Top > Media > [淡水録] vol.19 歴史の歴史

Media

淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.19 歴史の歴史

2009.05.07


sugimoto.jpg

 国立国際美術館「歴史の歴史」展を観る。
 杉本博司の写真作品と、彼が蒐集してきた様々なものを並べてみせる。
 展覧会の最初に、彼は次のように記す。

「アートの起源は人類の起源と時を分ち合う、それは人間の意識の発生をもってその始源とするからだ。私は私の技術を磨く過程の中で、学ぶべき先人の技術を体得する為の手本が必要とされるようになっていった。手本は先人が到達すことができた地平のサンプルと呼び変えても良いだろう。(中略)
 ここに集められたサンプルは、私がそこから何かを学び取り、その滋養を吸収し、私自身のアートへと再転化する為に、必要上やむを得ず集められた私の分身、いや私の前身、である。私はそれらのサンプルから、過去が私の作品にどのように繋がってきたのかを類推し、その現場を検証するという空想に遊ぶようになった。(中略)
 天地開闢以来、幾多の文明が栄え滅びてきた。その度に歴史は書かれ又書き換えられてきた。歴史とは生き残った者が語り継ぐ勝者の歴史に他ならない。語り継ぐ者のいなくなった敗者の歴史は遺物となってその内に閉じ込められ、私に何かを語りかけてくる。数十億年前に絶滅してしまった生命の種が化石となって私に語りかけてくるように。こうして私は歴史から一歩距離を置いて、私が収集してきた遺物を眺め暮らすようになった。」

 杉本博司の凄味は、その作品の見せ方にある、と常々思っていたが、益々その感を強くする。
 「見せ方」の内には、作品単体のクオリティー、物理的な配置の仕方、それらの関連のつけ方、それに言葉の按配まで、幾つものレイヤーがある。それは、松岡正剛の言葉を借りるなら「情報の編集」というアート/技術であろう。
  杉本のアートは尋常ではない。時間軸のうねり、光の照応、硬質なエッジ、有機的で底の伺えぬ造形。それらがないまぜになって、彼の世界を生み出す。
 本展では、数億年前の化石から、重要文化財級の古美術、NASAの宇宙食までが並べられる。それらを総じて「杉本博司」と冠するのは、デュシャンを通過した我々をしてなおたじろがせる程の、甚だ恐ろしい所業である。しかし、その恐ろしさまでを御して、これが一つの世界であると納得させる力がある。杉本の視線は、最早、「美術館」のそれである。幾重にも恐ろしいことである。

 杉本は「歴史」を俎上に乗せる。写真というメディアを扱う以上、誰しも時間に対して意識的にならざるを得ない。まして、彼程に厳密に考えを進めてきた者ならば、「歴史」は避けては通れないテーマであろう。
 我々の時間意識には、幾つかのバリエーションがある。
 一つは、過去から未来へと流れる日常的な時間意識である。その中では、我々は我々の眼前をツルツルと流れる事物に即応するのみであり、美しい情動は生まれようとも、そこからは死への切迫も、「歴史」も生まれない。
 また、一つは、未来から過去へと流れる時間意識である。それは、究極的には、「全てを語り終えた者」を想像的な起点として現在を照らし出すような、そのようなものとして考えられる。ミステリ小説が構造的に示すように、一つ一つの伏線は、結末から眺めることで初めて、伏線としての意味を浮かび上がらせる。「歴史」は仮想的な消失点をもって初めて、「歴史」になる。

 過日、青山の骨董屋でガンダーラ時代のレリーフを見たときに、軽い眩暈を覚えたことを思い出す。レリーフには、二~四世紀、インド北部云々という説明書が付されていたが、女神の横顔は思いのほかクッキリと、微細なラインを示している。一体、その白い石の表面に幾許の時間が積もっているのだろう。どのようにして、彼女は海を渡り、今ここにいるのだろう。それは「歴史」を想うときに、多くの人が抱く感慨ではないだろうか。「歴史」を見出すとき、我々は図らずも、遥か天空の神々の椅子に座して、我々の深みを見下ろすことになる。眩暈は、そのようにして生じる。

 本展で、ことに感じ入ったのは、新作「放電場」のシークエンスであった。
 広い空間に、十枚程の「放電」の写真がライトボックス様にして置かれている。暗い照明の続いた後だけに、明るい白色光が眼を射る。一方の壁には全面に鏡が張られ、一枚が派手に割られている。一隅には、デュシャンの古いポートレート写真。これまたフレームのガラスが割られている。
 ツイと立つ、雷神像。ケレン味に満ちる。
 が、省みると、鏡も、鏡/ガラスの割れも、タルボットに触れた文章も、もちろん放電の写真も、すべてにフックがあり、次々と考えを進められる。
 これは空間の割れであり、時間のズレであり、ズレたところで一致した何ものかではないのか。それが一人の美術家の中で遭遇しているのではないか。これは大きな「写真」なのか?この、一連のアクセントと、参照と、凡庸な反復と、それらのズレを、「歴史」と言うのならば、それを一つのイベントとして示すことは、これこそが「歴史の歴史」なのではないだろうか。



 杉本は、歴史から一歩距離を置いて、と書く。彼はどこに立っているのだろう。微分的な、美しい情動のうちかだろうか。それともモダニストを自称する彼のことだ、危険な光を閃かせ、「歴史」のその始まりに、彼は立っているのだろうか。

 本展は、いずれを切っても、息を吐くことができない。深い海に潜って人魚に会う程の、心身を削られるような類のものである。

ハラトモハル


TOP