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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.24 力なく横たわるものについて(2)

2010.01.03

 contact Gonzo には二つの方向性がある。一つはミクロ/自己/向心の方向であり、もう一つは、マクロ/他者/拡散の方向である。「コンタクト」には、必ず作用と反作用が含まれているのであるから、それは必然的なことである。
自分の痛みを自分のものとして子細に把握することは、それほど容易なことではない。もちろん、痛みは、自分にとっては、ふてぶてしく居直るやくざなものである。が、その実、それがどのようなものなのか、それがどのように自分に影響しているのか、明瞭に言葉にすることは難しい。これが他人の痛みになると、余計に分からない。まして、私とあなた、とそれを取り巻く世界の痛みに思いを馳せるや、もう雲を掴むようなものである。そこにはズレの連鎖がある。
 アッという痛みが、ほんの一瞬、意識に空隙を穿ち、しかる後にそれを指でくまなくなぞるように観察する。一瞬の空隙は、すぐさま意識で埋められる。突き出す拳の、踏み出す足の、クリアで平穏な観察と、底の抜けた空隙。Gonzoはいつも二つの道を、分裂症の患者のように走る。二つの道は「コンタクト」において分岐し、いずれ、牧歌的な風景において出会う。

 緩慢で大きな動きを捉えることは難しい。
インドの時間の単位に「劫」というものがある。天女が三年に一度、羽衣で巨岩を撫でる。それを繰り返し、岩が磨滅する程の時間をいうのだが、かように極端に引き伸ばされた時間を知覚することはとても難しい。死ぬまで立ち尽くしたとしても、その巨岩の変化を認識することはできないだろう。
我々は、あまりに大きな幅で動くものを知覚することができない。地球の自転も、岩の磨滅も、我々にはそれを直覚することができない。月の光や、伝説や、仮想的な実験などの外部の指標を通じて、ようやく長大なムーブメントを伺い知るのみである。
 歴史と自然のすべてを包括する一個の生というものを想定したとき、我々はそれを直覚することはできない。唯一完全であるその生が、別の生のために身を悶えたとして、我々はそれを知ることはできぬだろう。ただ、力なく横たわるものだけが、そのことを、星の光のように知らしめる。

 十二世紀の後半から、禅の世界では「十牛図」という小テキストが用いられている。十枚一連の図と、それぞれの図に添えられた短い詩句から成るもので、自己が経歴する「自己」の在り方と、その関連が簡潔に示されている。
 「十牛図」では、牛(「自己」)を追い求める牧童(自己)のことが描かれる。牧童は、野を彷徨い、やがて牛を見つけ、牛とともに家に帰還する。ここまでが七枚の図にまとめられている。牧童(自己)は牛(「自己」)を得たのであり、第七の境位にあっては、牧童と牛は一つのものになっていると言えよう。従って七枚目の図には、牛は描かれない。
 而して、八枚目には何も描かれない。ただの空。九枚目には花と河、十枚目には老人と若者の邂逅が表される。一度見つけられた牛は牧童もろとも消え去り、そこからまた、"自然"と"人の交わり"が展開される。「自己」を探し当て、充実し切ったはずの自己までが失われること、この道行きは甚だ興味深いが、ここでは第九の境位のうちに立ち止まりたい。
 実はここでは、牛=牧童と同時に、写真が蒸発するのである。
 九枚目には、水自茫茫花自紅、いう句が添えられる。自分のうちに樹が生え、雨が降る。鳥が、私を貫いて飛ぶ。このような感覚は、日常のうちにあっては、極めて微細なものであるが、極めて大きな動きを掴み得る、数少ない感覚でもある。「花は自ずから紅」という、ただの単純な咲き表れにはつと心を留めるとき、そこに、ほんの一瞬、我々は風景を見ることができる。否、可能な限り正確を期すならば、「「我々は風景になる」という動態」になるのである。
 そのとき、一体誰が、カメラのシャッターを切ろうなどと考えようか。

 過日、クラブの隅で人に抱かれて押し倒された。したたか腰を打ち、二日程、微かな痛みを抱えることになった。腰を打ったとき、フロアではGonzoが殴り合っていた。シクシクと(あるいはズキズキと、ベクベクと)痛む身体の律動を感じながら、Gonzoのパンチが、牧歌的風景を越えて、僕の腰を打ったのだ、と、僕は考えた。それは崇高でもあるが、同時に遣る瀬無い雨の降る、力ない風景のようでもあった。

 平面のように広がる風景の上を、緩慢で大きな風がやってくる。木々が揺れ、ざわつき、やがてそれは頬を撫でていく。Gonzoたちがその上を駆けていくのを、僕は、彼らが見えなくなるまで眺めていようと思う。

ハラトモハル

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