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未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年6月某日

2012.07.08

 最近、きみは、虫に興味を持ちはじめました。
 ある朝、玄関先で、いつものようにダンゴ虫や蟻の挙動に釘付けになっていました。「ワッ!」とか「いっぱいいる~~!」とか、感嘆の声を挙げながら。
 ふと、傍らを見ると、庭土を覆う苔の上に、毛虫が――黄と黒で異彩を放つかなり大きな毛虫が、まどろんでいました。「あっ、毛虫!」と僕が思わず叫ぶと、きみはそちらに目を向け、恐々と、でも興味津々といった様子で、少しずつ近づいていきました。
 「きもちわる~~い!」と繰り返し、でもじっと見つめつづけたあと、やにわに「かわいい!」と、そしてなんと「笑ってる!」と、つぶやいたのです。
 ハッと、しました。毛虫=気持ち悪いもの=害虫としか思っていなかったお父さんの心に、きみの「笑ってる!」は、なんと爽やかな一陣の風を吹きかけてくれたことでしょう。いや、爽やかどころか、どこまでも透きとおった清水を浴びせかけてくれたのでした。
 僕が、日々、きみが一人前の(?)「人間」になるために、お母さんや、その他の家族とともに、きみに、ごはんの食べ方、おしっこの仕方、あいさつの仕方、服の着方・脱ぎ方など、ありとあらゆることを「教えて」います。こちらが教えているつもりのないことまで、きみは器用にあるいは不器用にまねをし、言葉を発し、道具を操り、歌い、踊っています。
 でも、そんな合い間、きみは逆に、僕たちに、忘れかけていた、がおそらく僕たちもきみの年頃には抱いていた感覚の鮮やかさ、Sense of Wonderに、改めて気づかせてくれるのです。たぶん、ぼくも同じ年頃に、毛虫を見て、「笑ってる!」と感じたのかもしれません。だからこそ、ハッとしたのかもしれません。

 きみは、最近急激に「自然」に強い興味を持ちはじめた、いや、自然への漠とした、でも大いなる“怖れ”が少しずつ薄れ、個別の事柄に強く引きつけられている感じがします。
 もしかすると、きみが最近「なかよし会」に通いはじめたからかもしれません。
 「なかよし会」は、1985年に数人のお母さんたちが鎌倉に立ち上げた青空自主保育の集まりです。鎌倉の谷戸や海の豊かな自然に、子どもたちを解き放ち、彼(女)たちが自然と直に向き合い、格闘し、戯れることによって、自然から自ずと学ぶ。子どもが転ぼうが、崖から滑り落ちようが、泥にまみれようが、大人たちは(原則として)一切手を出さない、口を出さない。子どもたちが喧嘩を始めても、決して仲裁することなく、子どもたちが自ら状況を収拾するのをじっと待つ。そうした徹底した見守りと、子どもたちの(文字通りの)自主性と協調性、自然からの自発的な学びを哲学とした保育です。
 きみは、この「なかよし会」に二か月前から通い始めました。その数か月前に、僕とお母さんは、きみの「見学会」(実質は体験入学でした)に同伴しました。確か、その時は(1・2歳児の)「小さい組」と(3歳児の)「大きい組」の混成グループで、20数人の子どもがいたでしょうか?通常は、各組に一人の保育者と二人の親が同伴するそうです。この日は、「見学会」なので、僕たちを含めて、かなりの数の親(主に母親)が付き添っていました。
 ある大手のシンクタンクの元本社で、今や廃墟と化している敷地跡がスタートです。その荒れ果てた裏庭(だったらしい)空き地で、保育者が泥団子を作り始めました。多くの(すでに通いなれている)子どもたちは、受け取って、食べる真似をしつつも、実際に口の中に入れたりはしません。自分の娘はとみると、何の気なくガブリと食いついてしまいました。途端に、顔が歪み、泣き出しました。口の周りも中も泥だらけ。拭き取ってあげたくても、口の中まではなかなか拭けません。第一、手を出さないのが原則です。まさに「自然の洗礼」でしょうか。この「洗礼」を受けていない子は、大概まずはガブリといくそうです。でも、同時に、実は、親としてハラハラもしていました。放射能は大丈夫だろうか? この会は、もちろん人一倍環境への意識も高いので、独自に専門家に依頼し、活動に使う主なポイントの線量を測ってもらったそうですが、それでもなお、すべての地点を測ることなど不可能なので、不安は拭い去れません。自然の生命からの学びのはずが、もしかすると反‐生命への危険を孕んでいるかもしれない。自然と人間との根源的な関係に大いなる矛盾・脅威を突きつけるこの放射能=原発事故という大問題。この会に参加する限り絶えず付きまとう問題でしょうから、本格的に参加した暁には、親たちと真剣に議論したい問題です。

 しばらく歩くと、開けた広場のような空間に出ました。昔、グラウンドだったのでしょうか。子どもたちは思い思いに、走り回ったり、小山によじ登ったり、木々と戯れたりしています。娘はと見ると、見知らぬ子どもたちの自由奔放なふるまいに、ただ呆然と立ち尽くすばかり。状況にどのように関わったらいいのか、とじっと観察し、戸惑っています。見かねたのか、ある年長の(3歳?)の男の子が近づき、娘を促します。一瞬ためらった娘も、次の瞬間には男の子に手を取られ、他の子どもたちの奔放な戯れの中へと旅立っていきました。そう、それはまさしく「旅立ち」でした。生まれて初めて「親との世界」から離れ、未知の“外”の世界へと旅立っていきました。その男の子に手を取られながら、背を向け、遠のいていく後姿を見るにつけ、これからやってくるであろう無数の「旅立ち」を予感しました。それは、今まで、自分が人生で味わったことのない「親」としての感情でした。

 次は、けもの道に分け入っていきます。大人でもためらってしまうほどの急坂や崖。小さい子たちや、慣れていない子たちは、皆泣きじゃくり、でも大人でも容易でない急な斜面を必死に這い登る、いや、絶えずずり落ちながらも何とか懸命に、岩の出っ張りに足をかけ、木の根の節に縋りながら、よじ登っていきます。まさに人間としての、いや動物としての「本能」が、何とか生き延びようとする本能が全開しています。感動すら覚えます。
 しかも見ていると、どうしてもよじ登れない小さい子がいると、大きな子が手を差し伸べ、引っ張り上げたりしている。もちろん誰か大人に指図されたわけではなく、ごく当たり前にそうしている。涙さえ出そうになります。
 毛虫が「笑ってる!」同様、大人の僕の奥底に食い込む光景です。
 まさに修験道、そう、それはまさに修験道を思わせます。僕は、去年の夏、生まれて初めて出羽三山で三日間の修験を経験しました。他人から誘われ、興味本位で何気なく参加したのですが、興味本位を遥かに凌ぐ強度と厳しさで、僕を打ちました。出羽神社の2500余りもの石段、足元を一歩間違えれば谷底に転落しかねないほど傾いた月山の雪原、雪解け水そのままの滝に打たれる滝行、無数の蚊に瞬く間に襲われる湿地での「休憩」、湯殿神社の巨岩の頂からこんこんと湧き出る妖艶な温泉、などなど。50年の人生の中で最も過酷で、最も魅惑的な自然の力に圧倒されました。
 今、目の前で、子どもたちの体に漲っている本能に、その体験は生々しく共鳴しています。その本能こそ――それはもちろんある程度まで「人間化」されたものでしょうが――、私たちがまさに「人間」になるにつれ、忘却・抑圧していってしまう、が、本来は私たちが自然の中で生き延びていくのに根源的な力なのにちがいありません。

 きみは、そんな「なかよし会」に、毎週二回ずつ通い始めています。日々、家にいても家具などによじ登るのがうまくなり、散歩に出かけても「だっこ~!」と甘えることが減り、虫をつかむのも平気になってきています。おそらく、きみは、会を、会での体験を、数々の自然の不思議、過酷さ、きらめきを、仲間との戯れ、諍いを“楽しんで”いることでしょう。でも、本心はどうなのでしょう? 心底から楽しんでいるのでしょうか? もちろんそうなら、お父さんとしても心底から、参加させてよかったと思います。でももし、たとえば辛いだけでまったく楽しめない楽器のレッスンやスポーツの練習を、親が強く望んでいるからこそ、それを察してあたかも「楽しんで」いるかのように、親に対してふるまってしまう(お父さん自身、ラグビーでそうした苦労をしました)。きみの中でそんなことになっていなければ、もちろん心底うれしい。
 これからも、きみのことを、きちんと見守っていきたいと思います。

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