[淡水録] vol.03 幽霊について
ギレルモ・デル・トロの映画を観る。
激しい内戦が続くスペイン。舞台は人里離れた荒野に建つ孤児院である。中庭に大きな不発弾が突き刺さったままのこの孤児院に、ある日、少年カルロスがやって来る。老教師や義足の女院長らが少年を迎え入れる。彼に与えられたベッドは12番。その日から、少年は奇妙な囁き声や物音に悩まされるようになるのだが...。
この映画は幽霊についての映画である。冒頭でそのことが宣言される。「ファンタズマ(幽霊)とはどのようなものか」と。映画には、明示的に、幽霊が二つ出てくる。一つは少年であり、一つは老教師である。しかし実は、幽霊はこの物語のいたるところに遍在している。
幽霊は、戦争である。幽霊は、記憶である。
物語の一つの焦点は、中庭に突き刺さっている不発弾である。3mは優にあるかと思われる、巨大な鉄の塊。それは本来の爆発力を発する機会を逸したまま、不穏にも屹立している。カルロスはその中にごく幽かな心臓の鼓動を聞き取る。それは、今にも死にそうな、あるいはもう既に死んでいるのだが、暗闇のうちで甦りつつあるかのような、そのような類の音に聞こえる。不発弾の内の音は、孤児院地下の水槽に沈んだ少年のファンタズマに共鳴し、一方で暗い孤児院の外に広がる奇妙に明るい大地にこだまする。大地の向こうではこの孤児院での悲惨な出来事の数万倍の規模で、恐ろしいことが行われている。映画ではその一端しか描かれない。しかし我々はそのことを知っている。
それ自体の不在のうちに世界に影を落とし、その澱として象られ現れる、そのようなもののことをファンタズマと言うならば、この映画のうちに幽霊は満ち満ちている。幽霊は、戦争である。
幽霊は、記憶のあり方に近しい。
我々が何かを思い出すとき、そこに表されているものは最早存在しない。あるいは、かつて一度も存在しなかった。にも拘らず、記憶のうちには極めてアグレッシブな"事実"が潜んでいる。思い出は時に我々の感情を揺さぶり、涙させる。我々に呪いをかけ、彼らの側に引きずり込む。
この映画には幾度か写真が現れる。
管理人の青年が二度孤児院に立ち戻るとき、(そのとき彼は既に大いなる罪を犯しているのだが、)彼は焚き火の明かりに自らの子供時代の古い写真を眺める。観客は少しのとまどいを覚える。「彼が見ているものは、あの写真は何だろう?青年自身なのか?」と。実際のところ、そこに写っているのは過去の彼であるにも拘らず、その者は既に死んでいるかのように見える。
このとき、物語は彼の死を心に決めている。このとき、青年はもはや幽霊なのだ。
このシーンは、管理人への子どもたちの反撃を予感させる、間隙としてのシークエンスに過ぎない。結末の見えた物語は、最早勢いを失い沈んでいくかのように思われる。しかし実は物語はここにクライマックスを迎えるのだ。少年時代の管理人は、「それ自体の不在のうちに影を落とし、」彼を地下水槽の底へと誘う。
映画の中に、中国人の存在がはっきりと示されるのだ。中国人はスペイン内戦下の人民戦線兵士として描かれている。人民戦線はソ連が支援しており、共産党の色が濃い。国際旅団の存在も世界的に聞こえていただろう。毛沢東の躍進する中国にあって、人民戦線に加わろうと考えた中国人がいてもおかしくないかも知れない。しかしスペインの夜に突然現れた中国人は、妙な違和感を感じさせる。
この物語は、実はそのような違和感に彩られている。ふと余所見をしたときに見える、見直したところでとらえることのできない、ファンタズマとしての風景。無駄な伏線のようにすら思える、その点々が、かえって胸に残る。
[淡水録] vol.02 走ることについて
先日京都ではハーフマラソン大会が行われた。平安神宮を出て、御所、加茂川を北上、国際開館で折り返し、白川通りを下って平安神宮に戻る、21km強のコースを7000人のランナーが走る。当日僕はスタッフとして、設営から撤収まで、一部始終を観ることになった。当日はよく晴れた日だった。競技中の11時には10度を超えている。湿度は40パーセント、風はほとんどない。走るには絶好の日だ。
僕は朝8時半に所定の関門に入り、選手が走ってくるのを待っていた。競技開始から30分、担当者に無線で連絡が入り、現場は俄かに騒がしくなる。車を止め、道の真ん中にコースガイドを置く。スタッフの緊張感は少しずつ高まる。
やがて、1人目の選手が現れる。人々は歓声も送らずに、ランナーの不意の出現に撃たれたまま、彼を見送る。彼の足音はそれほど大きなものではないが、しかしはっきりと聞こえる。それに続いて、明らかによく鍛えられたと思しき一団が駆け抜ける。
ランナーの、走る様子は人によってかなり違う。視線を少し前に落とし、黙々と走る人。大きな息づかいで、汗を飛び散らせながら走る人。前のめりの人。飛ぶように走る人。くっきりとした光の中、それらのいくつかは僕に新鮮な印象を残し、目を楽しませる。走ることは、かくも美しい。
走ることが美しいのは何故だろう。
走ることの美しさは、身体のあり方から立ち上がっている。
身体は三次元の実体というよりは,無限次元の多様体としてある。身体には内側も外側もなく、あらゆる方向からあらゆる方向に向けて、無数の強度が貫いている。宇宙から降る粒子たちが、感光体の上で発する一瞬の光として、身体はある。もちろん二元論的に考えることもできないし、言語の中で静態的に眺められるようなものでもない。
走るとは、このような身体がつんのめるように前傾し、あるベクトルの中で一際"強く"よろめき出す、この態度のことを言うのだ。
多くの神々は、逆説的に、走る者としてある。彼らはその超常的な力を、あるいは超越的な物語を、よろめきながら生み出している。スサノオもゼウスもディオニュソスも、いずれも異常な足の持ち主である。もう少し身近なところでは、歌舞伎の中の超人、弁慶もそのような系譜に属すると考えられる(彼の特徴的な動き、六方跳びは中国のよろめく神、禹に由来するという)。彼らは自分の身体を、非常な強度をともなって、無数のエネルギー抵抗の中、前方の空間に投げ出してみせるのだ。
走ることの美しさは、無根拠な空白に向かってよろめき出す、その信仰としてある。身体はそのようにしてある。
マラソンの日、一人目のランナーが現れたとき、我々はほとんど声も出ず彼を見送った。彼の肉体の確固とした動きや、空の青から白へのグラデーションがそうさせたのかも知れない。しかし、その沈黙は本質的には次のようにして生まれたのだ。すなわち、空間が選手の身体によって占められ、そしてまた次の瞬間にはきらめきを残しつつただの虚空に還る、そのような運動性への畏敬の念によって。
走ることは美しい。
ハラトモハル
[淡水録] vol.01 葡萄について
葡萄のことを想う。芳醇な果実を、滴るしずくを、優美に巻く蔦を。
葡萄の起源は古い。葡萄と我々との出会いは、想像することも難しいほどの太古に遡る。いくつもの神話の中で葡萄酒のことが語られる。それらの物語が成立するより遥か以前に、葡萄は身近な存在であったのだろう。彼らは神話以前の時間に属する。我々の古い眷属は、乾いた大地に葡萄の樹を見出したとき、何を思っただろう。野を抜け森をくぐり、強い太陽の光を浴びて立つ樹を見て、何を思っただろうかか。
葡萄の起源の一つは、アジア西部の乾いた大地にある。メソポタミアの伝説の中では、王が船大工たちに葡萄酒を振る舞うくだりがある。葡萄は、伝説の中で大洪水の波に乗り、旧約聖書の世界へ流れ込む。フェニキア人たちの手によりエジプト、ギリシャに持ち込まれ、ローマ帝国の拡大とともに地中海全域に広まっていく。八世紀、葡萄はやがて日本にも到達する。豊穣と多産を明かす、約束の印として。正倉院や東大寺の奥深くに、葡萄模様の鏡が密かに蔵される。
葡萄の起源のもう一つは、アメリカ大陸にある。アメリカの葡萄はより猥雑だ。独特の強い臭いは、斯界では狐臭と蔑まれる。十九世紀には北アメリカ産のラブルスカ種がヨーロッパ産の葡萄を根絶やしにしかけている。これの事実は、僕に『タクシードライバー』のことを思い出させる。スコセッシとデ・ニーロがニューヨークの裏路地で"アメリカ"を殺したときの、その丁度裏返しのことが、十九世紀のヨーロッパでは起こっていたのだ。
葡萄は、幾重もの時間を乗り越えて、少しずつその蔦を伸ばす。静かに美しく。しかし不敵に。彼らは侵入する。
葡萄について書くならば、乾した葡萄についても触れねば片手落ちというものだろう。
僕にとっての最初のレーズンは、どこかの家の台所にあった。冬。薄暗く狭い台所だ。僕はそこでテレビを見ながらおなかが痛くなるほど乾葡萄を食べた。乾燥させ、水分を蒸発させることで、葡萄の糖密度は高まる。しわがれた造形と、いさぎのよい黒色のせいか、乾葡萄は老いた賢者に見える。数十の賢者の脳を食み、夜が更ける。
葡萄の醍醐味の一つは、皮と、その内の果汁の滴りが非常に近接していると感じられるところにある。果汁は時空を越えて、皮の内外を出入りし、迸るかと思いきや、内に内に焦げ付くまでに凝縮する。そのダイナミクスはダンテが描く天国の様に等しい。
「暈が、その支えとなる水気のいと濃き折、それをえがき出す光体のまわりに。まるく
とり巻くと見ゆるほどの、恐らくは至近の距離に/火焔の環、かの一点を囲み、最大の
速力にてこの宇宙をめぐる第九天の運行さえ、はるかにしのぐかと思わるる速さにて旋
回する/...しかして知れ、その動きのかくも迅いは、内に燃えさかる愛の刺激、げには
げしいためと」
しかしレーズンにはこのようなダイナミクスはない。軽やかに飛翔する粒子たちの代償として、そこには沈思する賢者の姿がある。倦むことなく問いを投げ続け、やがて言葉を大気に放出し尽くした、賢人。彼らは思考の極北として、我々を捕らえて離さない。
時を多くとレーズンの内外に糖が結晶化することがある。あまり口当たりは良くない。ラム酒に漬けるとおいしくなる。
ハラトモハル
sakiko sugawa May 11, 2008 02:54 PM