Top > Media > [未来の娘へ]2012年10月某日(2)

Media

未来の娘へ

熊倉 敬聡 / Takaaki Kumakura

慶應義塾大学教授。新たな学びの在り方を探究し、大学キャンパス近傍に学びのオルタナティヴスペース「三田の家」を共同運営する。最近は、実存的/文明史的課題として「瞑想」に取り組み、3月『汎瞑想』を出版。

[未来の娘へ]2012年10月某日(2)

2012.10.17

 しかし、ある時、限界が来ました。こうした状況そのものがどうにも耐えがたくなり、何か「大きな」決断をしなければ、もう今後おそらく死ぬまで、「それなりに」「ほぼ」の人生を送り続けなければならなくなるだろう。もし、それが嫌ならば、今何か決定的な決断をし、この状況を打ち破らなくてはならない、と思い至りました。そして、決断し、実行しました。それは、「捨てる」ということでした。今までのように、何か少しでも面白そうだと感じたなら飛びつき首を突っ込むのではなく、具体的に限られた時間に鑑みて、自分で本当にやりたいこと、あるいはやるべきことのみをやり、それ以外のことは「それなりに」「ほぼ」面白そうでも、あえて切り捨てる。人との付き合い・交わりも、表面的な社交や惰性的な関係のようなものは切り捨て、互いの存在の深みが交感しあうような「特異な」時間・出会いを最優先する。
 また、「捨てる」は、それにとどまりませんでした。家、をも、捨てました。20年以上も暮らした家を、出ました。長年にわたり、知らず知らず自分の心と身体に棲みついた無数のハビトゥスから少しでも自らを振りほどきたく、とりあえずは家から自分を切り離しました。家出=出家? そう、それは、宗教的な含意のない、一種の「出家」なのかもしれません。これからのあらゆる出会い・縁起に開かれてあるためには、まずは自らが無縁でなくてはならない、とある宗教学者は述べていますが(上田紀行『がんばれ仏教!』)、まさにそうした「無縁」の状態に身を置くべく、家出=出家をしたのです。
 さらに、「捨てる」ことについて探究していく過程で、生の絶対的なリアリティ―相対的に「それなりの」リアリティではなく―を生きるためには、これも長年、というか生まれてこの方心身に棲みついている意識的・無意識的記号・情報・コードを捨て去らねばならないことにも思い至りました。後で詳しくお話しますが、私は10代の終わりから20代にかけてフランス文学、特にモーリス・ブランショやステファヌ・マラルメなどを研究していた関係で、こうした記号・情報・コードの蕩尽consumation(バタイユ!)を追体験し、一時期はそれなりの(仏教的に言うと)「涅槃」の境地にまで至ったものでした。しかし、その後の人生の波乱の連続により、そうした境地の純粋さはことごとく失われ、蕩尽したはずの記号・情報・コードの魔がことごとく回帰し、再び私の心と体を呪縛してしまったのでした。一度、蕩尽した体験をもつからこそ、その呪縛の回帰には、日々鬱々としました。こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、と、いつしか心と体を呪文のように蝕んでいきました。これこそ、あるいは、最優先で捨て去るべきだったかもしれません。いや、そう思ったからこそ、それを実行すべく、後に述べるある瞑想法をしばらく前から実践しています。
 となると、「書くこと」、この言語というすぐれて記号・コードであるものを用い、言述を編み出していく作業もまた、当然根底から問われるべきものとなるでしょう。現に、この2年ほど、私は(それまでの連載をやめたり、原稿の依頼が来ても断ったりして)ほとんど書きませんでした。書けませんでした。記号・コードを捨て去ろうとしている者が、どのように言語を書くことができるのか? まさに、マラルメあるいはブランショ的問いです。この点に関しては、昔これらの作家たちを研究していたときにさんざん問題としましたが、今回「書き」始めるにあたって、当然問わなくてはならない問いだと、自覚しています。しかし、現に、こうして書き出してしまった。だから、この問いは、このテキストをこれから書いていく途上で、繰り返し、問われることになるでしょう。

(つづく)

TOP