおののきながら、私と母は、都電は、騒乱が鎮火するまでひたすら待っていた。
 

 装甲車を背に、「主催者」が、壇上から、必死に、落ち着くよう落ち着くよう、群衆に呼びかける。が、声は、辺りの叫喚にかき消され、ごく近くの者たちにしか届かない。次から次へと、人人人の群れ、流れが、そんな声に頓着なく、装甲車の方へと、官邸の方へと、にじり寄り、エネルギーの厚みを増していく。それでも、さらに必死に呼びかけつづける「主催者」。どうなることか?
 私と妻は、そんななかを、後にした。


 主催者発表で、10~20万人。はたして、この国で、本当の"デモ"が、本当の"政治"が目覚めつつあるのだろうか? あじさい"革命"となるのだろうか? 私は、そう信じたい。


demo.jpg

[未来の娘へ]2012年1月31日

2012.06.27

 しばらく、未来の君に言葉を宛てることを中断していましたね。
 ついに、君たちが沖縄から帰ってきて、また家は賑わいを取り戻しました。それに伴ってか、来客が相次ぎ、なかなか書く時間がとれませんでした。
 君たちは、沖縄で、いろんなところに行き、いろんな人と出会い、いろんな素晴らしい体験をしたようですね。空港で久しぶりに再会すると、二人とも元気に満ち、何か淀んだものが落ちたかのようにすっきりした顔立ちをしていました。何年もお湯を取り換えていないという怪しげな薬草風呂のおかげで、肌荒れがひどかったお肌も、文字通り赤ちゃんの肌のようにすべすべになっていましたね。沖縄の「気」と「霊」をふんだんに浴び、心身の全細胞が活性化されたのでしょう。帰りを待ちわびた甲斐がありました。

 ところで、今日、ある雑誌のインタビューのために、ある高名なファッション・デザイナーに会いました。
 会う前から、彼の書いたものなどを読むにつけ、同じ「人種」の匂いを感じていました。案の定、そうでした。向こうも、会って、二言三言交わすうちに、そう直感したらしく、その後のインタビューも、かなり深い、おそらくは他のインタビューでは(特にファッション誌では)漏らさないような、かなり彼の生に食い込んだ話が聞けました。
 正味1時間半くらいのインタビューでしたが、いろいろと印象深い言葉やエピソードの中でも特に僕に響いた言葉は、「体を張る」という言葉でした。
 この人は、何十年もずっと「体を張って」仕事をし続けている、その、他に選択の余地のない生き方に、素直に感銘を受けました。「体を張って」為すことだけが、「本物」。それ以外のことは、嫌いだし、そもそも出来ない。そんな常に真剣勝負の気迫に、70歳にならんとする今も、満ちていました。
 でも、その気迫を、決して他人に押し付けるのでもなく(少なくとも僕にはですが)、あくまで自分の人生の「性(さが)」として、そういう働き方、生き方しかできないことを、生き尽くしている美しさがありました。
 彼は、若い頃から柔道や空手をやっているようですが、そうした武道の文字通り「体を張る」気迫が、自然と彼の生に、仕事に乗り移り、一挙手一投足が真剣勝負と化しているようでした。
 翻って、自分を見たとき、はたして自分はそれほど体を張って仕事をし、生きているだろうか。確かに、一時的、断片的にはそうすることはあっても、彼のように始終体を張り続けるとは、到底言えない。何か、自分の中に、そうした生・仕事=真剣勝負から身をかわす「ぬるさ」があり、そこに知らず知らずのうちに逃げ込んでいる。大学の授業や研究、三田の家などの様々なプロジェクト、今度始めたNPOミラツク、はたまた瞑想やヨガにしても、体を張るのは、常時ではなく、一時的に、器用にしてしまっている。
 何年も前に気づいたように、「かなり」「ほぼ」体を張っているつもりでいるが、「かなり」「ほぼ」である限り、真に「体を張って」いることにはならない。「かなり」「ほぼ」を突き抜けるためには、どうしたらいいのか? もっと「バカ」になるべきか? もっと切実な何かが訪れるべきか?
 いずれにしても、真に、常時、「体を張って」仕事と、人生と格闘しない限り、「本物」の仕事、「本物」の人生は、為し遂げえないのだ。ということが、今日の出会い、インタビューでよくわかりました。それに改めて気づかされただけでも、今日、彼と出会えて、良かったと思います。真に「体を張って」、何十年も仕事をし、生きてこなければ、世界から認められるクリエイターにはなりえないことが痛感できました。
 「体を張る」、自分に改めて言い聞かせたい言葉、そして未来の君にも送りたい言葉。

TOP