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淡水録

原 智治/Tomoharu Hara

1980年、京都市生。大学で画像情報システムを専攻。卒業後、メーカー勤務を経て、京都市入庁。現在は文化行政を担当。

Tomoharu Hara was born in 1980. He graduated from university where he majored in Image Information System. Tomoharu is currently works for Kyoto City, reforming the city's public hospitals.

[淡水録] vol.29 行政による文化芸術の支援について3

2010.08.19

 最後に、二つの困難を指摘したい。実は、前半部で、大阪府当の事例に鑑みて掲げた疑問は、この困難さに関係している。

 一つは、文化芸術の適正な規模を、行政内部において合意することの困難さ。
 文化力の測定というのは必ずしも定量的にできるものではない。文化芸術の社会的価値は、最終的に、関与する者の権力/権威の積算により決定される。その決定のプロセスは不変のものではないし、普遍的でもない。
 文化芸術については、先に述べたとおり、複数の「公共財としての便益」が指摘できる。それらは、必ずしも「府民に根付いて」いなくても発揮されるものである。しかし、その必要性を、技術的妥当性を睨みつつ、有権者が判定するには、予算を提示する行政が、まず評価の枠組を示さなければならない。
 京都市では、かつて「文化力の測定」を真剣に検討したことがある。メディアにおける言説、客観的数値、アンケート調査等を複合的に検討し、大部の報告書をまとめている。それはスマートとは言えないものであるし、全有権者を納得させるものではないかも知れない。継続性にも欠けていると思う。
 しかし、適正規模は、"仮定的であったとしても"示されなければならない。(※10)

 もう一つは、こちらはより根深いものであるが、文化芸術をめぐる"差異"が問題になる。
 ピエール・ブルデューのハビトゥス論を引くまでもなく、文化芸術は、一般に、消費のされ方に偏りがある。個人ごとに、体験、愛着、実感に、大きな乖離がある。(たとえば、多くの方は、普段の生活の中で、現代美術を身近に感じることはないだろう。)
 そのような差異のある場では、正当な論理が機能しないことが往々にしてある。議論が拒絶される、飛躍する、趣味志向レベルに回収される、ということが、そこでは起こる。恣意的に保健医療と文化芸術が比較されるのは、判断力が著しく不調だからというよりも、価値観、理解、愛着に差異があるからであろう。
 どのようにすればその差異を乗り越えられるのだろう?それは、どのようにして良好なコミュニケーションがなされるのか、という問いに近い。あるいは、どのようにして共感が生じるのか、という問いに近い。(文化芸術の力は、そのような差異の現場においてこそ、大いに実感され得るものであろうとは思う。)
 ここに至って、ハーバーマストルーマンの論争や、行政の文化化という古い理念が脳裏をよぎるのだが、それはまた別の話。

ハラトモハル 

※10 行政が、直接、文化芸術を査定することは、困難であるばかりか、好ましくない。英国のアートカウンシルのような専門家組織が必要であろう。
 また、それ以前に、文化芸術の査定のためには、質の高い批評が必須である。たとえば、特にサッカーに詳しくない私でも、W杯の状況くらいは自然と耳にする。そのレベルで、精確な批評が提供されれば、文化芸術をめぐる"差異"は、相当程度、解消されるのではないか。

[淡水録] vol.28 行政による文化芸術の支援について2

2010.08.06

 第一に文化芸術の公益性について確認する。
 片山泰輔によると、芸術文化がもつ公共財としての便益について、文化経済学は次のような諸説を呈している(※4)。これらの便益は、市場メカニズムに委ねているだけでは、必ずしも十分に供給されない場合がある、とされている。
 一、文化遺産説
 一、国民的威信説/地域アイデンティティ説
 一、地域経済波及説
 一、一般教養説(※5)
 一、社会批判機能説
 一、イノベーション説(※6)
 一、オプション価値説(※7)
 これらは経済学上の「公共財の便益」という視点からまとめられたもので、もちろん、文化芸術の特質を網羅するものではない。とは言え、上記諸説は、単体で、あるいは幾つかのセットとして、本稿にとって十分に有効である。過去の文化遺産や新しい創造が、まちに活力を与え地域経済を再生させる、というシナリオは、創造都市論として近年盛んに提唱されている。文化経済学の知見は、「一定程度、文化芸術に公益性はある」ということを示している。(※8)(※9)

 次に、行政が文化芸術を支援することについて、法的妥当性を確認する。
 文化芸術をめぐっては、以下のような法的規定がある。
 まず、世界的には、ユネスコの世界人権宣言第27条、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第15条等により文化権が明らかにされている。国連に加盟している以上、日本においても、これらの規定は有効であろう。
 文化権には、自由権としての側面と、社会権としての側面がある。日本においては今のところ、前者は憲法第13、19、21、23条により、また後者は第13、25、26条により、それぞれ保障されていると考えられている。ただし、その実質は、第25条においてプログラム規定説が有力であるなど、行政の裁量に委ねられるところが多い。
 また下位法規では、2001年に文化芸術振興基本法が公布され、文化芸術の振興についての国の責務が規定されている。(同法の中でも、文化権を認める記述があるが、憲法の定説に則り、実体的規定にはなっていない。)さらに、1975年の釧路市を嚆矢とし、自治体でも文化芸術についての基本条例を定めるところが増えている。
 これらの規定は、先述の「文化芸術の公益性」を前提とし、明文化したものと思われる。
 要するに、行政は、(個人の努力だけではいかんともしがたい諸条件整備の部分において)文化の振興のための施策を、「その裁量により」積極的にとらなければならないと考えられる。

 第三に技術的妥当性について検討する。
 技術的とは、財政、時間、人件等、リソースの物理的な制約を問題にするということである。とりわけ問題になるのは、財政的制約であろう。公益性があり、法的に努力義務が定められても、ない袖は振れない、ということはある。
 ただし、これはあくまで技術的要件であり、ある程度、既定の手続に則って検証され得るものであろうと思う。(分野Aの事業aを実施したいというときにリソースが足りないとする。この場合、事業a'、a''...、ないし分野Bの事業b、b'、b''...と、効果、効率性、緊急性等の指標を比較し、吟味する。結果、aが却下されることもあれば、a'、b''にかけているリソースの一部をaに回すということもあろう。)そこでは「いのち」や「文化」のように、ほとんどその実体を指示しない文言は、慎重に排されるべきである。「いのち」の分野にもグラデーションがあり、無駄もあり得る。「文化」の領域でも、他の政策でも同様である。当たり前のことだ。

 最後に、有効性について確認したい。
 ハンス・アビング『金と芸術』では、政府機関による芸術家等への助成金は有効とは言えない、と指摘されている。それは、芸術家の平均収入を上昇させ、彼らの貧困を解消するのではなく、単に、芸術家になろうとする者を増やすだけだ。文化芸術においては、いくつかの理由により、収入の期待値の低さにもかかわらず、参入者が過剰である。云々。
 この経済学上の指摘は、ある程度正しいものだと思う。供給の適正化、コストの適正化といったことは、多くの場では当然のことであるが、文化芸術においては必要悪としか捉えられていないのではないか。私の同僚の中にも、「必死に経営を維持しているベンチャー企業には直接的な助成はない。芸術家もハングリーな者だけが生き残るのが当然ではないか。文化芸術の助成は、かえって不公平なものなのではないか。」と指摘する者がいる。
 文化芸術に公益性があり、その支援が法的に妥当で、かつ技術的にクリアであるとしても、行政の支援が文化芸術の質を向上させ得ないとしたらどうだろう。供給やコストの構造を歪めるだけだとしたら、どうであろうか。
 ここでは、適正規模ということが問題になるだろう。どのような物事についても、有効性を評価をするには、一定の枠組が求められる。仮定的であったとしても、文化芸術の適正な規模、コストを提示しなければ、議論は空転するだけだ。
 有効性を査定するには、最初に枠組を示す必要がある。

 以上を要約する。
 文化芸術には公益性があり、法的にもそれは認められている。行政には、文化芸術を振興する努力義務が課せられている。
 ただし、それは技術上(とりわけ財政上)の吟味がなされた上でのことである。その過程において、有効性を検証するためには、文化芸術の適正規模を示す必要がある。

ハラトモハル

(つづく) 


※4 『アーツ・マネジメント概論 三訂版』(監修・編:小林真理・片山泰輔)から

※5 「一般教養教育の普及が社会全体に広く利益を与えるということは一般に認められるが、芸術文化もその一部を構成する」という考え方

※6 「芸術文化におけるイノベーションは、実際に公演会場等に足を運んだ観客以外の人にもあふれ出て利用可能となる」

※7 「オプション価値とは、実際には消費しなくても「消費することができる」という可能性から得られる満足のこと」

※8 文化芸術においては、個人的達成がまず重要であるだろうと思う。それは人間存在の根本に深くかかわるものであると、個人的には考えている。
 また、文化芸術は、今や、企業のブランディングやファッション等、他の領域にも深く関与している。これらの特質は、素朴な意味では公共的ではないが、社会のインフラとしての文化芸術という視点は不可欠のものであろう。

※9 林容子は著書『進化するアートマネージメント』の中で、アートの必要性として七つ挙げている。
  一、人間が人間であるためになくてはならない
  一、アートは世の中を変える力を持つ
  一、アートの持つ創造性は、コミュニケーションに不可欠なものである
  一、この世の中には多様な価値観が存在し、アートはそれを一番端的に私たちに教えてくれる
  一、アートには「人類の歴史」「社会の鏡」としての役割がある
  一、死後に残すコレクションにより自己の存在をこの世に残す欲求、すなわち「名誉心」を満たす
  一、サイドエフェクト(イメージアップ、経済波及、国際交流の道具、など)

[淡水録] vol.27 行政による文化芸術の支援について1

2010.08.03

 行政が文化芸術を支援するのは何故なのだろうか。
 平成22年度、文化庁予算は1,020億円に上る。地方自治体の文化関連予算はその3倍以上と思われる。これは、他国と比較すると必ずしも多いわけではない(※1)が、それでも、相当の額と言っていいだろう。バブル崩壊後、このような行政の文化芸術関連支出には、常に懐疑的な声が付いて回るように思える。その懐疑は、この十数年の、地方自治体の文化関係経費の落ち込み(60%以上落ち込んでいる。)により、可視化される(※2)。
 果たして、行政の文化芸術支援について、"合理的な"根拠はあるのだろうか。この種の議論は、最終的に個人的志向のレベルに回収され、水掛け論に終わってしまうことが多いように思うが、改めて、整理し、検証しておきたい。

 近年、大阪府、滋賀県で文化芸術関連予算の削減が議論され、注目を集めた。大阪府の橋下知事は「(大阪センチュリー交響)楽団は、府民に根付いているのか。根付いていないと文化にはならないのではないか」という旨の主張をし、同楽団の補助金を大幅カットするなどした。滋賀県では、自民党系会派から「福祉医療への1億円と、びわ湖ホールのオペラへの1億円、どちらを取るか」との問題提起があり、びわ湖ホールの管理運営費が福祉医療予算と天秤にかけられた。
 また、横須賀美術館の建設に当たっても、大きな反対運動が起きた。そこでも保健福祉予算との対比が一つの焦点になっていた。(※3)
 これらの議論は、それぞれに固有の事情があり、一概に評することはできない。一行政家として、議論の表面には現れない幾つかの要件を想像することはできる。ここでは、ひとまず、多くの方が抱かれるであろう素朴な疑問を記しておくことにしたい。
 一、何故、しばしば、保健福祉予算確保のために、文化芸術予算の削減が唱えられるのか。
 一、「大衆に根付いていなくても重要な文化」というものはないのか。

 前提として、行政が何かを為すときの要件を確認しておきたい。私見では、以下の4点が必要条件である。(十分条件ではない。)
 一、公益性
 一、法的妥当性
 一、技術的妥当性
 一、有効性


ハラトモハル

(つづく)
  

※1 吉本光弘「再考、文化政策-拡大する役割と求められるパラダイムシフト」
   ニッセイ基礎研究所報vol.51から:
   諸国の2006年度文化関係予算(単位:億円)
    日:1,006(0.13%)
    仏:4,531(0.86%)
    独:1,010(0.25%)
    英:2,886(0.24%)
    米:982(0.03%)
    韓:1,782(0.93%) ※()内は国の予算全体に占める文化関係予算の割合

※2 文化庁「我が国の文化行政 平成22年度版」等から:
  文化庁予算:平成元年度 409億円→平成22年度 1,020億円
  自治体文化関係経費:平成5年度 9,553億円→平成19年度 3,328億円

※3 財政再建プログラム試案時、橋本知事の発言:
    http://www.pref.osaka.jp/gyokaku/zaiproshian/giron2_seibunn.html
   滋賀県文化行政資料(「こぐれ日乗」から):
    http://kogure.exblog.jp/6873835/
   横須賀市議会・藤野議員のサイト:
    http://www.hide-fujino.com/problem/artmuseam/index.htm」

[淡水録] vol.26 公民館について

2010.05.28

 hanareの須川さんが、artscapeという美術情報サイトで、"公民館立ち上げの過程"をレポートしている。その中で、同時に寄稿している光岡寿郎氏も巻き込みながら、公民館そのものを改めて検討している。
 公民館って何だろう。(※1)
 http://www.artscape.ne.jp/artscape/blogs/blog3/602/

 hanareは、活動の当初から、生活に関すること全部を支離滅裂に扱う、ということをモットーにしてきた。衣食住にはじまり、政治経済、アート、性や労働、子育て等々、そこにはあらゆる問題が含まれるが、彼女たちは、そのことを公民館という概念に託して表明してきた。"なんでもありな雑多性"への期待/希望/確信。hanareは、そこに公共性と共同体の可能性のようなものを(そして必然的に、両者の相克を)見ていると思う。
 hanareが公民館らたんとするとき、そこでは何が取捨されるべきだろう。公共ということを、また共同ということを、どういう風に考えればよいのだろう。

 光岡氏は、"(公民館という言葉を)「公‐民‐館」と分節するとどうなるか...中略...公民館は「public and private center」足りうる"と指摘している。これはとても面白い指摘だと思う。公(public)と民(private)のそれぞれを、またはその総体を、その関係を扱うところとして、公民館は再検討されることになる。
 この場合、私的な人々によって公的領域が担われる、という印象が強まるのが重要なところではないだろうか。個々人の、一つ一つは小さく弱く、共有されない想いを、受け付け、ときに調整するする場所。公民館がそのようにあり得るのではないか、ということを、光岡氏は示唆していると思う。

 公民館という言葉からどのようなイメージが思い浮かぶだろう。僕にとっては"ただの貸しスペース、町内のおっちゃんやおばちゃんが集まるださい場所"というイメージが強い。残念ながら、クリエイティブで楽しいところという印象は受けない。ハイでもキャンプでもエッジでもない。が、だからこそ、公民館という概念を更新しようというアイデアに面白みを感じる。

 僕が初めて須川さんに会ったとき、彼女は"商店街を作りたい"と言っていた。商店街も彼女たちの言うところの公民館に近い概念だと思うが、そこからは、生活への眼差し、複雑性の称揚ということが、より生々しく感じられるのではないかと思う。それは、特定の誰かにではなく、多くの(原理的には、すべての)人々に関係するものであり、また、基本的には、誰に対しても開かれている。
 近所の商店街を、一つの場所で化合精製する。そこからは、郊外のショッピングモールと、公民館としてのhanareが生まれ落ちるだろう。
 公民館には、僕はあまりよいイメージを持ってこなかった。それは、その場所が、(結果的に)僕のものではない、という印象があったからだと思う。公民館は公的(official)な施設だが、それは直ちに公共的であることを意味しない。従来の公民館は、ある意味、ショッピングモール的であったのではないか。
 hanareが公民館たらんとするとき、この点には十分に留意する必要がある。"私に対してこの場所は開かれていない"と感じている外部を、内部に呼び込むための回路、そのようなものとして、hanareは支離滅裂さをこれまで以上に重視しなければならないのではないかと思う。昨日と今日が論理的に整合しないことを、恐れない。多目的ではなく、鴨川の河川敷のように、無目的、ないしは使途不明。

 半分開かれた中間的なシステムへの憧れのようなものが、僕にはある。それは、mixiが興隆し、行政で「まち(あるいは地域)づくり」がしばしば取り上げられ、あちこちで緩やかなアート・グループが立ち上がる状況を見ても、相当数の人々に共有されているものなのではないかと思う。わやわやと人がいて、大小のいろいろな出来事が起こり、少しずつネットワークが広がること。それは、基本的に善いことだ、と、誰もが直感的に感じているのではないか。
 しかし、それらはあくまで"半開き"である。
 hanareが「公民館」たらんとするとき、どこまで公共的であるか、ということはすぐに問題になるだろう。顔の見える誰かを招き入れる親密さと、公共性は、時に矛盾する。hanareが、そこに集うものを愛し、同時に、世界に対して政治的な機能を果たそうとするなら、慎重に感情の機微を仔細する必要があろう。


※1 一応、法的な定義を確認しておく。「公民館」については、社会教育法の第五章に定めがあり、社会教育(主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。))の一環として設置されることになっている。
 「公民館」の目的は「市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与すること」であり、その事業として以下が例示されている。
 一、定期講座を開設すること。
 二、討論会、講習会、講演会、実習会、展示会等を開催すること。
 三、図書、記録、模型、資料等を備え、その利用を図ること。
 四、体育、レクリエーション等に関する集会を開催すること。
 五、各種の団体、機関等の連絡を図ること。
 六、その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること。
 公民館は、市町村、一般社団法人または一般財団法人だけが設置できることになっているが、類似する施設は、誰でも設置できる。

ハラトモハル

[淡水録] vol.25 発熱京都

2010.03.08

 この数年、京都のアートシーンが少しずつ熱を帯びてきている。
 2008年秋、小山登美夫とタカイシイが六条に、児玉画廊が十条に、それぞれオープンし、同時期にヴォイスとモリユウが移転した辺りから、今の流れは始まっているように思う。その後、作家の共同アトリエがまとめて公開されるイベント(※1)が2009年、2010年と連続で開催され、大きな存在感を示した。2010年には、5月に二つのアートフェア(※2)があるし、8月にはここまでの動きを総括するようなプロジェクトも控えている。
 また、このような流れと並行して、複数の新進ギャラリー(Super Window Project & Gallery、0000など)、WEB(&ART、AMeeTなど)、グループ(hanare、RAD)が立ち上げられている(※3)。4年連続して京都所縁の作家がVOCA賞を獲り、この地のつくり手は前にも増して注目を集めているように思う。さらに、手前味噌ではあるが、京都芸術センターも、こと美術の企画展に関しては少しずつ評価を高めてきている。

 コンテンポラリー・アートの世界の、ギリギリの端っこでは、いつも価値観のカオスが揺らめいている。知性と、マネーと、美しさと、狂気と。それらが押し合いへしあいし、たとえばじゃんけんをするとして敗者が勝者を殴り倒して我を通す様な無茶をしながら、時折、作品というものが生まれ落ちてくる。
 アートの面白さの一端は、それが無目的で際限のない純粋な実験である、というところにある。そこからは、空間、時間、関係性一般についての新しい把握が現れる。社会についての、政治についての、我々の生活に対しての新しいアイデアが生まれ得る。
 その意味において、僕は、京都のアートシーンの新たな熱量を喜ばずにはいられない。

 もちろんこれまでにも、京都では、現代美術のシーンを巡って様々な試みがなされてきた。ギャラリー16等の画廊、ダムタイプや中原浩大らの活躍は特筆すべきものであるし、近年では京都造形芸大の派手な動き、Kyoto Art Mapの息の長い取組も挙げられるだろう。その意味では、この数年でことさら状況が変わったとは言えない。京都で、コレクターが急に増えたとか、文化芸術に理解を示す人が激増したとか、そういう統計はもちろんない。あるいは、僕と同世代の人々がある程度の規模の仕事ができるようになり、個人的に色々な動きが目につく、というそれだけのことなのかも知れない。今やられていることは、概ね、既にやられたことだ、とも言えるだろう。それぞれの世代は、それぞれの世代なりに、いつも熱を帯びてきたのであろうとは思う。

 少しこれまでと違うのではないか、と感じるのは、京都と外との往還が、これまで以上にビビッドなものに思えるからだ。東北や九州から人が来る。東京風のやり方が京都に流れ込む。京都で育った人材が、他都市や世界に出て、また戻ってくる。京都の作法、デザインが各地でまた別の成果を生み出す。そういったことが起こっているのではないかと漠然と感じるのだ。

 大きなエネルギーが動くには、一般に、静と動、両方の力が必要になる。
 京都には、待庵の黒楽茶碗を極とするような「静のエネルギー」はあるだろう。夜遅くまで知り合いの家で飲みフラフラと歩いて帰るような生活が、また、流動性の小さい関係の中、独自の流儀で一つのことをやり続けるようなことが、京都では許容される。そのような一種隔絶した土地柄が、この場所にはある。(それはのんびりしているとも言えるが、停滞しているとも言えるだろう。)
 しかし、現在の京都は、幾分「動の力」を欠いているのではないかと思う。古代、中世、近世、近代のそれぞれに見られた、度を越した出来事が、今の京都にはない。そのせいで、底に徹したオルタナティブになり切れていないとするならば、それは残念なことではあろう。
 京都の人々は、他府県の方はよくは御存知ないかも知れないが、恐ろしくプライドが高い。死ぬ程プライドが高い。それはよく言われることだが、本当のところ、巷の噂を二割増しして考えるくらいで丁度目方が合う。よそさんのやらはることはよう分からしまへん、とか何とか言いながら、彼らは、外部からの来訪者を迎え、いなし、取捨選択しながら、それもまた一つの京都にしてしまうことだろう。東京風のやり方も、それはそれとすることだろう。京都の持つ静の力とはそのようなものだ。
 これを動かせる「動のエネルギー」があるとすれば、それはカオスの淵から立ち上るものでしかあるまい。

 外部との往還が爆発的な荒々しい力を生む火種になる、という漠然とした期待を、昨今の京都に感じる。単に面白いだけではない、加茂川の、東山の、細い路地の所作がスタンダード・オルタナティブになる、その始まりとしての出来事。

 あるいは、そのような期待は危険なものであるかも知れない。最近の流れは、よくある、アート業界の徒な花に過ぎないという見方もあるだろう。京都の特長をスポイルしかねない、積極的に忌避すべき事態だという考えもあるかも知れない。著名人との交友が自慢気に語られ、若い作家が、就職活動をする学生のようにポートフォリオを振り回す。キュレーターが、金とメディアの話しかしない...。最近の様々な動きに、スタイリッシュで効果的であることがいつも求められているような、あくせくとしたものを見ることは難しくない。
 が、そのような浮き足立ったものはいずれ切って落とされると、僕の京都への信仰は告げている。この土地はそれ程甘くもない。この数年の京都アート・シーンの熱量が確かなものなら、炭に点いた火のように、適当で手を抜いた脂どもを絞り落としつつ、それは長く熱く燃えることだろう。

 2010年のアートの発熱が、狡猾な京都の静的摩擦特性を振り切り、京都を超え出て行くこと。今一度、この場所に、北野の大茶会や、豊国寺の大風流のような、度を外れた狼狽を持ち込むこと。それをこそ、僕は望むのだ。

ハラトモハル


 ※1 京都オープンスタジオ2010 http://kyoto-openstudio.jimdo.com/
 ※2 アートフェア京都 http://www.artfairkyoto.com/
    アートフェア<超京都>
 ※3 Super Window Project & Gallery  http://www.superwindowproject.com/
    0000 http://www.0000arts.com/
    &ART  http://www.andart.jp/
    AMeeT http://www.ameet.jp/

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