[地球日誌] vol.05 パリから上海へ:ユーラシア大陸横断の旅(4)
〈8月22日(金)サフランブル→アンカラ〉
今朝は、6時過ぎに目が覚めてしまう。仕方ないので、何の目的もなく街中を散歩。まだ開いていないだろうと思っていた例の(ハンバーグの)ロカンタが(8時前から!)開いていたので、入り、豆の煮込みとレンズマメのスープを一挙に食べる。
部屋に戻り、荷造り。本館に一応挨拶に行く。9時頃市バスに乗り、長距離バス乗り場まで行く。少し迷ったが、何とかアンカラ行きのバスに乗る。13時半、アンカラ到着。
それにしても、トルコ人、英語ができない人が多い。できるのは、観光業に携わっている人たちの中でも一部の人だけ。全くできない人が多い。この国では、中学高校で外国語を教えないのだろうか。(英語はできないけれど、ドイツ語はできるという人が時々いる。出稼ぎにいっていたのだろうか。)
アンカラのオトガル(フランス語のauto+gareから来ているのでないか、ということに気づいた。バスターミナルという意)に着き、ミニバスに乗り換え、予約してあるホテルのある旧市街ウルスへ。ウルスらしき停留場に降りるが、地図上でいったい自分がどこにいるのか全くわからない。仕方ないので、二人の男性に身振り手振りで何とか居場所を教えてもらう。何とか、ホテルにたどり着く。
日本好きだというフロントの女性が、「日本人が来た」というだけで妙に大喜び。しかも、予約時の電話で私の名前を「Kurakura」と聞き違えたらしく、勝手にウケている。部屋は、60リラ。シャワー・トイレつきで、大都市だから、手ごろな値段か。
早速、このほとんど「観光」的に見るものがないとされているアンカラで、数少ない「名所」アナトリア文明博物館に行く。(結局なんだかんだ言って、「観光」しているではないか!)ヒッタイトを中心にアナトリアで興亡を繰り返した民族・王国の貴重な遺物が並ぶ。リディアで作られた最古(に近い)コインが見られなかったのが、残念。
その後、日本好きのフロントの女性が、半ば強制的にネットで調べてくれた日本レストランを一応探してみるが、やはり全く「日本」ではなかった。だいたい、名前がEviだもの。
*
アンカラは、何だか異様だ。夕食前、ビールを飲める店を探しにホテルの周りを歩いてみたが、とにかく人の歩く速度がやたら速い。暴力的ですらある。イスタンブールの1.5倍。サフランブルとは別な国のようだ。
それに、欲望が剥き出しだ。町に(といってもこの辺りは一応「旧市街」らしいが)イスタンブールのような歴史がないために、欲望の都市的表出に文化的な歯止めがない気がする。イスタンブール以上にアナーキーな感じすらする。
結局、30分以上歩き回るが、ビールを気持ちよく飲めそうな店を一軒も発見できず。この国、やはりイスラムだけあって、観光、つまり外国人による消費が多く期待できないところでは、アルコールを見つけるのがかなり難しいようだ。仕方ないので、博物館のある丘へと登り、外国人消費が期待できるであろう界隈を探る。
一軒見つける。高級そうだ。テラスからアンカラの町並みを一望できる。大概の客はお洒落している。自分がやや場違いな感じがしたが、今さら引き返すわけにはいかないので、そのままテーブルに案内される。入り口近くの一番「立地」の悪い=眺めの悪いテーブルに案内される。おそらくそこ以外は、すべて予約済みなのだろう。それに、二人がけの席はそこしかないようだ。仕方ない。
まず、ビールを注文。急坂を登ってきたので、旨い。次にメニューを頼むが、ないという。? サービスするほうも、メニューはないは、言葉は通じないはで、困り、「シシケバブ?」「サラダ?」と、一番「無難」なものを薦めてくる。こちらも、それ以上、複雑な料理を説明できないので、仕方なくそれに応じる。
サラダが運ばれてくる。何ということはない平凡なサラダ。でも、例のごとく素材がいいので、不満はない。次に、シシケバブ。残念ながら、串から抜いてある。日本の焼き鳥もそうだが、串に刺してあるものは、やはり串のまま噛り付きたい。元々そうできているものを、串から外してしまうと拍子抜けする。旨さも半減する気がする。肉、そして付け合せの野菜、どちらとも素焼きだが、やはり素材がいいので、それなりに美味しい。赤ワインを注文する。トルコに来て初めて適温で来る。(それまでは冷たすぎるか温かすぎるかだった。)なかなかいける味だ。
しかし、目の前を、なんだか旨そうなものが、続々と通っていく。言葉の通じない「外国人」の悲哀。怒ってみても仕方ないので、自分の前の物を黙々と口に運ぶ。最後にラクを一杯飲む。しめて46リラ。このクラスの店として、高いのか安いのか?
《写真嫌い》
写真が嫌いだ。撮るのも、撮られるのも。
この旅にも、一応カメラは持ってきた。自分のためというより、人に見せるためだろう。歩いていて、ある光景に魅せられる。そのまま、魅せられていたい、と思う。カメラを介在させた瞬間、その生(なま)な魅惑は吹き飛び、「被写体」「対象」と化してしまう。「主体」と「客体」の生成、その「近代」的視線の暴力が、嫌いだ。
確かに、この極めて近代的な装置を使いながらも、その視線の客体化を逆手に取り、生の魅惑を生け捕りにする優れたフォトグラファーたちを知っている。もし、それに並ぶ技量があるなら、私もあるいは生け捕りに夢中になっているかもしれない。その技量が、私にはない。
カメラを構えた瞬間、撮る者の現場への「当事者」性が一挙に消去され、「第三者」的視点へと移動してしまうことも、不快を生む。旅人として現地の日常に入っていくとき、相互的に微妙な違和感を生み出すが、その違和の微妙さ―それは互いに交わす視線・微笑み・短い言葉などで絶えず変化する―が、カメラを構えた瞬間、やはり暴力的に蹂躙され、単一の、絶対的な超越性へと運ばれてしまう。
逆に、この超越性に互いに甘んじながらも、写真をコミュニケーションの一手段としうることも知っている。現に、他の手段ですでに仮初めの親しみが生じている場合、さらにその親しみを変奏するのに、写真に共に収まったりする。しかし、まだ親しみも生まれていないのに、やにわに他者にカメラを向けうる暴力=失礼に、私は耐えられない。
〈8月23日(土)アンカラ→カッパドキア〉
カッパドキアに着いた。ビールで例のように一人で乾杯。
今朝は、8時過ぎに起き、軽く体操。ヨガを十日以上やっていないので、体が完全になまっている。明日あたりヨガをしようか。
ホテルで朝食。カッパドキア行きのバスまで(午後3時出発)かなり時間があるので、ゆるゆると散策に出る。近所のコユン・バザールに向かう。観光客がほとんどいない。店のプレゼンテーションに感心するもの多し。思わず魅惑される光景もあるが、あえて写真は撮らない。代わりに、録音しようとフランスの友人から借りてきた機材を取り出すが(なぜか音撮りの方が、上記の写真のジレンマにさらされない気がする。撮る者の「超越性」が弱いからだろうか)、動かない。旅行中勝手にスイッチがオンになっていたようだ。後で電池を買わなくては。


市場が好きだ。たぶん、住民の日常生活が露に集約されているからだろう。市場は、ミュージアムのカウンターパートといえる。皮肉なことに、アンカラではバザールがミュージアムのある丘の中腹にある。もちろん、バザールの方が下だ。
途中、市場内のカフェで、エルマ・チャイ(アップルティ)。日記を書く。
ホテルに戻る途中、バザールの文具屋で、シャープ針を0.50リラ、メモ帳1リラで買う。店の兄ちゃん、こんな安いもの、金持ちの日本人に売って、何だよーー、って感じ。でも、憎めない表情。電気屋で電池も買う。やはり市場では、写真を撮るより、実際に(土産物でなく)日常品を買うのが、「正しい」コミュニケーションのように思う。
ホテルに戻るが、まだバスまで時間があるので、日記の続きを書く。ホテルを去り際、フロントの日本好きのお姉さんに(「子供」ではないが子供みたいな人だったので)紙風船を渡す。(旅の途中で親しくなった子供たちに渡すため日本の紙風船をいくつか持ってきていた。ある知り合いのダンサーの顰に倣う)気持ちが通じたようだ。これまでも、何度も、日本人である私に話しかけ会話を試みようとするのだが、いかんせんトルコ語しかできないので限界があり、どんどん「あきらめ」の表情が濃くなっていた。しかし、最後にこの紙風船をあげたことで、意が通じ合った気がする。
タクシーでオトガルへ。運転手の兄ちゃんと片言の英語で断片的な会話を交わす。兄ちゃんは、ロシア、ウクライナの女性が好きだとか。トルコの女性は、触らせてくれないからつまらないらしい。「イスラム」国であるトルコの多くの女性は、いまだに「処女性」を大切にしているのか?
この点に関し、トルコは不思議な国である。実際、真夏にもかかわらず顔以外、体を覆っている女性が多い一方で、ビーチではビキニ姿の女性たちも多くいた。両者は、まったく別のカテゴリーを形成しているのか、それとも重なるのか。いずれにしても、少なくともここトルコの女性たちは、「近代」的な「女性解放」に悩まされているのだろう。
オトガルに1時間前に着いたので、暇つぶしに音を撮る。大手らしい「メトロ」社バスで、一路カッパドキアへ。
それにしても、アンカラからカッパドキアへの風景は荒涼としている。単なる荒地なのか、それとも小麦でも借り入れた後で単に殺伐としているのか、とにかく得体の知れない荒野が続く。
途中、トゥズ湖沿岸を通るが、この湖もほとんど涸れかけている様子で、「湖」と呼ぶにはかなり難しい湖だ。どこまでもほとんど水なき湖が広がっている。

夜8時ごろ、カッパドキアの中心都市ネヴシェヒルに着き、シャトルバスで宿のあるギョレメに移動。夜で道が定かでないので、ホテルから車で迎えに来てもらう。一泊40リラと安めだが、なかなかいい部屋だ。
夕食は、その名も「ローカル」という地産地消をコンセプトにしているらしいレストランで。前菜に、フムスにパストラミの薄切りが幾枚か乗ったものがほんのり暖めてあるもの。なかなかの出来。メインは、この店のスペシャリティらしい、鶏ロールのチーズ・トマト焼きにポテトフライとピラフが付け合せになったもの。鶏に少し火が通り過ぎていることと、意外と味が淡白なのが、少し残念。地のワインは、かなりよろしい。
(つづく)
[地球日誌] vol.05 パリから上海へ:ユーラシア大陸横断の旅(1)
8月から9月にかけ2ヶ月弱に渡り、パリから上海へとユーラシア大陸横断の旅を行った。以下は、その旅日記である。
幼少時から地図を眺めるのが好きだった。世界地図を広げ、特に、広大だが人がほとんど住んでいないように思えた地域、グリーンランド、カナダの北部、そして中央アジア等に思いを馳せた。いったいその広大な地域の景色はどんなものだろう、なぜそんなに広いのに人間が住まない(住めない)のだろう、そこにはどうやったら行けるのだろう...。おそらく少なからずの少年(もしかして少女も)が抱く夢想であろう。
この機会に、その「夢想」の一つを現実にしてみたいという強い欲望を覚えた。同年代の知り合いに、やはりアメリカ大陸を横断したり、世界一周をしたりした人がいて、その体験談が無意識の刺激になっていたのかもしれない。とにかく、1年前くらいから漠然と欲望していた。そして、春にパリに住み始めてから、計画を現実的に練りだし、ヴィザなどの事務的な準備や物理的な装備を始めた。そして、ついに8月初旬、大いなる不安と期待を抱きながら、パリを出発した。
旅の唯一といってもいい原則は、(非常時を除き)陸路に徹するということであった。ぜひ訪れたかったカスピ海も船で横断するつもりであった。なぜなら、今回の旅の目的の一つが、この大陸の広大さを"体感"したいということだったからだ。しかし、その原則も、まさに「非常時」により貫徹できなかった。が、(以下にあるように)まさにいたし方のない非常事態だったので、後悔はしていない。
旅には、荷物の重量を最小限にしたかったので、最小限の書籍しか持っていかなかった。『地球の歩き方 トルコ』、『地球の歩き方 シルクロードと中央アジアの国々』、『旅行人ノート シルクロード』、『指さし会話帳 ロシア語』、内田百閒『第一阿房列車』、チェ・ゲバラ『革命戦争回顧録』である。後二者は、パリの日本の書店で旅に関する本を探していたとき、偶然目に付いたので購入した。旅の途上、これらの本に、物理的・精神的に助けられた。
なお、8月11日から18日までの日記が欠けている。この間は、トルコで友人と別の質の旅をしていたので、この『地球日誌』には載せる必要がないと判断した。
また、文中、《 》のタイトルで始まる文章は、「日記」とは別に、旅の途上で特に感じ入ったもの、知的好奇心を覚えたものについて書いた、時には「散文詩」的な時には「コラム」的な文章だ。そして、〔 〕で挟まれた部分は、この「日記」を(大抵はその日の夕、あるいは翌日に思い出しながら)書いている最中に、現在進行形で飛び込んできた出来事である
いずれ、この旅が私の中に生み出したであろう"意味"を改めて言葉にしつつ、「旅日記」を書き直し、いずこに発表するつもりだが、とりあえず旅の生々しい記録をここにご紹介したい。粗雑な言葉遣いなどもご容赦いただきたい。
〈8月6日(水)パリ→ミュンヘン〉
ついに、1ヶ月待った三カ国(アゼルバイジャン、カザフスタン、ウズベキスタン)のヴィザがとれる。アゼルバイジャンの領事館から今日の午前にパスポートが届いたらしい。
これで、旅の準備がすべて整う。(が、ウズベキスタンのヴィザの入国日が申請より勝手に四日遅くなっていたのは、お笑いものだ。これで、その前の素通りするはずだったカザフスタンに余計滞在しなくてはならなくなった。)
荷物は、限界まで少なくした。いったん仮に詰め、測ると、15〜6キロある。久しぶりにこの重量のものを背負ったためかもしれないが、やたら重く感じる。結局、自分の体と相談しながら、4分の3まで減らした。これでも、夏の旅なので、この重さで済んだのだろう。
友人のジャン=パスカル(この日まで彼の家に居候していた)が旅立ち前の晩餐を準備してくれる。トマトと白桃を和えた即興のパスタサラダ。彼のガールフレンドがスペインから買ってきたというハモン・セラーノ。かなりいい発酵具合だ。それに、彼のお母さんが送ってきたチーズ類。これも、買ってから日がかなり経っているのか、かなりの量の青黴に覆われている。そして、マグレ・ド・カナールの半身。「軽い」ディナーとか言っていたが、少なくともカロリー的には"立派な"ディナーだ。
ジャン=パスカルが、東駅まで送りにきてくれる。途中、空を見上げると、仄かな夕焼けに染まり、微笑んでいた。旅を祝福してくれているのか。
ホームで、ジャン=パスカルと熱い抱擁と握手を交わす。ミュンヘン行きの夜行列車に乗り込む。とりあえず考えているのは、パリ8月6日21時45分発、ミュンヘン7日8時58分着。ミュンヘン同日9時27分発、ブタペスト同日16時53分着。ブタペスト同日17時45分発、ブカレスト8日8時43分着、という強行軍だ。パリで、ブカレスト-イスタンブール間の切符が買えなかったので、ブカレストで購入しなくてはならない。「ヨーロッパ」は、今回の旅の主眼ではないので、「素通り」するつもりだ。
ブカレストで一泊してから、イスタンブールに向かうつもりだったが、ネットで調べているうち、ブカレスト、特に列車が着く北駅構内及び周辺は、かなり危険な輩が徘徊しているらしく、なるべく近寄らないほうがいいとのこと。結局、予約を入れていた駅前のホテルをキャンセルした。ブカレストで泊まらず、そのまま夜行でイスタンブールに向かうか(そうすると夜行で三連泊になってしまう)、それともブタペストで一泊し、そこで以降の切符を買いなおすか。今、ブタペストに向かう列車の中にいてこれを書いているが、到着するまでに決めなくてはならない。この際一挙にイスタンブールまで行ってしまおうという気持ちと、急ぐ旅じゃないんだから、ブタペストで体を休め、シャワーを浴びてさっぱりしたらという気持ちが、葛藤する。
つい昨日の夜まで「フランス語圏」にいたのに、東駅で列車に乗り込むや、同じコンパートメントの韓国人親子から英語で話しかけられ、一挙に「圏外」に出る。ヨーロッパ内の旅の面白さの一つは、この絶えざる「複言語」的環境に身を置かざるを得ないことかもしれない。絶えず身近に言語的・文化的他者を意識しながら、旅をし、生活をする。たとえば多くの白人系の「アメリカ人」に欠けているのは、この「複言語・複文化」的環境の日常化ではないだろうか。単一言語・文化のグローバル化への幽閉。
〈8月7日(木)ミュンヘン→ブタペスト→ブカレスト〉
今、ブタペストからブカレストに向かう車中。結局、ブタペストで一泊することなく、そのままブカレストに向かうことにした。今回は、"極端な"あるいは"絶対的な"旅を求めたのだから、この最初の列車行も、途中休憩を入れて"相対化"したくないという気持ちが勝った。
今回の簡易寝台(フランス語で言うcouchette)のコンパートメントは、パリからのものとほとんど変わりないようだが、シーツがなくなった。掛け布団と枕も、果たして洗濯してあるのか? 同室内にフランス人のカップルがいて、フランス語で話し、少しほっとする。言葉が通じるのは、ありがたいことだ。英語は、ニューヨーク生活以来ほとんど使っていないせいもあり、しどろもどろでなかなかでてこない。
それにしても、三連泊で夜行、しかもcouchetteなんて、人生で二度としないことだろう! よしよし。
どんどん車内のトイレが汚くなっていく。そして、パリ→ミュンヘン→ブタペスト→ブカレストと、少しずつ列車のスピードが遅くなっていく。トイレの綺麗度と列車の速度は反比例の関係にあるのか? 車中のほとんどのトイレが悲惨な状況。20年前のフランスの列車並みか。ということは、ハンガリー/ルーマニアも20年経つと(何も車内は、ハンガリー人とルーマニア人だけではないだろうが)、現在の(少なくともトイレは)フランス並みになるということか。(たぶんならないだろう。)
だが、不思議なことに、トイレが汚くなるにつれ、食堂車の食事が美味しくなっていく。今晩は、片言の英語で「Cutlet or chicken?」と聞かれ、chickenを頼んだが、しかもその「ボーイ」さんが、いかにも旧ソ連圏の末端官僚的雰囲気をとどめた人ではないか。さぞかし不味かろうと思って待っていると(しかも、夕食時だというのに、油を売っている検札のおじさんたち以外、客が二人しかいなかった)、その「ボーイ」さんが自らキッチンに立ち、腕を振るっている。運ばれてきたのは、軽くマリネしてある鶏のグリルとフレンチフライであった。ごくシンプルながら、なかなかの味。しかも、かわいらしいサラダまでついている。

〔今、ハンガリー/ルーマニア国境でパスポートチェック。いろんな国のヴィザを持っていたので、訝しげにされる。こうやって、パリからヨーロッパを東に横断してくると、明らかにルーマニアの役人は、旧ソ連圏の官僚主義の旧弊が抜け切っていない感じだ。車掌も乗客のチケットを取り上げたまま返してくれないし、今のパスポートチェックにしても、非常に「官僚的」だった。〕
hanare December 21, 2008 04:20 PM