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未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年10月某日(6)

2013.01.12

  最後に、「自然」へのヴェクトルです。正直なところ、現在、探究が最も進んでいないのが、このヴェクトルでしょう。むしろ、これから、この文章を綴りながら、このヴェクトルにどんどん分け入っていきたいと思っています。

 

 たとえば、前述のヴィパッサナー瞑想は、「自己」の心身への深い瞑想ですが、それは(少なくとも私が学んだかぎりのそれは)基本的に目を閉じて行いそれによって全身の感覚=内観に集中するものなので、目を開いたときに視覚的に感覚される、たとえば「自然」についてはどのように瞑想すればいいのか、いまだ疑問のまま残っています。「自然」への瞑想をどのように行えばよいか、今後、自分なりに、あるいはその道の熟達者に教えを乞いながら、探究していきたいと考えています。

 

 「自然」へのヴェクトルで、唯一「捨てる」ことの探究が深められているのは、「食」でしょうか。

 

 食、という、呼吸や排泄などと並んで、生命の維持に欠くことのできない活動。しかし、生にとって根源的でありながら(あるがゆえに?)、その周り、内部には、通常、夥しい記号・情報・コードが纏わりついています。私たちは、一個の「自然」のトマトを食べていると思い込んでいますが、実は単に「トマト」という記号を消費しているにすぎなかったりする。あるいは、お洒落なフレンチやイタリアンに舌鼓を打っていたりしますが、実は単にグルメ雑誌によって入力された情報を無意識に再確認しているにすぎなかったりする。つまり、食という生命の根源につながる活動であっても、実に多くの記号・ハビトゥスに浸されている。それらを「捨てる」こと、そして食の絶対的なリアリティに立ち会い、堪能すること。私は、ある、おそらくは偶然のきっかけから、突然、「捨てる」ことになってしまいました。そのきっかけとは、いたって逆説的なのですが、フランスの下宿先の部屋で深夜食べた一杯のカップヌードルでした。この記号とコードのものの見事な結晶のような食品を、そのとき食したことにより、突如として、自分の「食」に纏わりついていたあらゆる記号・コードが剥がれ落ちていったのでした。そうして「裸」になった味覚は、それ以後、食の絶対的なリアリティを開陳してくれるようになりました。私はこっそりと、「絶対音感」にならって、それを「絶対味覚」などと呼んでいました。

 

 食のリアリティへのそのような「開け」(ハイデガー的意味での)は、当然、そのリアリティをもたらしてくれる食物そのものがどのように成り立ち、作られているかという関心を呼び覚ましました。そして、ささやかながら、自分で畑をもって、「自然農法」と呼ばれるものを学び試み、不恰好ながら、巷で売られている野菜などとは似ても似つかない旨味と生命力を持った野菜を収穫するにいたりました。その過程で、現在の日本のような「農業先進国」でいかに異常かつ危険な製法で食物が作られているかも学びました。そうして作られた食物たちは、人間の生命を維持するどころか、それを根源的に脅かしているのです。

 

 「自己」へ、「他者」へ、そして「自然」へ。以上が、人間的生の「日常」を構成している業・ハビトゥス・構造を、私なりに「捨てる」三つのヴェクトルです。もちろん、その三つのヴェクトルは、互いに独立したものではなく、複雑に絡み合い、促し合い、開き合い、いわば螺旋的に深化し合っていく類のものですが、私はそうした探究を、その螺旋とちょうど垂直に二方向に貫く形で行いたいと考えています。その二方向とは、実践/理論、あるいは身体知/言語知という方向です。人は、たとえば、ヴィパッサナー瞑想という実践を通じて、あるいは「絶対味覚」による実践を通じて、存在の絶対的リアリティを体験することができる。しかし、その体験はしばしば「絶対的」であるがゆえに、主体はその言語を絶した存在論的エクスタシーにともすると耽溺してしまう。そのエクスタシーに、あえて繊細な理論を、鋭敏な言葉を挿し入れることにより、エクスタシーはさらに微分化され、深まり、豊饒になりうる。しかも、理論・言葉のほうも、その絶対的リアリティの感覚的強度によりさらに繊細に鋭敏になり、場合によっては大きな理論的組み換えさえ誘発される。そうして、実践と理論ないし身体知と言語知の間の相互触発・相互深化を絶えず増幅する形で、私は三つのヴェクトルの螺旋的運動を探究していきたいと思っています。

 

 当然そうなると(先ほども述べたように)、この「書くこと」という作業も、その螺旋の中で試練に遭い、溺れそうになったり、辛うじて乗り切ったりと、数々の受難を経験することでしょう。はたして、私の「書くこと」は、どのように泳ぎ切れるのか、あるいは切れないのか、不安はいや増すばかりです。

 

 ところで、私は、この本(?)を、死期を間近に控えたがゆえの、一種の「回顧録」のようなものにしたくありません。自分の人生の幸不幸を自慰的に味わいなおすようなテキストにしたくありません。私は、自分の現在の経験、そしてそれに反響する過去の経験を語りながらも、それが私一人の人生だけに限られるものではなく、逆に一人の人間の生を「日常」の彼方まで掘り下げ、生を根源的に(先ほどの三つのヴェクトルへ)問い直すがゆえに、既存の生活様式の限界を打ち破りながら、新たな(21世紀的?)art of living=生の技芸を素描しうるような、そうしたテキストにしたいと考えています。

 

 是が非でも避けたいこと。それは、このテキストが「それなりに」面白く「ほぼ」満足のいくようなテキストになること、です。

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