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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.17 或は灰色の風を無言で歩む幾人か

2009.02.16

 contact Gonzo 「the modern house - 或は灰色の風を無言で歩む幾人か」展を見る。

 contact Gonzo について説明するのは、未だに容易ではない。Gonzoは、当初、コンタクト・インプロビゼーションとして捉えられ、ダンスの文脈で扱われてきた。が、彼らがシアターでのパフォーマンスにとどまることなく、その始まりから路上で殴り合い、確信的にYou Tubeを使ったことで、彼らはダンスの範疇から抜け出していくことになる。Gonzoは、多くの人やメディアを巻き込み、増殖し、いくつもの旅を内包しつつ、一個のプロジェクトとしての全貌を現し始める。

 http://contactgonzo.dtiblog.com/

 会場では、折に触れて、殴り合いが繰り広げられる。

 Gonzoの重要な要素の一つに、水がある。彼らは、殴り合いながら水を飲む。ペットボトルの水を、場のそちこちに起き、思い出したようにそれらを飲む。時にはそれを蹴り、投げ、またそっと置き直す。激しい動きと暴力的な行為の中、水は、ささやかな空隙をもたらす。
 Gonzoは、次のように語る。
 「ゴンゾをやっていてたまに、言葉的な思考回路が外れるというか、瞬間的なことなんですけど、「ごろん」って転がってる時に上から人が「ばん」って飛んできて、一瞬何か分からんけど、「パッ」て動いたら凄くきれいにかわせて、なおかつまだその人と一緒につながってるみたいな。ホンマに一瞬全てのことが「完璧に上手く行くぞ」って、確信できる瞬間があって。」
 この感覚を、僕は"共感"と呼ぶ。自分、他者、世界、それらが時間と空間において共にあるという感覚。しかし、この感覚は極めて危険でもある。私とあなたが一体化すること、私たちが世界と一体化すること、そこからは容易に、グロテスクな全体主義が開かれる。おそらく彼らは共感の瞬間を悦ぶとともに、コンタクトの恐ろしさを知ってもいるのであろうと思う。
 コンタクトは恐ろしい。それは常に痛いものでなければならない。
 コンタクトは恐ろしい。であるからこそ、彼らは水を要請する。水は、いつも、理解することの狂気を知らしめる。


 「the modern house」展は彼らにとって、初めての個展である。会場は大阪府立現代美術センター。パフォーマンスではなく、"展覧会"というフォーマットで、彼らが空間の全てを埋める。僕が観た日には、会場内で家が作られていた。それを取り囲むように橋が設けれら、また旅のビデオと、パフォーマンスの写真が、インスタレーションとして並べられている。
 家は10㎡ほどの土台の上に建てられる。土台はシーソーのようになっており、誰かが動く度にガタガタと揺れる。ドリルの音が響く。ほとんど思いつきのように、窓が作られ、玄関が飾られ、ペインティングがなされる。延々と続く、遊びとしての家作り。


 Gonzoの重要な要素の一つに、写真がある。彼らは殴り合いをしながら、フラッシュをたき、互いに写真を撮る。今回の会場でも、大量の写真が壁に貼られ、またマガジンとして編集されていた。何故彼らは写真を撮るのであろう。彼らは写真の記録性を利用しようとしているのか。あるいは、フラッシュの扇情的な効果に期待しているのか。撮り、撮られることのうちに、幾重にも張り巡らされた、記憶と視線のシステム。無言の空間に、フィルムを巻き上げる音と息遣いが、魔術のように響く。

 写真には、いつも"構想力"がついて回る。
 三木清によれば、構想力においては主観と客観が一致する。三木は次のように書く。
 「構想力とは像を作る能力であるが、この像は常に個物的なものである。...しかし他方構想力は単に知的な能力でなく却って感情であり、感情の性質は一般性と見ることができる。従って構想力において個物的なそして知的な像はつねに同時に一般的な意味を有している。個物的と一般的という相反するものはそこでは直ちに一つに結び付いている。」
 個物的なもの/主観/ロゴスと、一般的なもの/客観/パトスを結び付けるには、その上位概念としての何物かがなければならない。「形なき形」としての何か。形をもって存在するもの、その存在に対しての、飢え。
 写真には、いつもそのような飢餓がまとわりついている。世界の空気を一つのイメージに構想し、対象を写し取ろうとするならば、そこにはいつも超越の契機としての構想力が働かずにはいられない。己の凝視する世界を、正確に写し取ったとき、そこにはかつて見たことのないものが写り込んでいる。あるいはデジャブとしての未来/過去が。

 Gonzoの写真はいつもあらぬものを写し取っている。地面、舞い散る雪、闇夜、そして誰かの身体。それらは半ば意図されたものであり、半ばは何かの弾みに撮られてしまったものであろう。
 彼らは押す。身体を。殴る。シャッターを。彼らは何もないところから、極めて強烈な構想力をもって、彼ら自身のうちに一つの像を提出する。身体に触れ、相手の様子を探り、ときに使い慣れた身体の動きを試してみながら、彼らは、あてどなく創造する。超越の契機としての、それらの所作を"虚無"と名づけるならば、彼らは、闇夜に舞い踊る、雪に近しい。光を待つ夜に舞う、重い牡丹雪たちよ。

ハラトモハル

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