[淡水録] vol.13 東京、上海、釜山
この夏、あちこちと出かけた。東京、長野、山口、神戸、上海、和歌山、釜山、横浜。それに名古屋。それらの情景の一つ一つを、もはや詳らかに覚えてはいない。旅のことは、ちょうどカメラのシャッターを切るように、僕の眼前に一瞬姿を顕しては、また消える。
旅に出かける日の朝は、気分が高揚する。まだ早いうちから、白っぽい光の中をてくてくと歩く。電車や飛行機の椅子にもたれて、本を読んだり、弁当を食べたりすることを想う。知らない街の人々の表情や仕草。
上海の魯迅公園を抜けたところにある清々とした道のことを、とりわけ鮮明に思い出す。間口が狭く、古くて暗い家々が並んでいる。扉を開け放って、何かを料理する女性がいる。傍らに上半身裸の老人が立っている。ほとんどの建物は古くて暗いが、しかし気持ちがよさそうだ。風が吹く。昔の歌謡曲が流れる。
上海と釜山と横浜では、大きな美術展を見て回った。
釜山ビエンナーレの会場の一つは、何かの遊園地の宿泊設跡(?)を転用した空間で、大変暗く、床に厚手のカーペットが敷かれていた。人のほとんどいない廊下を手探りをするように進む。椅子に腰掛けてTeresa / Alexanderの"Eight"という作品を観る(http://www.hubbardbirchler.net/works/eight/)。暴風雨の中のパーティーをモチーフとした映像作品だ。作品の冷たい光のせいか、行き場のない気持ちになる。
旅は、時には幾人かの友人と一緒であり、あるいは妻と二人きりであり、また独りであったりした。
釜山の海辺の急に開けたところで、その開け具合にうたれて振り向くと、友人たちがばらばらに歩いて来る。その様子。皆、それぞれに興奮した顔つきで、話をしたり何かを見たりしている。その様子。
また、妻の歩き疲れた顔を眺め、我々の若さあるいは老いのことを、茫漠と広がる未来のことを考える。暗い夜の街に、とんとんと走る電車の光のことを思い出す。
早い時間から冷たいシーツに包まり、本を読む。少し外を歩く。和歌山では中華そばと早なれ寿司を食べる。本屋に寄って、また本を買う。
数年前の冬、東京の上野で友人と臓物を食べた。寒い夜だったように思う。街には人が多く、皆屋外で口から蒸気を吐きながら、ビールを飲んだり、煮た何かを食べたりしていた。白熱灯のオレンジの光があちこちで揺れ、それは友人の実家の、古い部屋のことを思い出させた。
彼は語る。もちろん語ったはずだが、もう覚えていない。

[淡水録] vol.12 不純な日本人
過日、友人から「日本の純度」と題したメールを貰った。要旨は概ね以下の通りだと思う。
日本は、たとえばアメリカがそうであるようには、オープンではない。日本社会が今後も「純度」を重視するとき、良し悪しは別として、日本のプレゼンスはある程度予測できるものなのではないか。そしてその見通しに対してどれだけ議論をなしうるかで、日本の方向性が決まるのではないか。
このことは以前から彼と話していたことだ。
「日本」について誰かが話をするのを聞くと、僕はいつも当惑する。「日本」が主語になることが、いつまでたっても腑に落ちない。一体「日本」はどこにあるのだ、と、初手で躓いた子どものような気持ちになる。これは社会学の基礎的な問題だろう。
社会とは何か。社会は存在するのか。
もちろん、「日本」社会は実体として存在する。法制度と通貨によって※。究極的には、理由なき暴力によって、それは担保されている。しかしそれはそれだけのことだ。「日本」は原罪としてしか、僕には現れない。一段低いレベルでは、メディアや領土や血脈も、「日本」を形作っているといえるかも知れない。たとえそれらのグラデーションの端っこが有耶無耶に霧の中に溶け込んでいるにしても、慣習として、それらは「日本」意識させるだろう。しかしそれはそれだけのことだ。
内田樹に倣って言えば、「日本」というレベルの社会は幻想に過ぎない。僕はその幻想が好きではない。僕は、「京都」や「パリ」といった幻想の方が好みだし、やくざや公明党や隣近所といった社会に興味を覚える。
友人は、「日本」を扱ってはいるが、実はコミュニケーションのことを書いているのだと思う。そうであるならば僕は彼の意見に賛同する。というか、こんな回りくどいことを書かずとも、僕は敬意をもって彼を信頼している。
僕もまたオープンでありたいし、そのような場にいたいと思う。しかしそれと「日本」社会の話とは別だ。
海外で生活すると、日本人であることを意識させられる、という話をしばしば耳にする。僕には長く海外で生活した経験がないので、そのことはよく分からない。
たとえば、金子光春という人がいる。昭和初頭に、中国、ヨーロッパ、東南アジアを放浪した人だ(自伝『どくろ杯』などに詳しい)。それは欲望と貧困の、濁流のような旅である。東京から長崎を経由して、船で上海に渡るのだが、ともかく金がないので、行く先々で不義理な借金や、書き殴りのやくざな仕事をする。
彼は上海について次のように記す。
「漆喰と煉瓦と、赤甍の屋根とでできた、横広がりに広がっただけの、なんの面白味も
ない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるとこ
ろとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれはつづいてい
た。かさぶたのしたの痛さや、血や、膿でぶよぶよしている街の舗石は、石炭殻や、赤
さびにまみれ、糞便やなま痰でよごれたうえを、落日で焼かれ、なが雨で叩かれ、生き
ていることの酷さとつらさを、いやがうえに、人の身に沁み、こころにこたえさせる。」
この陰惨な紀行文の中には、しかし、日本のことは出てこない。金子という人が寒々しい上海のうえを歩き、流れ、人に会い、寝たり食べたりしていたことばかりが書かれている。「日本」はただの事実でしかない。
「日本」について語ることは、最初から、一つのロマンスに過ぎないのではないか。
英語や中国語が話せず、うまくコミュニケーションをとれないという経験は多くの人にあるだろう。僕にはある。お互いに意欲があっても、なお意思疎通ができないというのは悲しいことだ。中国に行ったときにチャーハンを食べようとして、筆記のうえに絵まで描いてみせたのに、冷飯が出てきたときは涙をこらえて天を仰いだ。それは悲しいことではあるが、特段に「日本」を思わせるということもない。
僕は「日本」を信じるのが嫌いだ。そういうやり方で、「日本」に対して意識的であり作為的である。「日本」の大半が新聞とテレビによって作られているというのなら、僕はそれらを拒否しよう。目に見える街の様子と友人の姿態だけを、ひたすらに奉じていよう。そのことで、ぼくはどれだけ「日本」から逃げられるだろう。
※ 政府や国民や天皇や民主主義のことはまた別にあるとしても。
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Kalaf、友人よ、僕の返事は、随分的外れだろうと思う。そもそも「日本」を持ち出したのは僕の方なのだから、あるいは、幾分、誠実ではないかもしれない。気を悪くしないで欲しい。
次はまたいずれ、「マイアミ」のことを聞かせてほしい。
ハラトモハル
[淡水録] vol.11 日本の純度
友人に、何か書いてもらえないかとお願いした。淡水の交情の名に相応しく、時々、このように友人の文章を載せられればと思う。
最初はマイアミの友人からの手紙。
彼は、僕がメーカーにいたときの同期だ。この春にアメリカに赴任して、今は中南米エリアのオペレーションマネジメントを担当している。確か大学では国際政治論をやったと思うが、広い意味での政治、関係の力学に意識的で、自然、とてもドラマティックなところがある。人を高揚させる。
彼は僕をトムと呼ぶ。正直なところ少し気恥ずかしいが、彼らしいやり方だ。
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京都の友へ、
今、国会議事堂とワシントン記念塔をつなぐ芝生の上で、こうしてトムへの書簡を書いています。今日が「September 11th」であることも、またここがアメリカの首都であることも特段意味があるわけではなく、息を吸っても肺まで届く前に空気がもれ出る気管支の小さな穴をふさぐ行為を、今しようとやっと決めたのです。
「マイアミから見た日本」という題をトムがくれたのは五月の中旬。そして締め切りを聞いた僕には「二ヶ月のうち」と答えが返ってきた。つまり気管支からは二ヶ月もの間空気がもれていたということです。どうりでいつも、微かに息苦しかったわけです。
さて、今日はトムに「日本の純度」について僕が感じているところを話したいと思います。
「結局opennessの問題なのではないか。そしてこのopennessは、言い換えれば寛容と耐性の表象なのではないか。」
アメリカのみならず、世界の多くの地域と日本を比べた際、僕は日本の特殊性をこのopennessに求めるに至りました。このopennessを、もちろん実際には日本の場合は打ち消しの接頭語がつくわけですが、「純度」と対置させながら話しましょう。
分かりやすい例を挙げます。アメリカでは、「アメリカ人」であることが必ずしも「アメリカ人」であることだけを意味しない場合が多いことは、例えば親の一方がヨーロッパ系で、もう一方がアフリカ系の友人を持てば分かります。しかもヨーロッパ系と言った場合でも、フランス系やドイツ系、スラブ系等、幾らでも系譜はあるわけです。つまり彼らは「アメリカ人」という根っこから幾種類か異なる水脈につながっているのです。それが本人にとっては日常的に意識されなくても、そういう事実があります。また、より強調すべきことは、それが他人から認識され得るということです。
また、僕のオフィスの話で言えば、隣にはコロンビア人が、向かいにはスウェーデン人が、そしてはす向かいにはチリ人が座っている。つまりオフィスの水脈も一様ではないわけです。
だからこそ、特にアメリカはそうですが、社会のみならず個人の次元から水脈が複数存在し、それが社会の当たり前の事情であるがため、多様性に対しopenにならざるを得ない。あるいは、逆説的には多様性に対し無関心でいざるを得ない。また社会の制度も多様性に対応することが強く求められる。ここで「純度」を当てはめるのであれば、民族的な純度が極めて低いことが、思想や信条の差異が存在することを当たり前として認識することをどれだけ助けているかと思うのです。両親の例に戻れば、その子供はどちらかの価値観だけに偏ることはまずないのですからね。
一方、日本の民族的な純度が極めて高いことは広く知られています。海外で中国人や韓国人と間違えられることが増えても、この純度が大きく変わることは今のところなさそうです。
この純度は、性質として「寛容」と「耐性」ととらえることができるでしょう。言うまでもなく、異なる水脈を自らの根っこの中に引っ張る寛容さと耐性を是としてこなかったという意味においてです。
確かに、日本は異なる文化や文明を優れたもの、進んだものとして取り入れてはきました。そして今でもそうしているでしょう。しかし、それは根っこからではなく、地上のホースからだったのではないか。つまり栄養分としてその効能を認めはしたものの、水脈として混合させることはなかったのではないかと思うのです。日本は、異なる水脈を寛容するわけでもなく、またそれに耐えるわけでもなく、今でも純度を維持することをまず大事にしているのではないかと感じます。もちろん、良い悪いの話ではありません。
このことがよく表れている事象として「バラつき」を思い浮かべてください。モノを大量生産する上で最も大事な要素であるバラつきです。
そうです、日本は、あるいは日本人はバラつきをなかなか受け付けないのです。村八分からはじまり出る杭、国民総中流、そしてトヨタ。これも良い悪いの話ではありません。事実、この性分が戦後の高度成長を根本的に支えたわけですし、遍く当たり前に手にするバラつきのない日本のサービスや商品はやはり快適で心地良いものです。成田に着く度に実感します。日本のアニメやマンガといったポップ・アート、サブ・カルチャーが世界で評価される背景もこの辺りにあるように思えてなりません。つまり純度を高める過程でそれらが生まれたものであるという認識です。
他方、アメリカで家屋やビルの細部を見れば、それが細部というほどのものでもないにせよ、バラつきだらけです。また保険や教育が端的ですが、アメリカではサービスは偏在するものです。
古来、日本は中国や朝鮮の文化を、そして中世以降はヨーロッパとアメリカの文明を受け入れてきました。ただし、それはホースからの水としてであり、根っこからの水脈は純度の高いもののままなのではないでしょうか。
今、日本では「鎖国・開国」議論が賑やかだそうですね。日本の外で、日本人以外に囲まれ、図らずも同じ様なことを感じ、考えていました。
誤解のないように改めて言います。民族的な純度から展開した日本の性分について、僕は良し悪しの評価をしようとしているわけではありません。もちろん、少しばかりのopennessを望みますし、自分ではよりopenにと思いますが、だからと言って日本を否定的に書いたつもりはありません。
ただ、トムに伝えたいのは、さらにはこの書簡の機会に不特定多数に訴えたいのは、僕達の社会が今後も高い純度に重きを置いた場合、世界の中で相対的にはじき出される将来の日本のプレゼンスはある程度予測できるものなのではないか、そしてその見通される帰結に対してどれだけ作為的にあるいは不作為的に臨むのか、ということです。この二段階の認識と思考プロセスへの寛容な議論と、その議論への耐性が、僕達の社会にどれだけのバラつきを認めるのか、ここを一人ひとりが意識することが今後の日本の方向性を大きく決めるのではないかと考えています。
Washington D.C.にて
September 11th, 2008
Kalaf
http://kalaf-ahora.blogspot.com/
[淡水録] vol.10 痛みの哲学、接触の技法
contact Gonzo 「the vanishing paragraph and the clouds of hell」を観る。
最初に contact Gonzo について確認しておこう。
contact Gonzo 。垣尾優と塚原悠也によるユニット。2006年、二人はある確信を持っておごそかに殴り合い、contact Gonzo が突如始まる。朦朧としながら訳もわからず「痛みの哲学、接触の技法」を謳い、愛と存在についての活動を行う。2007年、mikahip-k、参加。2008年、加藤至、参加。
彼らの今回の公演には、次のように説明文が付されている。
contact Gonzo による崇高論の実践。
または、contact Gonzo は「表現」ではなく「景色」ではないのかという仮説。
その場合これは芸術ではなく「風」だ。もしくは「虹」だ。
淡々と生まれ、なくなる。
景色を、出来事を生み出す、自我では届かない法則性。
意思と意思の衝突によるアクシデント、その瞬間。
墜落する美学。
なぜ立つ。なぜ落ちる。なぜ語る。なぜ考える。なぜ光る。なぜ静か。なぜ建てる。
なぜ脱ぐ。なぜ飲む。なぜ走る。なぜ飛ぶ。なぜ殴る。なぜ虹を見上げる。
その仕組み。
会場の扉が開くと、中央に一段低くフロアが開けている。椅子はない。段差に腰かけるなり、壁際から椅子を持ってくるなり、自由にどこにでも座れる。フロアの四隅に緑のテント。既に彼らはそこにいる。ボールを弄ぶ者、談笑する者、座る者。リハーサル中かと見紛うばかりだ。ミシンと大量の服に囲まれて、パソコンを操作する者もいる。観客は、観客と出演者の違いがうまく判別できない。「舞台」とそれ以外の差も明瞭ではない。
contact Gonzo は殴り合う(http://jp.youtube.com/watch?v=xPtDe3Zct4M)。
彼らの掲げる「痛みの哲学」については、実に長い歴史がある。ベンサム、サド、ヴィトゲンシュタイン、フーコー。親しく思い出されるのは『論理哲学論考』おける、次のような痛みの議論だ。
痛みはもののように実在するものではない。痛みとは言葉による表現でしかない。われわれは他者の痛みを知ることができるだろうか?どういう状態をもって痛いというのか、痛い時にどのように振る舞うのか、我々は長い時間をかけて習得してきた。我々は、自分の痛みについては分かるような気がするし、実際に他者に的確に表現することもできるようだ。ところが他者の痛みとなると、話はややこしくなる。他者が痛みに苦しむ時、我々は、多分この人は痛いのだろう、と自分の経験に照らして推測する。しかし、この人は痛いのだろう、という推測によって、他者の痛みが分かったということにはならない。自分は同じ痛みを感じ得ない(もし感じたらそれは他者の痛みではない)。言語をもって痛みの表現と痛みとの間に入ることなど望み得ない。
このことは、僕の「他者」の理解の基礎になっている。
contact Gonzo は殴り合う。彼らは痛そうだ。
彼らの一連の殴り合いは、明瞭な区切りもないままに始まる。それは車窓に突然流れ込む、電燈の光や、あるいは雑踏を照らすネオンの光に近しい。彼らはお互いの胸を小突き、腕をひねり上げ、くんずほぐれつ回転しながら、突如として離れ、睨み合う。頬を張る。蹴る。音が鳴り響く。身体の軋む音や、フロアに肩を打ちつける音が聞こえる。しかしヴィトゲンシュタインが言ったように、原理的には、その痛みは、我々のものではないし、彼らのものでもない。それは車窓の向こうの景色でしかない。観客は勿論のこと、彼らも、自らが殴っているその者の痛みに、永遠に辿り着くことはできない。しかし、彼らは肉薄しようとしている。触れることはできぬ、が、なお近寄れ、と。
contact Gonzo において、殴ることは、ハッキングに似ている。正常なシークエンスに介入し、予期せざる効果を、潜在的あるいは顕在的に発揮する。技術的様式の洗練の上に、情報を生産する、創造的に奪取する。肩で息をしながら、彼は、彼らをハックする。彼の打撃は、トロイの木馬のように対象のうちに潜入し、血管を破裂させる。彼を転倒させる。 その向こうには、虹がかかっている。

フロアでは、複数の文脈が微かにオーバーラップしながら立ち現れる。次から次と服を着替え、自らの髪を切る者がいる。横たわるサラリーマンがいる。会場中を出たり入ったりしながら、ライトを明滅させる者がいる。ドリルの音を響かせつつ、橋が建設される。女がいる。人々がいる。クッキーが焼かれる。それらはほとんど意味を成さない。意味は、立ち現れるかと思うや、慎重に排除される。
このような選択は、何ものかへの信頼がなくてはできない。何ものかへの信頼。それは、端的に言うならば、「景色」への信頼だ。虹と風への信頼。自分のうちに無限に広がる、風景への信頼。自分が誰かを殴ったとして、それがどこへも行き着かないような、雨上がりのクレバスのように清々とした世界のうちで、なお誰かに触れかかろうとする。それが信頼でなくて何であろう。彼らは、ただ自分が風景であることを知っている。
彼らの鈍重に折り重なった肉体に少し飽き始めた頃、僕はこれが風景であることを知った。
ハラトモハル
[淡水録] vol.09 旅について
彼方への愛情というものがある。
夏、蝉時雨の降る山道を抜けて海を一望する瞬間への、懐かしさとも憎悪ともつかぬシンとした気分。光、風、水や音や熱への、細く鋭い愛情を感じるなら、それこそが旅というものではないか。
先日、長野へ親戚を訪ねて行った。長野には叔父が住んでいる。諏訪の森の中でレストランを営んでおり、夏になると母も手伝いに行く。
名古屋の妻の実家を朝のうちに出る。諏訪湖を横に眺めながら、車で三時間ほど、昼には叔父のところに着く。聞いていたよりも暑い。車道から森へ続く道の端では、半裸の男性が手を振って見せる。山羊もいる。暑い。
昼食をとり、暇に任せて近くの牧場に行く。常々、妻は馬や牛や山羊に言及する。犬にも鳥にも。彼女は彼らのことが好きだ。僕にはそれほどの興味はないが、間近に山羊の横腹を眺め、その硬い毛に触れると、やはり心楽しくなる。妻は熱い太陽の光を浴び、疲れて、牧草の上で眠ってしまった。少し日が陰る。
母は今年、叔父のレストランの近くに山荘を買った。夕陽を受ける白樺の林道を抜け、母の山荘へ行くと、窓際に鮮々と花が飾られていた。花の名を教えられたが、今は思い出せない。
彼方への愛情は、具体的に身体を移動させるところにのみ生まれるものではない。それは眠りの中にもある。それは過去と未来の記憶の中にもある。加茂川の土手に座り、風を受けるとき、我々は数千年、数万キロの時空を越えて、彼方について思いを巡らせ得る。
もっと遠くへ、と我々が願うなら、我々はいつでも旅に出られる。永遠にそこに到達することはないが、だからこそ我々はそれを、彼方を愛することができる。
長野からの帰り、山道を走っていると大変な嵐に遭った。稲妻が光り、雷鳴が轟く。気温が下がり、湿気と相俟って窓が曇る。
これらのことを、僕はつるつると経験した。左程のこともないが、ふと思い出される。 僕は夢の中であの嵐に再会するかもしれない。家の床に耳をつけて、あの雷鳴を聞くかもしれない。そのイメージのことを彼方に感じる。フラッシュバックのように閃くあの嵐は、いずれまた、僕をどこかへ向かわせるだろう。
我々は、いつも彼方への愛情をもっている。それは虚栄と感傷と憎悪でできている。そのような彼方への志向は、写真と映画を巡る複雑な問題系を抱え込んでいるが、しかし、シンプルに愛情ではある。
海のことを想像しよう。どこまでも続く熱い道のことを、車窓の暗闇を、人々のざわめきを想像しよう。我々はいつも旅に焦がれている。
ハラトモハル
hanare November 23, 2008 08:52 PM