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未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年1月9日

2012.05.18

 今、縁側に寝そべっています。
 冬の陽が、燦々と、降り注いでいます。あったかい。空はどこまでも青く澄み、宇宙の果てに突き抜けそう。
 君は今、お母さんと一緒に、沖縄にいるはずです。ここ1週間、沖縄は天気が悪かったようですが、今日はどうでしょう?
 君とお母さんは、パーマカルチャーの勉強のために、彼の知にいるはずです。まだ2歳にもならない君は、いったい何を学んでいるのでしょう?きっと僕には及びもつかないようなことを、新鮮な、どこまでも新鮮な驚きとともに、感じ、学んでいることでしょう。Sense of Wonder。目をきらきらとさせ、耳をそばだて、舌鼓を打ち、鼻孔をいっぱいに膨らませながら、沖縄の太陽を、風を、海を、大地の実りを、大人たちの言葉を、体いっぱい味わっていることでしょう。
 お父さんは、今日から、君に伝えたいこと、言葉を、このノートに書き留め、君がこれを読み、理解し、感じ入れるようになるまで、続けてみようと思います。なぜ、こんな心境になったのでしょう。新年を迎えたからでしょうか。人生の残りの時間が限られているからでしょうか。君が今たまたま長期不在だからでしょうか。そのどれでもありそうだけれど、よくわかりません。
 ただ、今、人生のこの時期に、本当に大事なこと、貴いことを書くとしたら、君に宛てたいと思っただけ。お母さんが嫉妬するでしょうか。いや、君に宛てるということは、君をこの世にあらしめてくれたお母さん、最愛の女(ひと)にも宛てています。お母さんがいなければ、お母さんと出会っていなければ、君も今この世にいないのだし、お父さんも今在るお父さんではなかったし、従って、こうした言葉を君に宛てることもなかったでしょう。
 僕が、親しい人たちに、冗談まじりに言うように、お父さんとお母さんは「遺伝子的出会い」なのだから、君も遺伝子的運命を担っているにちがいありません。その「運命」を、これからの人類にとって、文明にとって、君が存分に活かし、生き尽くすであろうこと、それを、僕もお母さんも、君が宿った刹那、君が生まれた瞬間、そして君が日々生きている折々に、深く感じています。だから、今、君は遠い沖縄の地で、大人にまじり、パーマカルチャーなどを学んでいるのでしょう。

 ノートの白い表面に、冬の陽のかげろうが淡い陰翳を映し、立ち上っています。なぜ、僕は今、縁側なぞに寝そべっているのでしょうか。瞑想をしていたんです。陽を、そのエネルギーを、燦々と浴びながら、瞑想をしていました。本当は坐りたかったけれど、2年少し前に手術した痕が疼き芳しくないので、仕方なく横になりながら、瞑想していました。書くのも、寝ながらです。
 お父さんは、数年前から瞑想をしています。たぶん本格的に始めたのは、7、8年前。この世界で長年修行していた或る人に勧められて、京都府の丹波というところで、ヴィパッサナー瞑想という瞑想を、10日間コースで行いました。大変でした。人生の中でも、最も辛く痛い瞬間、時間を、過ごしました。でも、辛く痛い分だけ、あるいはそれ以上に貴重な、そして至福とも言えるような経験をいくつもしました。どんな経験だったか?その詳細は、今準備中の本『汎瞑想』に書いたので、興味があったら読んでみてください。経験した人にしか本当にはわからないことが、いろいろと書いてあるので、君が読んでもチンプンカンプン、奇妙に思うだけかもしれません。あるいは、もしかすると、それを読む頃には、君も瞑想を経験していて、すんなりと頷けるかもしれません。
 (陽も翳ってきたので、部屋に入ります。美味しいリンゴのタルトと紅茶をいただきました。)
 なぜ、瞑想をやっているのでしょう?そこに、文明史的意義があると、思っているからです。詳しくは、先の本に書いてありますが、簡単に言うと、この通りです。
 この、少なくとも200年もの間、人類の多く(ますます多く)は、資本主義というものに取り憑かれています。資本主義とは何か? それは、他人より、そして現在の自分より、1円でも1ドルでも多い貨幣を所有したいという欲望が競い合って駆動する社会システムです。それは、キラキラと観念的に、硬貨の向こう、紙幣の向こう、カードの向こう、コンピューターの画面の向こうに煌めく「何か」に魅せられ、惑わされ、「執着」する心が、その輝きをさらに増やそうと、さらに眩いものにしようと、他人を騙し、出し抜き、あるいは自分の現在の生の享受すら抑圧して、作り上げているシステムです。
 近代のヨーロッパという時代的にも地理的にも限定された場で生まれたこの「経済」システムは、その後、20世紀を通して、全世界的に広がり(「グローバリゼーション」と呼ばれます)、そしてそれ自体「経済」という本来の領域から溢れ出して、他の社会・文化領域、そして日常の生活の微細な襞にまで浸透し尽くしました。限りなくグローバル化しミクロ化する資本主義。それを「超」資本主義と呼ぶこともできるでしょう。
 君が、今生きている社会・生活は、この超資本主義によって全面的に覆い尽くされているのです。私たちの一挙手一投足が、この巨大で微細な不可視のシステムに絡めとられ、突き動かされています。無限大かつ無限小に広がるクモの巣のように。
 この尊大かつ狡猾なクモの巣から逃れる手立てはないのでしょうか? それから「真に」逃れる可能性を有するものこそ、瞑想だと思うんです。なぜでしょうか? それは、瞑想が何よりも脱「執着」の技であり、知恵であるからです。
 瞑想とは何でしょう? それは、人間が自らの生存の条件から脱する「脱条件」=解脱の技・行です。人間は、「人間」として生きるために、様々な、無数と言っていい「条件」、プログラムを学習します。言語はもちろんのこと、箸の上げ下ろしから、排便の仕方、二足歩行に至るまで、人間はそうした条件=プログラムを学習しない限り、「人間」として生きていくことはできません。(狼に育てられた子どもは、二足歩行すらできなかった話は有名です(J.M.G.イタール『新訳アヴェロンの野生児』、中野善達・松田清訳、福村出版、1978年参照)。
 昔、シモーヌ・ド・ボーヴォワールというフランスの女性作家が、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」といったのと同様、人間は生まれつき「人間」として生まれるのではありません。「人間」になるのです。(君はまさに今「人間」になりつつあります。うれしいが複雑な心境です。でも、一度「人間」という条件を学習しなければ、脱条件の幸福も味わえないわけですから、それほど悲しむことはありませんね。)
 人間は、「人間」としての条件=プログラムを学習することにより、「人間」になる。しかし、それを翻って見ると、逆に人間は「人間」としてしか生きられない。条件=プログラムに則って生きている限り、「人間」以外のものとして生きる可能性を捨てているとは言えないでしょうか?

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