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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.23 ヒップホップのハード・コア(2)

2009.10.14

 サウス・ブロンクスの街角で、ラティーノたちがブレイクを踊る、その遠景には、しばしばスケートボードを見ることができる。ヒップホップがブレイクダンスに繋がっているように、ストリートでは、パンクがスケートボードに繋がっている。ブレイクダンスのある種の性格は、エクストリームのそれと比較するとき、鮮明になる。
パンクは、その系譜に、エクストリームという態度を生んだ。速さと高さに、危険で華麗な離れ業に、エクストリームは心酔する。エックスの身体感覚は、線的であり、都市空間への建築的広がりを持つ。跳躍や回転を含みつつも、それは本質的には、ある点からある点への直線的"疾走"である。その後ろではいつも、ラウドなパンクが鳴らされる。
エクストリームは、現代の未来派である。
 エックスが未来派であるとするならば、ヒップホップとは何者であろうか。
 ブレイクダンスにおける身体は、エクストリームの剃刀めいた薄い線に比べれば、強い粘り気を含んで見える。だらしない静止と、血迷った激動との、果てのない揺れ動き。そのような、トリッキーな動きこそがブレイクダンスの真骨頂である。エクストリームを、過剰な速度を称揚する未来派として見るとき、ブレイクダンスのトリッキーなふらつきは、ゾンビのことを想起させる。広い郊外を、餌食を求めてさ迷い歩く、死人たち。
 ヒップホップは、死霊を正しく裏返した何者かである。

 ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・リビングデッド』がアメリカの比喩であることは夙に知られている。(劇中、ラジオから流れるゾンビたちの様子は、黒人たちのデモのことを想わせる。また、それに対する白人自警団の反撃も、そのまま公民権運動における人種間の対立に重ね合わせてみることができる。)そのような文脈を延長するならば、ここで黒人に与えられた役割は、ヒップホップの隘路を予言していると言えよう。
 ゾンビ映画では、死者たちが黒人に襲いかかっている。黒人は、最大限の正当な条理でこれを退け、果敢に状況を打破するが、最後には死霊と間違えられ、白人に撃ち殺される。『ナイト・オブ・リビングデッド』が1968年に作られたこと、そのこととヒップホップは一つにして語られねばならない。
 ヒップホップは、いつも複雑に政治的である。ヒップホップの最初の第一声は、ルーサー・キングの夢についての咆哮であろう。黒人の、社会的に虐げられた者の怨念の裏返しとして、ゴールド・チェーンと、ダイヤと、アディダスがあるのだ。
ヒップホップの誕生は、そのまま新しいコミュニケーション方法の発明であった。それは、かつて、権力を持たない者のメディア、「自らを語ることができない者、たとえ語っても、それを解釈する他者によって覆い隠されてしまうような者」にとっての唯一無二の"声"であった。ラップは、声であった。
 ロメロのゾンビ映画は、声、その響きが拡散し失われることを予言していたのではないか。
 ヒップホップは、いつしか新たな権力として、別のゲットーを生んでいる。ゴールド・チェーンが鎖となり、その端にダイヤの重りをつけて、別の声なき者を地に繋いでいるのではないか。もしも、その観察が的を外していないならば、ヒップホップはこれから最も困難な道を辿ることになろう。自分自身に対する闘争を、不可避的に、彼は始めねばならない。そして果敢なその闘争の最後に、なお生き延びねばならない。
 炎に身を投じるようなその闘争が現実になるとき、世界は非正規な自由をいっそう加速させるだろう。ラップの、グラフィティの、DJの、ブレイクダンスの、不死鳥性。ヒップホップはそのような期待をもって、注視されるであろう。

 非正規な自由のための闘争。ヒップホップのハード・コア!

ハラトモハル

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