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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.22 Melody Cup について

2009.08.14


 高嶺格演出『Melody Cup』を観る。

 伊丹市・アイホール。『Melody Cup』公演最終日。
 会場には、観客席よりも少し低い位置に大きなスペースが取られ、一面がブルーシートで覆われている。客席から暗闇を透かして見ると、空間の遠近がうまく掴めず、そこに確かにあるはずの床面は、ふとした拍子に、底知れぬ水面のように見えもする。
 冒頭、暗闇の中、時計の音が刻まれる。少しずつ音量を増す針音。
 突如ぬっと立つ人々。幾つものシルエットが、舞台奥の段を乗り越え、前進する。その手足の野性味は、これから物語が始まるという興奮を、熱量を呼び起こす。

 現代美術家・高嶺格を知ったのは、二〇〇四年、横浜美術館で『木村さん』が公開中止になったときのことだ。
彼は九十年代半ばにダムタイプに参加し、以後、現在に至るまで、挑発的でありながら、洗練された作品を提示し続けている。近年では、山口で大友良英と作り上げた「Ensembles」が大きな喝采を受けたし、先日、マンガン記念館の閉館に際して行われたパーティーも素晴らしいものであった。
 作品への期待は否応なしに高まる。

 本作の中では、アイコニックな事物(ドラえもんやマイケル・ジャクソン)を、日本語とタイ語で発声するというシーンがあった。数名のタイ人が(タイ風に)「ターミネーター」と言う。応えて、日本人が(日本風に)「ターミネーター」と言う。(順序は逆のこともある。)
 一連の応答は、それら発音の微妙な差異自体、既に興味深いことである。たとえば「ビヨンセ」というアメリカの歌い手が、かように近しい/隔たった音で捉えられ、タイと日本の両国で流通しているということ。それはグローカル(Global+Local)という言葉を想わせる。
 しかし、それ以上に、その言葉遊びの中にしばしば挿入される不穏な懐疑の眼差しにこそ、僕は目を引かれる。「お前は一体何を言っているのだ、何だその珍妙な発音は」という問責の視線。このような眼差しは、実は我々の社会にありふれているものではないか。黒澤明の『羅生門』で鮮やかに示されたとおり、同じものを見ても、人は違うアイデアを抱く。同じ概念について、誰かはそれを好み、誰かはそれを嫌悪する。「ジャイアン」という一つのイメージを巡って、ある人はまた別の人の表象に横槍を入れる。
 その宿命的すれ違いの中で、それでもなお、「ブリトニー・スピアーズ!」という発語はおかしみを持って響く。その懐疑自体のユーモア。

 高嶺格に初めて会ったのは、二〇〇六年の初冬のことだった。あの『木村さん』の作家が来ると聞いて、京大の美学研究室の飲み会に潜り込み、彼に会ったのだ。
 その頃、彼はどこかの大学で「裸になる」というワークショップをやっており、僕はうまく事態が飲み込めぬまま、随分とクレイジーなことだ、と思った。ちょいちょいと酒を含むこの人は、理知的に、黙々と考える人のように見えるのに、と僕は訝しんだ。
 後に、彼は相当にいい加減な無茶なこともする人であると知りはしたが、それでも、その時の僕の印象は消えることがない。

 本作のモチーフの一つは、「空(くう)」であった。半人半馬の態の登場人物が、チベット風の衣装を身にまとい、苦楽について問答を交わすという直截なシークエンスもあった。出演者の中に元僧侶がいたということも影響しているかも知れない。が、とは言え、そのような問題意識は元から高嶺のうちに胚胎していたものではないかと思う。
 「空」についての議論は、とりわけ大乗仏教中観派において展開された。分け入れば諸論あるが、簡単に言うと「世界の諸々の存在には実体性(自性)がなく、関係性(因縁)のうちで在るのみだ」ということを示している。
高嶺は、公演前のインタビューの中で、創造について語っている。「知覚された内容について判断しない、論理的な道筋を求めないということ」、(そしてここがより大事なことだが、)そこに様々な価値判断の網目が被さり収束していくということ。高嶺はそれが作品の鍵であると言う。これは「色即是空空即是色」の往還に完全に相似である。

高嶺は、ペイントや彫刻などの特定ジャンルに拘らず、多くのメディアを駆使する。彼の作品はいつも、彼自身のリアルな生活の中で、グジャグジャと形を求め、真摯な思考の末に思いがけない形をとって現れる。高嶺の作品は、その創造の最初に、様々な形式の条件(予算、素材、場所、人など)や課題・問題を引き受け、そこから始められる。むしろ、あっ、という創造の瞬間を掴み取るには、彼は、特定の技法に拘ってはいられない。
彼は、自分のことをシャーマンのようなものだ、と言う。

 物語の中では、山が形作られ、そこに人々が詣で、海ができ、また歌が歌われる。ブルーシートはいくらでも形を変える。少しずつ凝り固まるようにして、パフォーマンスは、濃度を増す。最終盤、緊張は一転し、解放感に満ちた音楽、ビージーズの「Melody Fair」により作品が閉じられる。スクリーンには、パフォーマーたちの興奮した顔が映し出され、それに呼応するように、舞台では一際大きな「山」が形作られる。
 「Melody Fair」は、映画『小さな恋のメロディ』の挿入曲として、日本でも親しまれている。歌の内容は、女の子の感情の揺れを捉えて、お前はまだ小さいし、人生は雨模様ばかりじゃない、と諭すものだ。
Who is the girl with the crying face looking at millions of signs?
Melody fair, remember you're only a girl.
 Melody, life isn't like the rain ; it's just like a merry go round.
「それ禍と福、何ぞ糾える縄に異ならん」というのは古今東西の哲人の教えではあろう。それは概して正しいが、しかし、ある種の脱力を感じさせるものでもある。このラスト・パートは、幾許かの感慨ともに、本当にこれでよいのか?という疑念をも覚えさせるものであった。
物語のタイトル『Melody Cup』は、もちろん「Melody Fair」に因んだものだろう。作中での扱い方から見ても、本作の解釈にとって、この音楽を軽視するわけにはいかない。歌の内容と高嶺の物語がリンクしている必要は必ずしもないが、しかし、ここで為された無邪気な解放は、一体どのように考えればよいのであろう。この解放は果たしてどこからどこへ向かうものであったろうか。僕にはそこからどのような物を汲み出せばよいのか、まだうまく判断することができない。

ハラトモハル


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タイの出演メンバーたちと

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