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未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年10月某日(4)

2012.12.01

 このヴィパッサナー瞑想も、身体、特に感覚とその反応に集中的に「気づく」方法ですが、私はまた、10年ほど前から約5年間、身体の「自己」とでもいえるものに直接的に問いかけるあるコンテンポラリーダンスのワークショップに参加していました。勅使川原三郎率いるKARASというカンパニーのワークショップで、ダンスの全くの未経験者でかつ当時いろいろなハンディキャップをもっていた私は、単に踊るということにとどまらない貴重な経験を数多くしました。彼の方法の基礎は、まず何よりも、身体からあらゆるハビトゥスを振り捨てていく。おそらくはヨガや気功にインスパイヤーされた独特の呼吸法を通して、ある時は限りなくゆっくりとした呼吸の中に体のこわばりを溶かし込むように、またある時は限りなく速く強い呼吸で全身を攪拌しつつ、とにかく身体から、頭のてっぺんから足の先まで、「人間」の身体として学習した様々な「型」「くせ」、すなわち身体的「自己」をことごとく取り去っていく。床に寝そべり、全身を床に溶かしこむようにして、あるいは手や足を極限的な高速度で振り回しつつ、筋肉・神経・骨格が覚えこんだキネティックなハビトゥスを捨てていく。まさに「器官なき身体」(ドゥルーズ&ガタリ)の生成でしょうか。勅使川原の舞踊・身体論では、まず何よりも、この身体的「自己」=「器官」を捨て去った身体、すなわち身体の零度こそが、舞踊を立ち上げていく原点なのです。

 

 また、身体の「自己」への問いかけという点では、ここ5年ほど行っているヨガも重要です。KARASのワークショップがカンパニーの都合により中止されたのをきっかけに、以前から関心のあったヨガを始めたのでした。まだ、今のようなブームになる前で、通っていた教室も人がまばらでした。(今は、何という混雑でしょう!)ダンスのワークショップに通っていたとはいえ、元々体が非常に堅い私には、最初、ヨガの様々なポーズはたいそう辛いものでしたが、やがて体が馴染んでくるにつれ、徐々にいわゆる「気」の流れのようなものを自覚できるようになりました。KARASのワークショップのときにも、呼吸や気の流れは大切でしたが、それをヨガという形で自分なりに引き継ぐことによって、それをさらに深く自分の中で方法論化していくことができるようになったと思います。そして、その「方法論」の深化は、おそらくは起源において密接な関係にあったであろうヴィパッサナー瞑想を並行して実践することにより、さらに存在論的な深みを増したように感じます。

 
 以上が、とりあえずの素描ですが、現時点までの「自己」への(からの?)ヴェクトルです。次に、「他者」へのヴェクトルについて簡単に説明しましょう。
他者との関係は、通常、様々な業・ハビトゥス・構造によって縛られるとともに可能になっています。親/子、夫/妻、教師/生徒、上司/部下などです。それらは、ほとんど常にある種の権力関係を内包しています。私の、「他者」へのヴェクトルにおいて、当然最初に問題となるのも、この権力関係を孕んだ習慣的関係性です。他者との出会い・関わり合いにおいて、いかにこの習慣的関係性から身を振りほどくか、そして、いかにその関係性が通常覆い隠し抑圧している(バタイユ的意味での)コミュニカシオン=交流・交感の豊かさを見出し発明していくか。そうです。私が他者との関係において常に追い求めているものは、ある意味でバタイユのいう「エロティシズム」なのかもしれません。
 
男性パートナーにとって、受動的な相手〔=女性のパートナー〕を解体するということには、一つの意味しかない。すなわち、二つの存在が混り合って、最後には同じ解体の瞬間に共に到達し得るような、一つの融合を準備することである。あらゆるエロティックな遂行は、正常な状態では遊びの相手である、閉ざされた存在の構造を破壊することを原則としているのである。
決定的な行動は裸にすることである。裸体は、閉ざされた状態、つまり非連続な生存の状態に反しているのだ。それはいわばの状態、自閉の状態の彼方に存在の可能な連続性を求めんとする、交流の状態なのである。(『エロティシズム』、澁澤龍彦訳)
 
 私は、バタイユのいうエロティシズムを、何も文字通りの性行為におけるそれに限定する必要はないと思っています。「決定的な行動」=「裸にすること」とは、文字通り相手の衣服を剥ぎ取ることでもありえますが、それにも増して相手を存在論的に裸にする―そして、それとともに自分も存在論的に裸になる―ことの方が重要だと思っています。私たちは、相手に魅せられ誘われることにより、エロティシズムの関係性に入っていきますが、その魅惑=誘惑の強度によって、私たちの「閉ざされた存在の構造」「非連続な生存の状態」、すなわち権力関係を孕んだ習慣的関係性が剥ぎ取られ、脱ぎ捨てられ、その非連続の裂け目だったものが多様なコミュニカシオンの力によって満たされ、やがては「一つの融合」の瞬間へと昇華していく。「死にまで至る生の称揚」(同書)。
 
(余談ですが、こうして改めてこのバタイユの一節を読むと、彼の「エロティシズム」という概念が、ジェンダーという権力関係だけは振りほどききれていないことが如実にわかります。それが、彼の思想の限界の一つなのでしょう。)
 
 こうした「エロティックな」関係は、何もいわゆる「恋人」どうしに限られないとも思っています。もし一人の他者とある真正な関係をもとうとするなら、私たちはその人と大なり小なり「エロティックな」関係、すなわちコミュニカシオンの状態に入っていくのではないでしょうか。
 
つづく
 

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