[淡水録] vol.23 ヒップホップのハード・コア(1)
もしも、あなたが、思想や生活や行為において、どこかに行き詰まりを感じるなら、あなたはヒップホップのことを考えるべきである。ハードでざらついた、少し未来のヒップホップのことを。
ヒップホップは、1970年代初頭のブロンクスを揺りかごに、主として、黒人とヒスパニックにより育て上げられた。ヒップホップを奏でた最初の一群は、青空の下の公園で、あるいは真夜中のダンスホールで、クレイジーな実験としてそれを行った。グラフィティとブレイクダンスとを巻き込み、やがてヒップホップは一つの"態度"として成立する。
ヒップホップは、そのコア・イメージに闘争を含んでいる。
ヒップホップは、マネーと、ドラッグと、血の歴史を刻み、それでもなお、ドラスティックな自由を、ゲリラとしての、呪術としての、非正規な自由を加速させる。
書というものがある。書家・石川九楊によれば、書とは「他者、世界や自然に立ち向かう力」を中心軸とする表現である。
中国の書は、その苛烈さにおいて、日本のそれとはかけ離れている。天から真っ直ぐに、筆の尖り(自己)を紙(世界)に突き立てる、その覚悟の跡は、彼の国が、否応なく政治の国であることを示す。一方、日本には政治がない、と石川は言う。そこには"天"という概念がなく、ただ薄明のもやの中に立つような、無言の合意だけがある。中国という磁場に鑑みるとき、ひらひらと舞い散る紅葉の、その赤のトーンの一瞬の翻りが、ただただ日本なのである。
この、中国と日本のグラデーションの中に、グラフィティを置くとき、それはどのように見えるであろう。
グラフィティは、自己の存在証明であり、美の発露であり、マニフェストであろう。闇の中、ライターが素早い仕草でタグを描くとき、そこにはエス(欲求、衝動)とイド(規範)のせめぎあいの中でエゴが鋭く立ち現れる。中国の政治観が、天を頂とする階層的なものであり、日本のそれが、虚を中心とする同心円的なものであるとするならば、ヒップホップは、あくまで人間・私を起点とする。世界に対する、カウンターとしての、私のボム。
グラフィティは、その意味でユマニズムである。
グラフィティは、戦略的に匿名的であり、身体的であるにも拘わらず時空を超えて遍在する。顔も知らぬ者への親密なメッセージであると同時に、公的空間を私的空間に還元する不穏なサインである。
ドキュメンタリー『ワイルド・スタイル』には、NYの地下から、カラフルに彩られた巨大な鉄の塊が、高速で地上へ躍り出る様が記録されている。それは、ただ人間・私の、天と地に仕掛けた変革の爆弾のように見える。
人々はそれを無視する。人々はそれを嫌悪する。人々はそれを賞賛する。何故なら、グラフィティが、一瞬にして一切を塗り替えるからである。
ヒップホップは、そのコア・イメージに闘争を含んでいる。
(つづく)
ハラトモハル
[淡水録] vol.22 Melody Cup について
高嶺格演出『Melody Cup』を観る。
伊丹市・アイホール。『Melody Cup』公演最終日。
会場には、観客席よりも少し低い位置に大きなスペースが取られ、一面がブルーシートで覆われている。客席から暗闇を透かして見ると、空間の遠近がうまく掴めず、そこに確かにあるはずの床面は、ふとした拍子に、底知れぬ水面のように見えもする。
冒頭、暗闇の中、時計の音が刻まれる。少しずつ音量を増す針音。
突如ぬっと立つ人々。幾つものシルエットが、舞台奥の段を乗り越え、前進する。その手足の野性味は、これから物語が始まるという興奮を、熱量を呼び起こす。
現代美術家・高嶺格を知ったのは、二〇〇四年、横浜美術館で『木村さん』が公開中止になったときのことだ。
彼は九十年代半ばにダムタイプに参加し、以後、現在に至るまで、挑発的でありながら、洗練された作品を提示し続けている。近年では、山口で大友良英と作り上げた「Ensembles」が大きな喝采を受けたし、先日、マンガン記念館の閉館に際して行われたパーティーも素晴らしいものであった。
作品への期待は否応なしに高まる。
本作の中では、アイコニックな事物(ドラえもんやマイケル・ジャクソン)を、日本語とタイ語で発声するというシーンがあった。数名のタイ人が(タイ風に)「ターミネーター」と言う。応えて、日本人が(日本風に)「ターミネーター」と言う。(順序は逆のこともある。)
一連の応答は、それら発音の微妙な差異自体、既に興味深いことである。たとえば「ビヨンセ」というアメリカの歌い手が、かように近しい/隔たった音で捉えられ、タイと日本の両国で流通しているということ。それはグローカル(Global+Local)という言葉を想わせる。
しかし、それ以上に、その言葉遊びの中にしばしば挿入される不穏な懐疑の眼差しにこそ、僕は目を引かれる。「お前は一体何を言っているのだ、何だその珍妙な発音は」という問責の視線。このような眼差しは、実は我々の社会にありふれているものではないか。黒澤明の『羅生門』で鮮やかに示されたとおり、同じものを見ても、人は違うアイデアを抱く。同じ概念について、誰かはそれを好み、誰かはそれを嫌悪する。「ジャイアン」という一つのイメージを巡って、ある人はまた別の人の表象に横槍を入れる。
その宿命的すれ違いの中で、それでもなお、「ブリトニー・スピアーズ!」という発語はおかしみを持って響く。その懐疑自体のユーモア。
高嶺格に初めて会ったのは、二〇〇六年の初冬のことだった。あの『木村さん』の作家が来ると聞いて、京大の美学研究室の飲み会に潜り込み、彼に会ったのだ。
その頃、彼はどこかの大学で「裸になる」というワークショップをやっており、僕はうまく事態が飲み込めぬまま、随分とクレイジーなことだ、と思った。ちょいちょいと酒を含むこの人は、理知的に、黙々と考える人のように見えるのに、と僕は訝しんだ。
後に、彼は相当にいい加減な無茶なこともする人であると知りはしたが、それでも、その時の僕の印象は消えることがない。
本作のモチーフの一つは、「空(くう)」であった。半人半馬の態の登場人物が、チベット風の衣装を身にまとい、苦楽について問答を交わすという直截なシークエンスもあった。出演者の中に元僧侶がいたということも影響しているかも知れない。が、とは言え、そのような問題意識は元から高嶺のうちに胚胎していたものではないかと思う。
「空」についての議論は、とりわけ大乗仏教中観派において展開された。分け入れば諸論あるが、簡単に言うと「世界の諸々の存在には実体性(自性)がなく、関係性(因縁)のうちで在るのみだ」ということを示している。
高嶺は、公演前のインタビューの中で、創造について語っている。「知覚された内容について判断しない、論理的な道筋を求めないということ」、(そしてここがより大事なことだが、)そこに様々な価値判断の網目が被さり収束していくということ。高嶺はそれが作品の鍵であると言う。これは「色即是空空即是色」の往還に完全に相似である。
高嶺は、ペイントや彫刻などの特定ジャンルに拘らず、多くのメディアを駆使する。彼の作品はいつも、彼自身のリアルな生活の中で、グジャグジャと形を求め、真摯な思考の末に思いがけない形をとって現れる。高嶺の作品は、その創造の最初に、様々な形式の条件(予算、素材、場所、人など)や課題・問題を引き受け、そこから始められる。むしろ、あっ、という創造の瞬間を掴み取るには、彼は、特定の技法に拘ってはいられない。
彼は、自分のことをシャーマンのようなものだ、と言う。
物語の中では、山が形作られ、そこに人々が詣で、海ができ、また歌が歌われる。ブルーシートはいくらでも形を変える。少しずつ凝り固まるようにして、パフォーマンスは、濃度を増す。最終盤、緊張は一転し、解放感に満ちた音楽、ビージーズの「Melody Fair」により作品が閉じられる。スクリーンには、パフォーマーたちの興奮した顔が映し出され、それに呼応するように、舞台では一際大きな「山」が形作られる。
「Melody Fair」は、映画『小さな恋のメロディ』の挿入曲として、日本でも親しまれている。歌の内容は、女の子の感情の揺れを捉えて、お前はまだ小さいし、人生は雨模様ばかりじゃない、と諭すものだ。
Who is the girl with the crying face looking at millions of signs?
Melody fair, remember you're only a girl.
Melody, life isn't like the rain ; it's just like a merry go round.
「それ禍と福、何ぞ糾える縄に異ならん」というのは古今東西の哲人の教えではあろう。それは概して正しいが、しかし、ある種の脱力を感じさせるものでもある。このラスト・パートは、幾許かの感慨ともに、本当にこれでよいのか?という疑念をも覚えさせるものであった。
物語のタイトル『Melody Cup』は、もちろん「Melody Fair」に因んだものだろう。作中での扱い方から見ても、本作の解釈にとって、この音楽を軽視するわけにはいかない。歌の内容と高嶺の物語がリンクしている必要は必ずしもないが、しかし、ここで為された無邪気な解放は、一体どのように考えればよいのであろう。この解放は果たしてどこからどこへ向かうものであったろうか。僕にはそこからどのような物を汲み出せばよいのか、まだうまく判断することができない。
ハラトモハル

タイの出演メンバーたちと
[淡水録] vol.21 ヘルシンキ・スクールについて
過日、友人に「ヘルシンキ・スクール」という写真家の一派を教えてもらった。近年、欧米で注目を集め、先日、資生堂ギャラリーでも紹介されたのだそうだ
http://www.helsinkischool.fi/
数年前、十一月の暮、僕はスウェーデンで十日程を過ごした。彼の地、第三の都市、マルメに投宿し、そこからルンドというところへ通って働いた。冬というにはまだ早いが、それでも空気は冷たく澄み、日が暮れると、物寂しさがしみじみと感じられた。クリスマスはまだ遠い。辺りに人通りは少ない。所定の仕事を終え同僚とパブで夕食を食べると、もうすることはない。ホテルのラウンジで本を読むのにも飽き、少し外を眺めて、シーツに潜り込む。
それは北ヨーロッパの晩秋のことであった。

ヘルシンキ・スクール(ヘルシンキ派)とは、ヘルシンキ芸術デザイン大学の教師、学生、卒業生たちのグループだ。ヘルシンキ・スクールの写真に共通して見られるのは、美しい自然が作り出す風景と、北欧独特の光と色の捉え方、風景の内に表される物語性だという。
一九九六年にヘルシンキ芸術デザイン大学は、一派の活動をサポートするために「ギャラリー・タイク」を立ち上げた。ギャラリーは、展覧会を開き、作品集を出版し、少しずつアーティストたちを世に知らしめていった。次第に、彼らは主要な国際アートフェアで注目を集めるようになり、二〇〇八年にパリの国立高等美術学校、二〇〇九年にはドイツのウォルフスブルグ美術館で展覧会を行った。
時折、友人から外国のことを聞く。信じられないほど大きくて美しいアイスバーグのことや、熱いマチュピチュのことを。濃いアマゾンの緑を。それらを聞き、僕は強い渇きを覚える。こことは全く異なる空気、温度や風のこと、匂い、吐き気がする程のディスコミュニケーションを、僕は欲望せずにはいられない。
マルメの夜はどこまでも薄く青暮れてゆく。その記憶は、一本の道を通じて、対岸のコペンハーゲンへとつながっている。コペンハーゲン国際空港のオイルを引いたウッドデッキが、オレンジの光を反射し,白や青をへだてなく混ぜ込んだ空に少しの赤味が足される。
二つの街は、本来、直接的に関係するものではない。海上を走る真っ直ぐな道でつながっているが、スウェーデンとデンマークは、なお異なる土地だ。両者は、ただ僕の記憶の空の中でのみ溶け合っている。僕が氷山の風景を欲望するとき、その欲望が、僕の眼前の物事を溶かすように、何者かが、僕のマルメと、彼女のコペンハーゲンを、溶かしているのだ。
眠りに滲む夢のごとく、二つの街は深く果てなく結びつく。

ヘルシンキ・スクールの、瑞々しい写真群を眺めていると、僕は朱の差す空のことを思い出さずにはいられない。
一派の写真は、ベッヒャー夫妻とその弟子たちのように、一つの方法論から出てきたものではない。確かに、そこには水や緑が横溢し、物語性や抽象性が共通して感じられる。しかし、ヘルシンキ・スクールの、スクールとしての特徴はそこにはないのではないか。
彼らの写真を眺めるとき、僕はいつもそこに赤い光を見出す。その色味がどこから来ているものか、未だ僕には判然としない。が、あのマルメの空に薄く滲んだ朱のことを、僕は悲しく思い出してしまうのだ。
ハラトモハル
[淡水録] vol.20 仕事のこと
僕は京都市文化芸術企画課に所属している。担当事務の一つに「京都市文化芸術都市創生計画の推進」というものがあり、その一環として「若手芸術家等の居住・制作・発表の場づくり」について検討している。色気のない施策名だが、それでも夢は膨らむ。
僕にとって最初に思い浮かぶのは、ウィーンのWUK、かつてのSOHO、バルセロナのla makabraである。環境も対象も異なるのだから、これらのモデルがそのまま使えるとは思わないが、それらのコミュニティが持っていた高揚感を、個人的に、僕はこの施策に期待する。
僕が公務員を志望した理由の一つは「文化行政に携わりたい」というものであった。
クリエイターはしばしば行政を敬遠する。スピードが遅く、意味不明な制約がやたらとある。犯罪的にセンスが悪い。担当者には仕事に対する愛情がなく、しかも数年でコロコロと変わる...。
あるいは、より根本的に、それが「体制」であるという点で、彼らは行政を嫌うのかも知れない。
しかし一方で、行政は膨大なリソースを持っている。バジェット、時間、権限、人材、さらには各界とのコネクション。(先の諸々の制約の多くは、この大きなパワーを制御する代償としてある。)行政のもつ豊富な資源を一概に否定することは、作家たち自身にとっても幸福なことではないはずだ。
ならば、その矛盾を埋める者が必要だろう。あちらとこちらの間に、双方の言語に通じた通訳者が必要なのではないか。それは誰にでもできることではないだろうが、もしかすると僕には可能性があるのではないか。
それが、僕の文化行政への志向の出発点であった。
京都市に入庁して三年目。この春、異動があり、僕は文化芸術企画課に配属になった。
「若手芸術家等の居住・制作・発表の場づくり」のポイントの一つは、「芸術家が京都の町に暮らし続けること」である。京都市には芸術系大学が多いが、卒業生の多くは京都から他都市へ出て行ってしまう。(あるいは制作自体をやめてしまう。)このような状況を解決できないだろうか、というのが施策の基本的な問題意識だと思う。
このような問題設定は、実のところ、恐ろしく根が深い。アーティストでい続けることはただでさえ難しいことだが、そこに京都(ないしは日本)の政治、経済、社会の多くの要素が絡み合う。「場所」を整備するだけでは問題の答えにはならないだろう。いくつかの成功例が示すような、マーケットとメディアとに支えられたあり方は、恐らくこの施策では選択できないし、またすべきではないのではないかと直感的に感じる。
ではどうすれば?
文化行政に関わることは、いつもこの種の「恐ろしく根が深い」問題と付き合うということである。自分は何も成し遂げないままにここを去るのではないか、という無力感とも常に顔を合わせねばならない。
「若手芸術家の居住・制作・発表の場づくり」は、文化行政の諸問題を抱え込んだ施策のように見える。「このプロジェクトがうまくいけば、僕の文化行政の道行きに光が指す」、そのような試金石としての仕事だと感じる。
[淡水録] vol.19 歴史の歴史

国立国際美術館「歴史の歴史」展を観る。
杉本博司の写真作品と、彼が蒐集してきた様々なものを並べてみせる。
展覧会の最初に、彼は次のように記す。
「アートの起源は人類の起源と時を分ち合う、それは人間の意識の発生をもってその始源とするからだ。私は私の技術を磨く過程の中で、学ぶべき先人の技術を体得する為の手本が必要とされるようになっていった。手本は先人が到達すことができた地平のサンプルと呼び変えても良いだろう。(中略)
ここに集められたサンプルは、私がそこから何かを学び取り、その滋養を吸収し、私自身のアートへと再転化する為に、必要上やむを得ず集められた私の分身、いや私の前身、である。私はそれらのサンプルから、過去が私の作品にどのように繋がってきたのかを類推し、その現場を検証するという空想に遊ぶようになった。(中略)
天地開闢以来、幾多の文明が栄え滅びてきた。その度に歴史は書かれ又書き換えられてきた。歴史とは生き残った者が語り継ぐ勝者の歴史に他ならない。語り継ぐ者のいなくなった敗者の歴史は遺物となってその内に閉じ込められ、私に何かを語りかけてくる。数十億年前に絶滅してしまった生命の種が化石となって私に語りかけてくるように。こうして私は歴史から一歩距離を置いて、私が収集してきた遺物を眺め暮らすようになった。」
杉本博司の凄味は、その作品の見せ方にある、と常々思っていたが、益々その感を強くする。
「見せ方」の内には、作品単体のクオリティー、物理的な配置の仕方、それらの関連のつけ方、それに言葉の按配まで、幾つものレイヤーがある。それは、松岡正剛の言葉を借りるなら「情報の編集」というアート/技術であろう。
杉本のアートは尋常ではない。時間軸のうねり、光の照応、硬質なエッジ、有機的で底の伺えぬ造形。それらがないまぜになって、彼の世界を生み出す。
本展では、数億年前の化石から、重要文化財級の古美術、NASAの宇宙食までが並べられる。それらを総じて「杉本博司」と冠するのは、デュシャンを通過した我々をしてなおたじろがせる程の、甚だ恐ろしい所業である。しかし、その恐ろしさまでを御して、これが一つの世界であると納得させる力がある。杉本の視線は、最早、「美術館」のそれである。幾重にも恐ろしいことである。
杉本は「歴史」を俎上に乗せる。写真というメディアを扱う以上、誰しも時間に対して意識的にならざるを得ない。まして、彼程に厳密に考えを進めてきた者ならば、「歴史」は避けては通れないテーマであろう。
我々の時間意識には、幾つかのバリエーションがある。
一つは、過去から未来へと流れる日常的な時間意識である。その中では、我々は我々の眼前をツルツルと流れる事物に即応するのみであり、美しい情動は生まれようとも、そこからは死への切迫も、「歴史」も生まれない。
また、一つは、未来から過去へと流れる時間意識である。それは、究極的には、「全てを語り終えた者」を想像的な起点として現在を照らし出すような、そのようなものとして考えられる。ミステリ小説が構造的に示すように、一つ一つの伏線は、結末から眺めることで初めて、伏線としての意味を浮かび上がらせる。「歴史」は仮想的な消失点をもって初めて、「歴史」になる。
過日、青山の骨董屋でガンダーラ時代のレリーフを見たときに、軽い眩暈を覚えたことを思い出す。レリーフには、二~四世紀、インド北部云々という説明書が付されていたが、女神の横顔は思いのほかクッキリと、微細なラインを示している。一体、その白い石の表面に幾許の時間が積もっているのだろう。どのようにして、彼女は海を渡り、今ここにいるのだろう。それは「歴史」を想うときに、多くの人が抱く感慨ではないだろうか。「歴史」を見出すとき、我々は図らずも、遥か天空の神々の椅子に座して、我々の深みを見下ろすことになる。眩暈は、そのようにして生じる。
本展で、ことに感じ入ったのは、新作「放電場」のシークエンスであった。
広い空間に、十枚程の「放電」の写真がライトボックス様にして置かれている。暗い照明の続いた後だけに、明るい白色光が眼を射る。一方の壁には全面に鏡が張られ、一枚が派手に割られている。一隅には、デュシャンの古いポートレート写真。これまたフレームのガラスが割られている。
ツイと立つ、雷神像。ケレン味に満ちる。
が、省みると、鏡も、鏡/ガラスの割れも、タルボットに触れた文章も、もちろん放電の写真も、すべてにフックがあり、次々と考えを進められる。
これは空間の割れであり、時間のズレであり、ズレたところで一致した何ものかではないのか。それが一人の美術家の中で遭遇しているのではないか。これは大きな「写真」なのか?この、一連のアクセントと、参照と、凡庸な反復と、それらのズレを、「歴史」と言うのならば、それを一つのイベントとして示すことは、これこそが「歴史の歴史」なのではないだろうか。
杉本は、歴史から一歩距離を置いて、と書く。彼はどこに立っているのだろう。微分的な、美しい情動のうちかだろうか。それともモダニストを自称する彼のことだ、危険な光を閃かせ、「歴史」のその始まりに、彼は立っているのだろうか。
本展は、いずれを切っても、息を吐くことができない。深い海に潜って人魚に会う程の、心身を削られるような類のものである。
ハラトモハル
hanare October 8, 2009 12:50 PM