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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

力なく横たわるものについて(1)

2009.12.18

 contact Gonzo について語るのは、容易なことではない。その蛮勇であることを知りつつ、なお語ろう。

 弱々しいもの、小さなものについて考えたいという欲望が、いつの頃からか、自分の一隅に生まれ育っている。僕のそのような欲望は、僕自身の個人的な体験に由来するものではあるが、ある種の普遍性と必然性をもっているやも知れぬという淡い考えもある。
 弱々しいもの、力なく横たわるもの。
 何も出来ぬまま日がな一日畳の上に寝転がり、己の無力さや社会との断絶を心にうち並べつつ、同時に、そのような思考の脆弱をこれまたくよくよと思い悩むとき、我々は、牧歌的風景を垣間見る。
 小さく渦を巻く、ブドウの蔦の目に見えぬ程の成長のような、細くともしたたかなものども。まだ見えぬ結論を先に言うならば、そこには、小さいが、現状を浸食し最終的には大きく変化させる、蝶のはばたきが見出せるのではないかと思う。

 写真のことから話を始めよう。
 我々が、一葉の写真を眺めるとき、そこにはストゥディウム(自明な意味)とプンクトゥム(鈍い意味)が見て取れる、というのが『明るい部屋』でのロラン・バルトの指摘であった。小さな裂け目としてのプンクトゥムに惹かれ、我々は写真に目を留める。
プンクトゥムは、何か際立った明晰なオブジェクトに表れるとは限らない。フォーカスの定まらぬ、何が写っているかもよく分からぬ写真にもプンクトゥムが表れ得る。バルトは、プンクトゥムを呼び起こすものは、現在における「不在」であるとしている。「それは、かつて、あった」というセンテンスに集約される(従って抜き差しならぬ程に死の影に覆われた)彼の論理は、「写真」を解体し、拡散させる素地を用意したとも言える。中平卓馬の一連の神経症的な仕事、アレ・ブレ・ボケに写真を見出す仕草は、バルトの遺作を通過せずには考えることができない。
 写真を巡る僕の思考は、随分長い間、バルトの魅力的な論理の引力圏にあったと思う。しかし、いつの頃からか、僕は、彼の議論に物足りなさを感じ始めていた。一般意味の平面とそこに穿たれた傷口、裂け目を開く死者のこと。果たして写真はそのようなものでしかないのであろうか。どこまでも平滑な、けれどもソフト・フォーカスなどとは原理的に異なる、写真の地平というのは不可能なのだろうか。
 動き、対象からの光を、眼という球面で捉え、脳の電気信号として変換解釈し、(場合によっては暗室の光を経由して、)今また、写真からの光として了解する。そのような、通常の議論に上る、一連の写真のシステムは、力なく横たわる風景のことを見逃してしまっている。

 先日、麿赤兒の、老いについて語るのを聞いた。日本には、能でいうところの黒面の「翁」に代表される、「老い」を精錬した芸事のパッケージがあるという。老いて呆けた語りの、聞き取れぬ程の、しかし恐ろしい程のアナーキー。もうわしには何もわからぬ、お前様の好きにせよ、好きにせよ。小刻みに震える腕や足の、制御し切れぬ振る舞いのことを、麿赤兒は、少しの笑みを浮かべながら、淡々と語った。このようなか弱い震えの、逆説的な強さは、Gonzoにも見出すことができる。
 牧歌的という言葉は、ある種の障壁として働く、とGonzoの塚原は言う。牧童の歌う素朴で半ば呆けた小唄。そのイメージは、Gonzoを包みこみ、ある種の異世界へと彼らを連れ去る。我々は容易なことではそこに追いつけない。腕や背や鎖骨の痛みを、するすると回収しようとするものへの、逆説的なバリア。

 かつて僕が求めた風景は、弱々しくも、世界に遍在しているのではないか、と思う。宇宙から降り注ぎ、我々の身体を、それと知覚できぬうちに絶えず貫くニュートリノのように、それは我々の前に横たわっているのではないか。
 力なく横たわるものは、そのある種の欠落性により、かえって可能性を膨らませる。松岡正剛が『フラジャイル』において指摘した通り、多くの神々はその神性と不可分に欠落を抱え込む。逆に言えば、神々は、我々の欠落への憧憬から生まれ落ちる。欠落をなぞろうとするあえかな指の動き、そこに小さな花火のように開く「共感」こそが、弱々しく、小さなものどもの、世界を転覆させる力なのではないか。
 力なく横たわるものの可能性は、原理的には完全に孤独でありながら、なお独りでは在り得ぬという、生の基礎的な相克に由来する。生はそれ自体では完結しない。我々は、いつも誰かに触れ、誰かに師事し、誰かの声に応えることなしには、生きられぬ。にも拘らず、それは自分の背を正視することが叶わぬのと同じように、不可能なことである。断絶の、深い淵に唯一橋を架けるもの、それが力なく横たわるものである。

(つづく)

ハラトモハル

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