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[地球日誌] vol.06 Plum village滞在記(1)

 ヴェトナム反戦運動、そして何よりもengaged Buddhism(行動する仏教)の世界的推進者として名高いヴェトナム人僧侶ティク・ナット・ハンが、1982年にフランスはボルドー近郊に創設した仏教コミュニティPlum villageに、先日1週間滞在した。禅に則った彼の教えは、日常生活のあらゆる所作に意識の十全な目覚め・瞑想をもって臨むmindfulnessの思想に代表される。坐るのみならず、歩く、食べる、働く、さらには皿を洗う、用をたす、といった「瑣末な」な活動をも、「今ここ」への絶えざる目覚めとともに行う、といういわば汎瞑想論の実践である。150人強の僧・尼僧が四つの集落に分かれて住み、年間約4000人の在家が世界中から集まる。以下は、その滞在記である。



《1日目》

 午後3時過ぎ、Plum villageに着く。受付を済ませる。日本そして慶應大学にも何回か来たことがあるというアメリカ人青年と少し話す。大学生の日米交換研修を担当していたとのこと。トイレ・シャワーつきの二人部屋を予約していたが、空いているのか一人使用となる。
 敷地内を散策。かなり広い。300m四方くらいあるか。メディテーション・ホール、食堂、売店、修道僧宿舎の他に、(ヴェトナム風の?)鐘楼が異彩を放っている。庭の造作は、竹が植わっていたり、中国的趣をもつ石が配されていたりして、部分的にヴェトナム&中国風か。でも嫌らしいオリエンタリズムではない。
 時たますれ違う人たちは、「白人」の人が多いが、中にはヴェトナム人らしき僧たちもいる。子供たちがふつうに走り回っている。

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 5時の坐る瞑想まで、自室でヨガのサバサナー(「死体のポーズ」:仰向けになり全身脱力して行う瞑想)。瞑想の開始を告げる鐘が鳴るということだったので、待っているが、一向に鳴らない。念のため、メディテーション・ホールに向かうと、もうすでに人々は瞑想を開始している。途中から入れる雰囲気ではないので、諦めて自室で坐る。次々に夢想が湧いてきて、あまり集中できない。
 6時の夕食開始には、鐘が鳴った。食堂に向かう。
 メニューは、カレーピラフ、固い湯葉の煮物、茹でニンジン、コーン、発芽した豆、フォー(厚揚げやマッシュルームの入った汁をかける)。ヴェジタリアンだがかなり豪華。量もたっぷりある。
 あらかた皆が揃うまで、しばし待つ。鐘が三度鳴り、全身の細胞、空腹に沁みわたる。余韻とともに食べ始める。最初の20分間はNoble silence。食べることも瞑想という思想。集中するが、なかなか味わいきれない。
 およそ50~60人くらいか。若い僧たち(ほとんどヴェトナム人?)もいれば、カップルが何組か。黒白ぶちの猫まで居眠っている。真剣に瞑想している人もいれば、かなり無造作に食べている人もいる。
 食べることも瞑想だ、というのは私の持論でもあるが、真に瞑想し続けるのはかなり難しい。数秒間集中することは可能だが、それ以上なかなか続かない。
 20分ほどで再度鐘が鳴る。皆、突如、動作を中断し、聴き入る。その後は、ふつうに会話し始める。主要言語は英語のようだが、フランス語、イタリア語、ヴェトナム語(?)も聞こえてくる。かなり興味深いコスモポリタニズム。しかもフランスの片田舎で。
 ということは、日本の片田舎でも、同種のコミュニティは可能ということか。が、やはりヨーロッパだからこそ、これだけの複文化・複言語環境が容易にできるのか。
 結局、誰と話すこともなく、食器を洗い、庭に出る。しばし、夜空に浮かぶ三日月と土星(?)を眺め入る。
 部屋に戻り、少しVictor Segalen "Equipée"(『覊旅』)を読む。まだ近代的な交通網も整っていない20世紀前半に中国を徒歩とロバで横断した詩人の旅行記というより散文詩だ。「〈想像的なもの〉は、〈現実的なもの〉に直面したとき、力を失うのか、力を増すのか?」という冒頭の一句に引きつけられる。



《2日目》

 5時起床。
 昨晩は、瞑想とも睡眠ともつかぬ「眠り」であった。瞑想しながら寝に入ったが、かすかな物音や自分の鼾などでハッとするかと思うと、また眠りにたゆたう、ということを何度か繰り返す。熟睡したのは、朝方2~3時間か? 途中、窓の向こうに広がる豪奢な星空に唖然とする。
 5時45分から瞑想ホールで坐る瞑想。中央奥にブッダが祀ってあるようだ。中央の通路の左右に、背を向けあいながら坐る方式。マイクを通して、呼吸法・瞑想法の指導(英語)。やや耳障り。勝手に(自分が慣れ親しんでいる)ヴィパッサナー瞑想法で瞑想。ものの30分くらいで終わる。短い。最後は、僧がブッダへの祈りの言葉を唱え、皆床に平伏す祈りを3×2回繰り返す。三々五々解散。
 それにしても、星空がすごい(この時期まだ外は真っ暗なのだ)。文字通り、満天の星。見とれていると、宇宙に抱かれているかのよう。宇宙の一部に"なる"。流れ星。
 8時の朝食まで時間があるので、自室でヨガ。
 朝食は、パン、オートミール、シリアルなど豊富。パンは、自家製。
 9時15分から、瞑想ホールで、新参者に対するオリエンテーション。10名ほど。フレンチスピーカーが半分。ヴェトナム人の僧が英語で話し、フランス人の僧が通訳。各自簡単な自己紹介後、様々なメディテーション(坐る・歩く・食べる・労働する)の説明。質疑応答。車座の中央に赤い花の鉢が置かれ、朝陽に照らされた埃がにこやかに舞う。毛の長い黒猫が周りをうろついたり、居眠りしたり。
 11時から、歩くメディテーション。大きな菩提樹の下で集合。すでに何人かが歌を歌い出している。皆に歌詞が配られていく。少し引くが、一緒に歌う。英語以外にヴェトナム語の歌も歌った。それなりに気持いい。
 総勢50人くらいだろうか。歩き出す。高僧らしき人が先導。Mindfulnessの呼吸をしつつ、ゆっくりと歩を進める。最初の2,3分は、初めてのせいもあってぎこちなかったが、やがて慣れ、呼吸と足の運びが合ってくる。周りの景色にも感じ入れる。枯れ枝に止まるカタツムリ、霜で覆われた枯葉のあいだから顔をのぞかせる若い芽の鮮やかな緑、透き通った朝陽と影のまだら模様。遠くで、鳥が囀ったり、けたたましく鳴いたり。時々、先導する僧が立ち止まり、景色を味わい尽くすよう誘う。

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 次第に歩みと呼吸のリズムに煽られてきたのか、体全体が軽快になっていき、一歩一歩が軽やかな踊りのような感覚。周りの光景も体にどんどんと「入って」くるようになる。こんなに爽快な歩みは久しぶりだ。最後に立ち止まったところでは、枯れ枝が複雑に入り組んだ光景に感じ入り、一体となる。
 戻ったら昼食。何かの雑穀を炊いたものに、揚げとキノコの炒め物、豆腐に複雑な味付けを施し串にまきつけたもの(肉のつくねに見立てているのだろう)、チャンツァイなどの薬味、スープ、そして細切り昆布の入った(!)シロップ状デザート、かなり豊かなメニュー。ヴェトナム風精進料理といった趣だ。味も悪くない。ただし、デザートを(昆布が入っていたため)汁と勘違いし、チャンツァイなどの薬味と合わせたのが大誤算。食べるメディテーションを唱えるだけあって、瞑想に見合う質と多様性を提供している。
 今日はBook shop(兼売店)が開いているというので、のぞく。ティク・ナット・ハンの各語訳の書籍の他に、いわゆるグッズ類(Tシャツ、バッグ、絵葉書など)が売っているのは、やや意外。
 14時過ぎから、働くメディテーション。食堂集合で、また合唱から始まる。仕事が割り当てられていく。私は、ヴェトナム人のリーダーについて、Transformation meditation hallという小ホールでの座禅用座布団の配置換え、その後は、他のリーダーの下で、物置の整頓。メディテーションと謳ってはいるが、皆それほどメディテーションしているようには見えない。
 自室に戻り、少しSegalenを読む。
 17時からリラクゼーションのメディテーション。ヨガのサバサナーに近い。何度か自分の鼾でハッとする。かなり心が平静になったので、自室に戻り、さらに1時間ほど坐って瞑想。しかしこれが大間違い。夕飯の時間を1時間勘違いしていて、危うく食べ損ねるところだった。何とか残っていた雑炊と(昼と同じ)昆布入りのデザートだけ食べられた。
 自室に戻りシャワーを浴び、この日記を書く。

hanare February 28, 2009 02:17 AM

[地球日誌] vol.05 パリから上海へ:ユーラシア大陸横断の旅(最終回)

〈9月17日(水)カシュガル→ウルムチ〉
 8時過ぎに起きる。朝食を摂りに行く。久しぶりのお粥。
 ホテル内にある旅行代理店に行き、ウルムチ行きの列車を尋ねると、二時間後に出るので、もうここでは発券できないと言う。それに乗るなら、今すぐチェックアウトし、タクシーで駅に向かい、切符を買えと言う。慌ててチェックアウトし、タクシーで駅に向かう。何とか漢字で書いたメモを渡し、切符を購入。軟臥下(つまり二段の寝台で下の段)。
 なかなか快適そうな列車だ。しかも、他に同室の客がいないようだ。快適な一人旅になるのか? とんでもない。2時間ほど経って停車した駅から、中国人(漢人)のグループ(仕事仲間たち?)が乗り込んできて、私の存在など無視するようにコンパートメントを我が物顔で占領。うるさいは臭いはで、快適な一人旅はあっさり終了。それにしても「品」のかけらもない。今まで様々な民族・国民と接してきたが、「品」という点では最低だ。特に、ボスらしき男性が凄い。会話の内容はわからないが、とにかくこんなに狭い空間だというのに、一キロ先まで聞こえそうな大声でがなりたて、えげつなく笑い、始終携帯が鳴り、ベッドの上でふんぞり返っている。寝台車は、過ごす時間が長いのでどんな人と同室かが重要だ。今回は最悪だ。後で食堂車に行くつもりだが、その間にベッドまで占領されそうだ。今度は、携帯で三人同時に喋っている。

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 今、食堂車で夕飯を食べ帰ってきたところだ。同室のグループも食堂車に来て酒盛りを始め時間がかかりそうだったので、これ幸いと先に戻ってきた。アディマットという車内でセキュリティチェックをしているウイグル人の青年となぜか仲良くなる。かなりブロークンな英語で、自分がいかに「日本(人)」が好きかを力説する。もちろん、日本に行ったことはないが、車内でたまに出会う日本人たちがいつも礼儀正しく好きだという。確かに、漢人たちは、上記のグループのように「礼節」とか関知せぬようだ。これが、孔子の出た国なのだろうか。これほどまでの下品さ、傍若無人さは、これまで見たことがない。車内でも平気で痰を吐くは、食堂車のテーブルに食べかすをどんどん吐き出すは(ある男性の食べ方などは「犬」のような食べ方だった)、これならトイレが汚いのは当たり前だ。廊下でしないだけまだいいのかもしれない。

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 案の定、夜、あまり眠れなかったが、無事にウルムチに(北京時間で)午後1時過ぎに到着。(中国は国土が広いため、国内で時差がある。西の端のカシュガルやウルムチと、北京では2時間の時差があるが、鉄道・飛行機などの公共交通機関はすべて北京時間で運行している。)結局、アディマットと話をしているうち、生まれて初めて日本食を食べたいというので、後で待ち合わせて、ウルムチにある日本レストランに行くことになる。
 予約してあった駅近くのホテルに向かう。予想と違い、ホテルの外観があまりに荒れ果てているので、一瞬ためらうが、重い荷物を持って探し回るのも嫌なので、結局入る。フロント、全く英語が通じず。同様に困っている白人の青年が隣にいて、英語がフランス訛りだったので、フランス人だとわかり、二人で協力して何とか状況を打開する。結局、二人で一泊60元の部屋(共同トイレ・シャワー)をシェアすることにする。部屋には最低限の設備のみ、古い。共同トイレはしゃがんで辛うじて姿が見えない程度のドアしかついていない。しかも鍵がない。これまでで一番辛い条件か。最後の最後でこういう宿に当たるとは。
 先ほど到着した駅に、上海行きの切符を買いに戻る。物凄い行列だ。窓口が10程度開いているのだが、それぞれに30~40人ぐらい行列している。あまりにすごい有様なので、いったん諦め、市の中心の旅行代理店まで行こうかと考えるが、思い直して行列に並ぶ。4、50分待った末、ようやく自分の番になりかけるが、図々しく横入りしようとする輩が絶えない。みすぼらしいお婆さんは仕方なく見逃したが、次から次へと平然と横入りしてくるので、こちらもジャスチャーと気合で断固として譲らない。中国人にはとにかくつねに「断固として」いるしかない。「マナー」などという概念は不在なのだから。
 予定していた明日の列車はすでに満席なので、明後日の列車となる。今晩出る列車にもまだ空きがあったが、慌しすぎ疲れてもいたので、ここで焦っても仕方ないと思い、明後日の軟臥(1055元)を購入する。
 もうアディマットとの待ち合わせの時間だ。ホテルに戻ると、彼が時間通りにやって来る。タクシーに乗り、日本レストラン「平政」に向かう。あるホテルの一角にあるが、店内はかなり広く品数も多い。オーナーは日本人。久しぶりに日本語を聴く。久しぶりの和食のメニューを前にして、いろいろ食べてみたい欲望が起きるが、日本食が初めての彼のことを考え、初心者にも食べやすそうな鰻きゅう巻きとお好み焼きを注文する。
 品物が来る。鰻きゅう巻き、アディマットは一つ口に入れるが、それ以上は(美味しかったと言いながらも)決して食べようとしないので、口に合わなかった様子。お好み焼き(「ジャパニーズピザ」と説明する)の方は、喜んで食べる。

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 しかし、これだけではやはり胃が落ち着かないのか、彼の出身のウイグル料理屋にも連れて行きたいという。こちらは、残りの鰻きゅう巻きなどけっこう食べていたので、あまり気が進まなかったが、せっかくの機会なので行くことにする。
 タクシーで移動。専門業者によって食器類が殺菌されプラスチックで包装されている。やはり食中毒が多いせいだろうか。こちらにとってはお馴染みのピラフ、シシケバブ、ヨーグルトなどが出てくる。いずれも美味しかったが、如何せんすでにかなりお腹一杯だったので、完食できず。

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 アディマットが再び勤務時間なので、タクシーに乗り、ホテルで下ろしてもらう。結局迎えに来たタクシー、食事を含めすべてこちら持ち。月給千元とか言っていたので、仕方ないか。
 日本の名前をくれというので、適当に「Takeshi(武)」を与えたら、えらく喜び、日本の「弟」になったと心底感激している。純情だ。今の日本人には失われてしまった感情だ。
 宿に戻り、しばし休憩。もう読む本が底をついていたので、同室のフランス人青年(バンジャマン)から借りた、彼一押しのパウロ・コリーニョ"L'alchimiste"(錬金術師)を読み始める。
 夜、バンジャマンと外出。近くの屋台でケバブを食べる。しかし、こちらはまだお腹が空いていないので、ビールで付き合う。久しぶりのフランス語で、沢山話ができるのは単純に嬉しい。しかも話しているうちに、二人の関心領域、追い求めているものに多く共通点があることがわかってきて、話が盛り上がる。
 彼はまだ20代後半らしいが、アフリカに旅したときの衝撃以来、フランス的インテリの「コトバ」による世界把握・解釈に耐えがたくなり、お金を作っては非ヨーロッパ圏を旅しているとのこと。今回も、シベリア鉄道経由でモンゴルに入り、芸大出の友人たちと遊牧民生活を何週間か楽しんできたらしい。子供たちと芝居作りをしたり、アートセラピーなどにも興味があるらしい。中国にしばらくいた後、11月くらいから「夢の国」日本にできるだけ長く滞在したいという。自分がいれば、直接いろいろ世話して上げられるが、4月までは無理なので、「三田の家」にとりあえず行くよう勧める。隣の席で気持ちよく酔っ払っていたカザク人のおじさんたちに楽しく絡まれ、無理やりビールを奢ってもらったあと、店を出る。


〈9月19日(金)ウルムチ〉
 10時過ぎ起床。ホテルの脇の航空券売場に上海-東京のチケットを買いに出る。上海から船で日本へという可能性も考えたが、日本での日程の都合上、諦める。中国東方航空の片道で3500元。けっこう高い。元の現金での支払いしか受け付けず、手持ちの元が足りないので、近くに両替に行く。持っていたドルとユーロすべてを換える。元のレートがかなり高い。
 上海のホテルも予約。これで帰国までの手配はすべて完了。昼食は、一人で食べに出る。玉ねぎ、チャンツァイ、ピーマンがさっぱり和えてあるサラダが美味しかった。
 午後は、また昨晩から尻問題がにわかに浮上してきたので、部屋で読書して過ごすことにする。アンダルシアの羊飼いの青年が、エジプトのピラミッドまで自分の宝物を探しに行く話。Légende personnelle(個人の神話=夢)は、強く求めれば必ずかなえられる。しかし、それを本当に強く求める人間は少ない。私も、今、légende personnelleをかなえつつあるのかと思う。
 夕食は、バンジャマンと外出。彼が、昼間見つけたバーに連れて行きたいという。にわか雨が降ってくる。途中、煌煌と照らされた屋台街に遭遇。その一軒で食べることに。海は遥か遠いはずなのに、魚介類が新鮮そう。魚のグリル、シャコ、海老、ザリガニなどの炒め物を頼む。頼み方を勘違いして頼みすぎ。しかし何とかほぼ完食。〆て160元。屋台の割りに高い。二人でやられた!と思ったが(頼む前に値段を聞かなかった)、仕方なく払う。
 バーまでさらに歩く。けっこうな距離だ。尻がまた痛くなってくる。昨晩もそうだったが、屋台のスツールの中央部が微妙に凹んでいて、それが炎症を引き起こすらしい。歩いているとかなり辛い。
 バーに着く。内部は、アメリカのバーを真似したような作り。久しぶりにウォーターパイプをやる。「マルゲリータ」を頼む。私は、カクテルを注文したつもりだったが、なぜかピザの「マルゲリータ」が出てくる。勘違いを説明すると(英語が通じた)、問題なくカクテルに変えてくれる。バンジャマンとお互いの様々な「特別な」「絶対的な」経験を語り合う。彼は少し酔っ払ってきた模様。
 かなりの距離を、ぶらぶら歩いて帰る。尻が痛い。宿に帰り、横になっても、尻が痛く気になり、なかなか寝付けない。結局、朝方少し寝ただけ。

〈9月20日(土)ウルムチ→上海〉
 本格的な雨が降っている。駅の向こうの山々が霧に煙っている。今回の旅で雨に遭ったのは、最初がカッパドキア、次に中国国境越えの後夕食をとった村、そして昨日のウルムチだが、いずれもにわか雨だった。大乾燥地帯を横断してきたわけだ。ATMにお金を引き出しに行った後、(列車が夜7時出発なので)ホテルの滞在を半日だけ延長。外は、雨のせいもあって、とにかく寒い。カーディガンとジャケットを重ね着しても寒い。昼食に出たついでに、ついに薬局で痔の薬を購入。漢字で書いたら問題なく通じた。
 列車の出発まで部屋でまだ終えていなかったコリーニョの小説を終えることにする。バンジャマンは、今朝からユースホステルに移動するとのことだが、夕方本だけ取りに来てくれることになる。優しい。
 この小説、最初にナルシスの話が出てきたが、この話の最後は、主人公の青年が多くの苦難を経験したあと、しかし「個人の神話=夢」を強く願い続けた結果、ついに目当ての宝が隠されている場所に到着し、砂を掘っていると、盗賊が現れ、彼が語るには、彼もスペインのアンダルシアにある荒れ果てた教会に埋まっている自分の宝をこれから探しに行くという。その教会こそ、主人公が話の冒頭で、羊たちと目覚めた教会だった。つまり、自分が望んでいた「宝」は、自分のすぐそば、あるいは自分の「中」にこそあるのだ、という、何だかヴォルテールの『カンディード』めいた教訓譚であった。以前人から勧められて読んだ他の二冊もそうだったが、コリーニョの小説は妙に「教訓譚」めいた作りになっていて、それがわざとらしく(題材がいいのに)あんまり好きになれない。
 バンジャマンは、あと3ページで終わり、という時に現れたが、読み終えるまで待ってくれる。彼と、互いにメールでやり取りすることを確認し、別れる。
 ゆるゆると荷造り。駅まで徒歩で20分くらいだが、雨がやまず、また尻問題があるので、タクシーで向かう。待合室は、すごい人だかりだ。こんなに多くの人が2泊3日もかけて上海に行くのか。彼らの立てる騒音もすごいが、発する臭いも強烈だ。
 自分のコンパートメントに向かう。今回は、軟臥「上」。「下」の方が出入りが楽なので、そうしたかったが、すでに空きがなかった。老夫婦、中年男性一人と一緒。コンパートメントに小蝿が湧いているので、中年男性が車掌に言い、皆で別のコンパートメントに移動する。老夫婦は、別のコンパートメントにいる息子夫婦と同道らしく、その四人で勝手に一家団欒を繰り広げている。カシュガルからの列車で同室になった「品」のかけらもない輩たちよりは、ましか。車内のBGMが鳴りっぱなしでうるさい。
 夜7時発(北京時間)だし「一家団欒」とBGMがうるさいので、発車してからしばらくして早速食堂車に陣取る。車内販売から買った何の肉かわからない串刺し状のつまみを肴に、しばしビール。車内には警備のためか警官が何人か乗っているのだが、暇なのかそのうちの一人が食堂車の会計をしている。「洋葱炒肉」というのを注文したが、玉ねぎと肉の炒め物だった。まあまあ美味しいが、米飯が美味しくない。食堂車に限らず中国に入ってからどこでも米が美味しくない。古いのか?きちんと研がないのか?中央アジア諸国の米料理の方が数段美味しかった。
 しばらくすると、日本の大学生グループ10数人登場。中国奥地で遊牧生活ツアーをしてきたらしい。遊牧生活も「ツアー」か。久しぶりに日本語をかなり話す(「平政」では数語だった)。こんなおじさんがユーラシア大陸一人旅で、皆から感心される。
 ベッドに戻り、夜も更け、「一家団欒」とBGMも静かになったので、ゲバラを読み、寝ようとするが、鼾がうるさかったりで、なかなか寝付けない。朝方少し眠れたか。

〈9月21日(日)ウルムチ→上海〉
 朝食を食堂車に食べに行く。定食になっていて、粥を中心に、野菜の漬物二種、ゆで卵、豆腐よう、具なし饅頭で、10元。
 寝不足のため、二度寝してしまう。昼食も食堂車。ビールに青椒肉絲。
 車中では、廊下で景色を眺めたり、これを書いたり、ゲバラを読んだり。ついにゲバラを読み終わってしまう。再読開始。
 今回は荷物を重くしたくなかったので、本も(ガイドブックを除き)二冊だけにとどめた。(途中、トルコで会った友人から村上春樹を借りたが。)より長期の旅の場合、どうなるのだろう。
 長い午後。しかし、窓外の景色を見ていると、知らぬ間に時間が過ぎていく。飛行機ではこうはいかないだろう。日本では、寝台車に乗る機会はすっかりなくなってしまった。経済効率優先の世界では当然かもしれないが、例えば同じ電車でも「のぞみ」では窓外の景色が速すぎて瞑想の対象となりえない。眩暈すら起きそうになる。(だから窓際に乗ることはほとんどない。)百閒の描いた列車の旅の楽しみなど(意図的に列車を選ばない限り)今やほとんど期待できない。食堂車がなくなったのも、旅情を半減している。効率中心の旅は、旅ではない。なぜなら、旅には無駄、無為が必要だからだ。この寝台列車の、限りない無駄な時間。中国人たちは、喫茶(皆が「マイカップ」を持参している)とお喋りで楽しんで=やり過ごしている。
 夕食は、昨日と同じなんだかわからない肉の串刺しのつまみにビール。羊の骨付き煮込みを頼む。今日は、日本人大学生グループがやってこない。
 その後、やることもないので、そのまま寝てしまう。いったん起き、ゲバラの再読。一時過ぎまた寝る。環境に慣れたのか、朝までぐっすり寝る。

〈9月22日(月)上海〉
 ついに上海に到着!!! 祝!
 壊れなかったカバン、ありがとう! 旅で出会った人たち、ありがとう! フランス、そして日本で見守ってくれていた人たち、ありがとう!
 今朝は6時ごろ目が覚めた。ぐっすり眠れた。人間、慣れるものだ。
 ほぼずっと車窓から景色を見て過ごす。
 朝食は、買い置きしておいた菓子類で済ます。それにしても、コトバが通じないのは残念だ。せっかく同室になった人たちとも、ほとんどコミュニケーションが結べない。一人旅らしい(ビジネスで?)中年男性も、こちらの存在が気になるらしく時々目配せしてくるが、それ以上のコミュニケーションにつながらない。ロシア語が通じた圏内では『指さし』で多少意志の疎通ができたが、日程の都合上最初から中国に長居をするつもりはなかったので、中国語版は持ってこなかった。事務的なことは、漢字のやり取りで何とかなる場合が多いが、それ以上の「会話」にまで発展しない。同室の人たちも、扱いづらい日本人だと思っているに違いない。
 昼食は食堂車で。苦瓜の炒め物を食べる。午後も、ほとんど景色を眺めて過ごす。列車は、特にコンパートメント形式の場合、廊下に出て、景色が見られるのがうれしい。心なしか、昨日に比べると、やはり終着点に着く日であるせいか、皆嬉しそうだ。
 やはり上海に近づくにしたがって、資本主義が幅を利かせてくる。内陸部と大都市部ではGNPも10倍以上違うのではないか?
 午後三時、ついに上海到着。同室の人たちに一応別れを告げ、下車。出口に向かい、タクシーを捕まえ(メーターがあってうれしい)、一路ホテルへ。上海は二度目。考えてみると、今回の旅では上海を除き、すべて初めて訪れる場所だった。
 上海大厦(英語名:ブロードウエイマンション)という名の老舗らしいホテル。旅を成就した自分への労いから少し贅沢なホテルにした。租界時代の建物が並ぶ外灘から川一本隔てた立地。外観はかなり古めかしい。まさにマンハッタンにある古いアパートメントのよう。チェックインすると、予約した普通のシングルが一杯なので、グレードアップするという。部屋に着いてみると、何と3部屋続きのスイートだった!"旅"へのプレゼントと思い、ありがたくいただく。広々とした浴槽で、久しぶりの風呂に入る。一人には部屋が不必要に広いので、身の置き場がない。

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 身も心もリフレッシュして、外出。外灘に向かう。浦江に臨む。生温い空気を、しかし胸いっぱい吸い込む。ついに、ユーラシア大陸の東の端に着いた! 珍しく自分で自分の記念写真を撮る。川沿いのカフェでビール。旅に、自分に、乾杯!

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 河岸のプロムナードをそぞろ歩く。各国の観光客に、土産物売り。
 元灯台を改装したバーに入る。道路工事現場の喧騒の只中にボサノバが流れ鄙びた外観に直感が反応したので、ここだと思い、入る。まさに、この旅の終わりの、このタイミングにこれ以上ふさわしいバーはない、という雰囲気だ。しかも、まだ夕方の早い時間のせいか、客は自分ひとりだ。周りの喧騒から隔絶された別世界。キールロワイヤルでこの"贅沢"に改めて乾杯する。ただし、蚊に足元を刺されまくる。(と思ったら、後で刺された跡を見たら、蚤だった。)

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 夕飯を食べる店を探す。庶民的な店を探していたら、いい塩梅の店が見つかる。(この店の自慢らしい)蒸し餃子と焼きそばらしきものを頼む。ビールはなぜかチャイニーズ版サントリー。「焼きそば」と思ったものは、まったりしたたれの上に茹で上げた麺がただ乗っているというごくシンプルなもの。感じとしては、元祖カップ焼きそばという感じだが、すこぶる美味しい。〆て11元!

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 満足して、ホテルに戻る。改めてシャワーを浴びる。これまで、ずっと乾燥した地域にいたので、久しぶりの湿気がべとつくが、懐かしい。1階のバーに行く。まだ時間が早いので、客は自分ひとり。フィリピン女性二人と男性一人のライブが始まる。内女性一人は長野に一年住んでいたという。片言の日本語での会話。

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 目の前で、ライブを聴きつつ(サービスで日本の歌を日本語でいろいろと歌ってくれる)、カクテルのグラスを重ねる。つい、タバコを買ってしまう。この旅行中、何回かもらいタバコをしたが、自分で買ったのは初めて。お酒を飲んでいたせいもあり、けっこう吸ってしまう。3ステージも聴いた後、最後に自分で「ラブ・ミー・テンダー」を歌い、退散。部屋に戻ったら、何と12時。三時間以上もいたことになる。


 今回の旅は、いったい何だったのだろう。一人旅は今までも何度かしたことはあるが、今回は日数といい行程といい距離といい、そして何よりも旅の"質"が、今までとは大幅に違った。
 "質"の中身は何だったのか。"捨てる"技術か、図々しさの獲得か、即興の冴えか。いまだ明確に意識化できないが、それは言語以前の"直感"の冴え、にあったのではないか。それはもちろん、文字通り自分の既知の言語が通じない圏内にいたからそうならざるをえなかったこともあるが、たとえある程度言葉が通じる時でも、通じるからこそ、その裏で行き交う駆け引き、闘い、交信をどれだけまともに感じ、引き受け、太刀打ちするか、その感度・技術が鍛えられたのではないか。
 様々な交渉・交流も、言葉の意味するレベルと言語下のレベルとの一致・不一致次第で、騙す/騙さないが通常決まるが、特に「定価」のない世界ではその二つのレベルが一緒くたになり、しかも絶えずズレていて、そのズレを懸命にしかし楽しむというのが現地人の日常の生業だ。だから、ある人と個人的に親しい関係を結ぶときが、そのズレを最も見極めがたかった。ナディムにしろ、ネマトにしろ、アディマットにしろ、すべてお金が絡み、駆け引きが必要な関係だった。ナディムのときは、彼のコトバのレベルを信じすぎたがゆえに、「500ドル」というコトバが発せられた瞬間、衝撃となり、"真意"を測りかね、悩んだのだと思う。ネマトのときは、全く正反対に、今度はこちらが「友情」というコトバを操り、彼に「無料奉仕」でもいいと思わせ、最終的にこちらが(ナディムのときの裏返しとして)"法外な"100ドルを渡すことになった。アディマットの場合はどうか。前二者の中間というべきか。カネ/コトバの世界とその裏のやり取りが、螺旋状に絡まりながら、一刻一刻の交渉・交流を生成させていたが、それを(少なくとも私は)楽しんでいた。
 しかし問題は、三者ともに常に"私"がカネを渡す立場だったことだ。そして向こうが私に渡すものは「サービス」と「友情」が綯い交ぜになったもの。「サービス」という貨幣価値に還元可能とされている行為と、「友情」という還元不可能とされている感情。この"綯い交ぜ"と取引することこそ、"バザール"ではないか。ということは、こちらもカネを渡しつつ、そこに「友情」を綯い交ぜにしていたに違いない。ナディムのときは、こうした"バザール"的綯い交ぜが初めてだったがゆえに、その綯い交ぜをそのままの形で受け入れられず、「サービス」と「友情」を截然と分けようとしたがゆえに、「500ドル」が衝撃だったのではないか。
 ところで、両者を截然と分けうるのは、まさに「一般的等価物」が君臨している資本主義社会に育ったがゆえに身についたハビトゥスだったのではないか。

hanare February 15, 2009 09:14 PM

[地球日誌] vol.05 パリから上海へ:ユーラシア大陸横断の旅(13)

〈9月14日(日)オシュ〉
 5時ごろいったん目覚めるが、二度寝して7時ごろ起きる。妙に沢山眠れる。
 ネマトが来るまで、日記を書いて待つ。ネマト、9時過ぎに来る。バスターミナルへバスのチケットを買いに行く。しかし、今日は中国が祭日で国境が閉まっているとかで、バスは明日出ると言う。オシュにもう一泊することになった。
 ホテルにいったん戻る。洗濯する。これがこの旅で最後の洗濯か。
 その後、外出。バザールに行く。サマルカンド以上に土着色濃厚。観光客目当ての店はほとんどない。それにしても、ただ大量のリンゴなどの果物や野菜を売っているおば(あ)さんたちが大勢いるが、いったいここまでどうやって運んできてもって帰るのだろう。ただ中古のネジ類だけを売っているおじ(い)さんたちもいる。これで生活できるのだろうかと他人事ながら心配になるが、生きているということは生活できているのだろう。皆、力強く生きているのだろう。日々、何を感じ何を考え生きているのだろう。
 物乞い(カネ乞い)の人たちが少ないがいる。体に障害のある人、年老いた人、その他。パリではほとんど金を上げたことがなかった。というのも、パリの物乞いの多くは明らかにアルコールや失業手当等に甘んじて自分を自分でダメにし、しかも他人への甘えが透けて見える感じで物や金を乞うてくるので、上げる気がしなかったが、中央アジアの国々では明らかに自分で望まざる原因(障害など)から物乞いをせざるをえない人たちが多く、おそらくそうした人たちへの社会保障などほとんど存在しないがゆえに、他人に物や金を乞うことでしか生きていけない人たちなのではないか。そう思うとき、金を上げることは相手のぎりぎりの生存をほんの少しだけ手助けすることなのではないか。〔と書いている最中にも、少年たちがカネ乞いに来た。でも彼らには渡したくない。なぜなら、彼らには「ぎりぎり」さが感じられず、安易に小遣い稼ぎをしているように見えたからだ。逆に、こんな歳でこんなことに慣れてほしくない。〕
 バザールで家族や友人にささやかな土産を買った後(実は、ここまで荷物が重くなるのを嫌い何も買っていなかった)、川沿いの公園をそぞろ歩き、食堂でビールとラグマンを食べる。ホテルに戻り、昼寝。一時間半ぐらいぐっすり寝てしまった。
 その後、再び外出。バザールをもう一度通り抜け、町の中央にそびえる(昔は霊山だったらしい)スレイマン山に向かう。入山料3ソムを払い、階段を昇り始める。かなりの急坂。とりあえず一つの頂上=展望台に着く。まさに絶景。360度、地平線が広がる。さらに先に進む。途中から設えられた通路を離れ、勝手に岩山を登っていく。もう一つの頂上に着く。一人、360度の絶景を独り占め。東に中国、西にヨーロッパ、南にインド、北にロシア、まさに「ユーラシア」が見渡すかぎり広がっている。この景色を見るために自分は今回の旅に出たのだという確信にいたる。ようやく自分の中で、旅が腑に落ちた。
 観光用通路ではなく、崖を勝手に降りていく。しかしかなり急で、手をつかないで降りられるぎりぎりの斜度。でも、それが愉快だ。下には墓地が広がる。墓標の全くないただ盛り土の墓も多い。無縁仏たちだろうか。

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 何とか、麓まで辿り着くと、墓地の入口で3人の少年が戯れている。やにわに「コンニチハ」と声をかけられる。なぜ日本人だとわかったのだろう。握手まで求められる。別れ際揃って「タカ!」と呼ぶではないか。まさか、私の名前を知るはずもない。何か挨拶の言葉か。不思議な思いをしつつ、その場を立ち去る。
 山の麓をぐるりと回って最初の入口に辿り着く。昼食をとった公園の食堂でビールを飲む。喉がからからだったので、ひときわ旨い。
 宿に戻り、今晩分の宿泊代を払う。明日国際バスで発つ旨を伝えたら、(追加料金なしで)夜7時まで部屋にいていいことになる。再び外出。ATM(この国にはあるのだ)に向かう途中でネマトに遭遇。彼は大学生なのだが、サイドビジネスとして自分の英語力を活かし私のような外国人相手に観光ビジネスをしている。今サイトを立ち上げ中なので、日本人向けに宣伝文句を日本語に訳してくれないかと言われ、暇なこともあり引き受けたが、今度はオシュで撮ったいい写真があったら、メールで送ってくれと言う。スレイマン山から撮った眺望の写真と泊まっている部屋の写真を送ってくれるよう頼まれる。けっこうちゃっかりしている。その後、一人でチャイハネでチャイ。昨日ワインを飲みすぎたのか、チャイが体に沁みる。
 チャイを飲んでいると、前述したように、物乞いの少年団がやってきて、何やら歌らしきものを傍らで押し付けがましく発している。パリのメトロなどにもよくいるが、相手の状況に配慮がなく勝手に何かを押し付けてくる物乞いのやり方は嫌いだ。これと、「ぎりぎり」の物乞いは、そこに込められた生存の凝縮度が全く違う。少年たちはしつこく歌っていたが、やがて店の人に追い払われた。
 その後、昨日ビールだけ飲んだレストランで(お詫びに)一人で食事。マントゥ2個、ケバブ2本、あとはメニューで当てずっぽうに指差したサラダ、500ccの赤ワインを注文する。ワインが大失敗。甘くて、しかも添加物がたっぷり入っていそう。前に山梨のワインナリーで飲んだ味に似ている。悪酔いしそうなので、一杯だけ飲んで、ビールに切り替える。サラダが大きい。飲みきれず食べきれず。もったいないが仕方ない。350ソム。ワインが高かったのか。
 帰りについ、ミニスーパーのようなところで、「生菓子」とは呼べないようなケーキを買ってしまう。どうにか食べられる。

〈9月15日(月)オシュ→カシュガル〉
 今、バスターミナルで中国行きのバスの出発を待っている。バスターミナルと言っても、発着しているのは、この国際バスだけだ。建物は廃墟のごとき。バスはいつ出発するのだろう。乗客はこれだけだろうか。ローカルな風情の人たちしかいない。
 今朝は7時過ぎに起床。すぐに町中に出る気もしなかったので、瞑想しヨガを行う。
 今晩から約24時間(話によると)特別トイレ休憩もないバスに乗るので、基本的に水分と食料を摂らないことにする。ATMで念のため400ドル(ドルも下ろせるのだ)下ろす。
 午後二時、ネマトと一緒にオヴィール(ビザ・滞在登録課)に向かう。キルギスでは、旧ソ連時代の制度「滞在登録」が残っていて、3日以上滞在する場合ビザを持っていても滞在登録しなくてはならない。キルギス国境を越えるのが、四日目の未明になるため、念のため登録しておいた方がいいと判断した。ところが、このオヴィールの対応がひどかった。『歩き方』にはオシュのオヴィールは手続きが比較的簡単とあったが、正反対だった。まず昼休みが二時に終わるはずなのに、スタッフが戻ってきたのが二時半過ぎ。そのあとは、ネマトの交渉にもかかわらず、部署をたらい回しにされ、今日登録するのは無理そうに見えた。かれこれ一時間半くらい経った後、ネマトがダメ押しでもう一度課の責任者に掛け合ってみると、その最後の奮闘のおかげでようやく登録の印をもらえた。(どうやら問題は、登録料を最寄の銀行で払い込むらしいのだが、銀行がもう閉まったために払い込みができないので、今日はもう無理だと言うことだったらしい。)ふと、20年前のフランスを思い出した(20年前のフランスの役所もこの程度だった。)。ネマトはかなり興奮していて、得意な英語で「ファッキング」を連発していた。かなり熱しやすいことがわかった。4時過ぎ、ホテルに戻る。また瞑想したり、荷造りしたり、シャワーを浴びたり。8時少し前にネマトが迎えに来る。彼の車でバスステーションに向かう。廃墟のような真っ暗な建物の屋外のベンチで淋しく数人の乗客らしき人たちが待っている。「欧米」人、日本人はいない。
 ネマトに"For your future"という名目で、100ドルを渡す。ネマト自身は、こちらが提案しなければ、今回はボランティアのサービスでも仕方ないと思っていたようだ。お金をもらえたこと、しかも100ドルという金額に、素朴に喜んでいた。ナディムのときとは、逆の展開となった。こういう方が、お互い気持ちがいいに決まっている。
 バスは結局9時過ぎに出発。バスは、縦に三列(両窓際と中央)二段で寝台が連なっている。棺桶のような寝台は一度横になったら身動きもできないような狭さ。不潔度も(少なくとも日本的感覚では)かなりのもの。おそらく何ヶ月も洗濯していない布団・シーツ類。一瞬ためらったが、他にどうしようもないので、その中に横になる。しかも、夜が更けるにつれ、標高が上がるにつれ、どんどん気温が下がっていき、掛け布団で体をぐるぐる巻きにしないと眠れそうにない。背に腹は代えられないので、「汚い」布団類でぐるぐる巻きになる。

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 窓外には、煌煌と満月。バスのヘッドライト以外、他に明かりはない。満月の明かりに景色が仄かに浮かび上がり、見とれる。寝たり起きたり。とにかく道がどんどん悪路になるので、寝ていても揺れで起きてしまう。しかし、満月の明かりに浮かび上がる景色に、この旅をしてよかった、と改めて思う。
 それでも、少し寝たようだ。目が覚めたら、空がかすかに明るんでいる。満月の下の景色とはまた違った趣き。遠くの峰々は雪にすっかり覆われている。それにしても、寒い。そろそろ標高3000メートルくらいだろうか。途中、3600メートルの峠を越えたあたりで軽く頭痛がし手足が痺れてきた。高山病だろうか。深呼吸を繰り返し、手足をマッサージしているうちに、何とか治ってきた。棺桶のように狭いベッドに体を押し込んでいたので、単に痺れただけかもしれない。

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 キルギス国境に到着。国際バスなので、乗客の出国手続きを一括して処理してくれている。その業務を専門としているらしき豪快なおじさんが、状況をどんどん押し切っていく。個人で手続きするよりやはり心強い。
 そして、中国国境。やたらと待たされる。バスの中や周りで乗客は待機を命じられているが、もうかれこれそんな状態が2時間経つだろうか。その間、ウズベキスタンからやってきたというおばさんたち一行、特にその中でも同い年とか言うおばさんの餌食になる。しきりに東京かパリで仕事の紹介をしてくれという。おばさん、『指さし』を駆使して、何とかより多くの会話をするよう試みるが、やはりそれだけでは限界があり、やがて諦めてくれる。
 それにしても、何時にカシュガルに着けるのだろう? 宿を見つけなくてはならないので、明るいうちに着いて欲しいのだが。
 ようやく係官たちが10人ほど、車に乗ってやってくる。まずバスの内部・外部の徹底検査。荷物もすべて路上に出させられ、執拗にチェック。友人からもらった熊のぬいぐるみのお腹に、大いに疑惑を持たれる。特にボスらしき人が権力を笠に来た有無を言わさぬ意地悪な目つきで中に何が入っているのか、中国語で執拗に質問し、ナイフを取り出し腹を引き裂こうとする。こちらも英語で必死に友だちからもらった大事なプレゼントだと強硬に主張する。強い意が通じたのか、何とか最悪の事態は回避。
 バスの下部の荷物置き場にあったバッグは、昨日からの埃っぽい悪路のせいで「真っ白」。旅の「汚れ」で覆われている。それにしても、旅とは、ある意味で「汚れる」こと、訪れた地の「汚れ」に身を晒し、馴染むことなのではないか。その地その地で固有の「汚れ方」がある。あるいは、国によっては「汚れな方」とでもいうべきものがある。「汚れ方」が、自らの慣れている、身に沁みている「方」と異なれば異なるほど、それは衝撃を与え、少なくとも最初は嫌悪感、拒否反応を引き起こす。しかし、それを嫌悪、拒否し続けていては、旅が成り立たない。それを乗り越えなくてはならない。それに身を馴染ませる、それに徐々に同一化していかなくてはならない。逆に言えば、その"馴染み"、同一化の行為は、それまで自分に同一化している(ほとんど無意識と化している)「汚れ方」を部分的にも壊し、"捨てる"ことを意味する。
 今回の寝台バスは、その点私にとって未知の「汚れ方」だった。最初見た瞬間、嫌悪を催した布団類が、それに仕方なく馴染むにつれ、それが全身を包むにつれ、終いにはぬくぬくと気持ちよくさえなっていく。
 さて、荷物検査もどうにか終わり、全員バスに乗り、次のポイントに移動。入国審査と検疫。また荷物を開けさせられる。ようやく入国審査完了。ここまでで(2時間の待機時間を含み)おそらく3時間。ようやくバスが出発と思いきや、いっこうに出る気配がない。どうやら、入国か検疫で何人かの乗客が足止めを食っているようだ。いつ出発するともわからず、漫然と時間をやり過ごす。外に出ても、どこまでも埃っぽく雑然として気持ちのいい場所ではないし、仕方なく車内でゴロゴロしているが、空腹が限界に達してきて、頭痛さえしてきた。近くの売店らしき店に走り、添加物たっぷりの体に悪そうな菓子と緑茶(台湾でも飲んだことのあるケミカルな味のする甘い緑茶)を買ってくる。その月餅のようなボソボソの菓子をしかし貪るように食べる。こんなものでも、本当に空腹だと美味しく感じる。ほっと一息。
 さらに待つこと2時間、計5時間。ようやく、バスが出る。もう夕方5時過ぎ。ガイドに国境からカシュガルまで4時間くらいかかると書いてあったから、早くても着くのは9時過ぎだ。ホテルは、待ち時間の間に一応予約した。
 中国側は、路面がよく、順調に走る、とみえた。ところがところが...。途中、もう日も暮れる頃(7時過ぎ)小さな町に止まる。トイレ休憩?と思いきや、運転手・乗務員含め皆で「招待所」(簡易宿)で、どうやら夕飯を食べるらしい! カシュガルに着いてから、ビールと初中華で乾杯!と思っていたので、それに「招待所」の衛生状態がかなり疑わしそうだったので辞退する。他にも辞退した中国人青年二人と、皆早く食べ終わらないかと、通りでじりじりしながら待つ。つい、タバコをもらってしまう。クラクラする。そのうち雨が降り出してくる。仕方ないので、雨宿りをしようと招待所の中に入っていく。皆、すっかり和んでいる。まだ食事の途中らしい。チャイでも飲まないかと誘われる。次第に、ナン、終いにはワンタンスープまで分けてくれる。皆割と優しい。脇に座っている男性は少し英語が話せる。これで初中華の夕食はなくなったが、逆にカシュガルに深夜着き、喰いっぱぐれることもなくなった。

 〔今、カシュガルからウルムチに向かう列車の中でこれを書いている。車窓から乾ききった大地が、目路はるかまで広がる。そして同じような景色がいつまでもいつまでも続く。
 なぜ、列車での旅が好きなのか? 景色を眺め飽きないのか? 瞑想的、だからかもしれない。常に少しずつ変わりゆく風景(この点「のぞみ」や「TGV」は速すぎて失格)。同様のリズム音が軽いトランス状態に誘う(バスはその点失格)。そして、リズム音に伴う震動。
 景色が一見「単調」であればあるほど、瞑想的となる。(「スペクタクキュラー」なストーリーが生まれない。)
 こうして、"内的"な瞑想と"外的"な瞑想が共鳴しあうのか? そして、たまには「スペクタクル」。その到来まで気を持たせるところも、ある種瞑想的だ。〕

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 1時間後、ようやく出発。食中毒になることもなく、10時半ごろ無事(?)カシュガルに到着。予想より大きく近代的な都市だ。タクシーがいるかどうか心配だったが、問題なくいる。ホテルまでは、乗ってものの1、2分だった。両替する機会がなくキルギスの金しか持っていなかったので、運転手が困って唖然としている隙に強引にそれを押し付けてしまう。2元(1元≒13円)と言われたが、手持ちの50ソム札(≒150円)を渡したので、大もうけのはず(?)だ。
 チェックイン。予想より大きい「ふつう」のホテルだ。フロントに英語の話せる「白人」ぽいお姉さんがいて、手続きも問題なく済む。ハードな「25時間」から解放されホッとしたのか、そのお姉さんとやたらハイな会話をする。この時間に開いているレストランは徒歩圏内になさそうなので(もうタクシーで移動するには疲れすぎていた)、近くの売店に行く。ビールとカップ麺を買う。
 部屋に戻り、一人で乾杯! 「新疆ビール」、やたらと旨く感じる。サマルカンドのバザールで買った相変わらず正体不明のナッツをつまみながら、あっという間に大瓶を空ける。カップ麺、何と久しぶりだろう(4,5年ぶり?)。辛くて不味いが、一応(スープ以外)全部食べる。少しテレビを見て、寝る。やはり清潔なベッドは気持いい。

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《中国とそれ以前の中央アジアの国々との違い》
1.箸をつかう。
2.醤油味。
3.漢字だらけ(当たり前だが、でもこの地方ではアラビア文字もよく見かける)
4.モンゴロイドが急に増えた
5.朝から米=粥
6.タクシーにメーターがついた(でもカシュガルでは注意しないと倒さない)

hanare February 11, 2009 12:18 AM

[地球日誌] vol.05 パリから上海へ:ユーラシア大陸横断の旅(12)

〈9月10日(水)タシケント〉
 ビールが美味しかったので、昨日来たビヤホールにまた来ている。
 今朝は、7時半ごろ起床。時間稼ぎのためでもないが、ホテルの地下の食堂で珍しく朝食を食べる。サマルカンドのB&Bの朝食とは大違いで寂しいかぎりだが、でも相変わらず素材がいいので助かる。ここタシケントでは、とにかくお尻問題を何とかしたいので、13日まで「安静」にすることに決めた。しかし、このホテルで安静にしているには部屋がみすぼらしすぎるので、前述の別のホテルに移ることに決めたわけだ。チェックアウト(12時)まで横になってテレビを見たり、ゲバラを読んだりして過ごす。
 20ユーロを両替。しかし、この国の人たち、どうやって日々現金を入手し買い物しているのだろうか。何しろATMがないので、現金を下ろすためいちいち銀行の窓口まで赴くのだろうか。高額の買い物はどうするのだろう。10万円の買い物をするには、1000スム札が1000枚いるわけだが、現金払いするのか。何しろホテルでもクレジットカードが使えたり使えなかったりする国なので、ありうるとしたら小切手払いだろうか。
 昨日予約したホテルに(歩いて10分ぐらいなので)荷物を引きずりながら赴く。なんと予約がないと嘯くではないか。しかもフロントにいた3人の女性のうち少なくとも一人は昨日もいた明確な記憶がある。こちらも、昨日、ここカウンターでじかに予約した事実を主張するが、特に「ヘッド」らしい女性は知らぬ存ぜん。結局近くの別館のようなホテルに部屋があるらしいので、妥協するのは多少癪に障ったが、その別館に向かうことで一件落着する。その「別館」、『歩き方』にも載っているのだが、地図が不正確でなかなか見つからない。人に尋ねたり、勘に頼ったりしながら、何とか到着。小さいプールがある中庭に面した一階の部屋で50ドル。今朝までの部屋と環境(40ドル)に比べれば大分ましなので、13日まで滞在することにする。
 お昼を食べに出る。昨日、昼・夕食を食べに行った食堂にまた行く。まだ食べていなかった、写真ではワンタン風に写っていた麺を頼む。来ると、予想とは全く違っていて、皿を平たい麺が覆っていて、ジャガイモの細切り、チャーシュー状の物、玉ねぎ、香草がかかっている。スープは例の鶏だしのスープ。スープは透明感があり繊細なのに、麺と具が(不味くはないが)無骨なので、もったいない組み合わせ。もう一工夫必要か。

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 昼食後、部屋に戻り、テレビ、本、昼寝など。夕方、また外出。例のビヤホールに行って、三杯飲む。ビールは無濾過とのこと。通りで美味しいわけだ。気分がいいので、給仕のお姉さんにチップをあげる。隣のテーブルで水煙草をやっている。明日、久しぶりにやってみよう。
 それにしても、テレビやインターネットなどない時代、喫茶・飲酒・喫煙そしてそれに伴うお喋りは、暇を過ごすための発明=娯楽だったのではないか? 「労働」に従事していない時間(なぜかトルコから以東の国々では昼日中からチャイハネやカフェなどで暇そうにしている多くの男性を見かける)を、いかに過ごすかは人類にとって大問題だったはずだ。全く何もしない=無為のまま、長い時間を過ごすことは、ある種の業を為さないかぎり、非常に難しい。そこで人類は、多様な"暇つぶし"を発明したのではないか? しかも気持ちが高揚し、「労働」の疲れを癒すような。水煙草など、その点、かなり凝った発明だ。こんな大げさに、しかも手間をかけた暇つぶし。贅沢だ。
 気持ちよくなり、外に出る。来る途中に発見したオープンテラスというより屋台的食堂街の一軒により、夕飯。英語が全く通じないので、身振り手振りでビール、サラダ、ライス、シシ・ケバブ(豚)を頼む。ライスは、お椀で来て「飯」という感じだ。米も丸い。ケバブ、絶品。例のようにマリネが効いている。
 ホテルに帰る。ケーブルテレビでフランス語放送があるので、つい1時半まで観てしまう。

〈9月11日(木)タシケント〉
 9時頃起床。今日も大事を取って、基本的にはベッドで横になって過ごす。テレビ、読書。
 昼食は、また例の店。まだ食べていなかったプロフ(給仕のお姉さん、それをきちんと予想していて着くなり鍋を指差した)、サラダ、ビール。プロフ、やはり少々油っぽい。店ではどこでも大鍋で炊いているが、こびりつかないように随時油を足していくようだ。きっと、炊き立てが一番美味しいのだろう。

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 宿に戻り、テレビ、読書、昼寝。旅程表を失くしてしまったようなので、改めて計画を練る。『歩き方』に載っていたリシタンというキルギスとの国境沿いの町に「NORIKO学級」という日本語学校があり、それに行ってみようかと思っていたのだが、日程的に少し苦しいのと尻問題もあるので、諦める。キルギスのオシュでおそらく3泊することになろう。
 夕方外出。例のビヤホールで水煙草。その後、昨日行った屋台街の別の一軒で夕食。ケバブなどとともに、今日もライスを頼むが、素のピラフが運ばれてきて、それがなんと最高の出来であった。人生で食べた「炒め飯」の中で一番かもしれない。

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《停滞》
 旅は「移動」だけではない。「停滞」も重要だ。移動は大概望むべくして行い、"変化"のスペクタクルで満たされるが、停滞は得てして望まざる時間として訪れる。移動への待機、体調不良などで余儀なくされる停滞を、いかに上手く過ごすかが旅の質を決める気さえする。
 バクーでは、待機が、ナディムのおかげで(?)豊饒になった。アルマトゥでは、ひたすらだだっ広い町を歩き回った。今回、タシケントでは、ベッドの上である。
 ベッドの上での停滞。旅の否定のようだが、はたして豊かに過ごせているかどうか。今のところ、安易な過ごし方―テレビ、読書、昼寝―をしている。
 残念ながら"内部"への旅にはなっていない。いかにして"外部"への旅と"内部"への旅を、螺旋状に豊かにできるか。"内部"への旅にも技術と作法があるように、もちろん"外部"への旅にもあるはずだ。私はまだごく初心者だ。
 いつか、"外部"の旅と"内部"の旅が響きあう時がくるのだろうか。

〈9月12日(金)タシケント〉
 9時過ぎに起き、朝食。
 久しぶりに瞑想を行う。ただし、お尻のことがあるので、ベッドに横になったまま。当たり前だが、なかなか集中できない。呼吸が全く感じとれないし、絶えず雑念(明日の国境越えなど)が覆う。しかし、徐々に心が落ち着き、途中から少しずつ呼吸が感じとれ、心自体が見てとれるようになってくる。特に「触る」ように感じるようにしてからは、感度が増す。覚醒/半覚醒が混じりあい、少しずつ意識が変成しつつ、深まる。小一時間。
 外出。近くのバザールに行ってみる。小規模で、整然としている。サマルカンドのような熱気と野性味はない。売っているものも、もはや見慣れたものばかり。菓子屋を探すが、ない。市場地下の食堂で昼食。ビールとラグマンを頼む。以前食べたものより「パスタ」に近い。おまけに目玉焼きがトッピングされていて、かわいい。給仕のおばさんも(もちろん言葉は全く通じないながら)普通に愛想がいい。ホテルに戻る途中で、市販の保存剤がたっぷり入っていそうなロールケーキみたいなものを買って帰る。
 宿に着くと、久しぶりに両親と妹に電話。声が温かい。テレビでサッカーなど見て、昼寝。
 6時半ごろ再び外出。今、例のビヤホールで水煙草を待っているところ。

《「貧乏旅行」》
 それにしても、生活あるいは仕事の必要による旅以外の旅は、やはり「豊かな国」に住む人々の贅沢なのではないだろうか。たとえバックパックによる「貧乏旅行」であっても、自国の経済が相対的に強く、通貨も強くなければかなわない。例えば、ここウズベキスタンでは、私にとっての「千円」に過ぎないものが、この国の人にとっては3倍にも4倍にもなってしまうのだ。
 昔、キューバに旅行したことを思い出す。ハバナに住む友人を訪ねていったが、こちらから訪ねて行くことはできても、向こうから日本を訪ねることは"不可能"なのだ。単に政治的に渡航の制限があるからではない。経済的に、日本への航空券を購入することなど、闇の商売でドルを稼がないかぎり無理なのだ。何しろ、その文化省の役人である彼女の月給はドルに換算すると20ドルなのだから。
 「貧乏旅行」はしたがって、"贅沢旅行"なのだ。

《コトバ》
 中央アジアの国々は、思っていたより、そしてガイドブックが語るより、英語が出来る人が多い。ただし、大都市で、それにごくごく片言という条件付きだが。もちろん、こちらは相手の母国語を話せないし、ロシア語も『指さし』止まり。したがって、出会って互いにより深いコミュニケーションをしたくとも、ある"限界"以上どうしてもできない。もちろん、コトバ以外でのコミュニケーションも多少広がるが、そこにもやはりコトバを介さないことによる"限界"がある。
 しかし逆に、そうしたコトバによる"限界"があるからこそ、一つの微笑み、一つの心遣いが貴い。そこに、その人の、そして私の人柄が現れる、こめられる。
 けれども、どんなに貴くとも、それは一瞬であり、限りがある。そこにやはりコトバが絡んでいかないと、元々心と頭のかなりの部分がコトバで成っているのだから、その部分へは入り込んでいけない。もどかしい。改めて、コトバの重要性を痛感する。

《ピクトグラム》
 互いにコトバが通じない場合、にもかかわらず意を通じさせたい場合、ジェスチャーか絵に頼ることになる。「ピクトグラム」(絵文字)として歴史的に知られているものは、従ってある言語共同体内部での必要から生まれたものではなく、(話し)コトバが通じない者(あるいは共同体)同士が、やむにやまれず作り出さざるを得なかった"絵"なのではないか?
 マルクスは、貨幣と言語は共同体の"間"で生まれると言ったが、少なくともピクトグラムに関しては、今回の旅の経験からして正しいと思う。
 その点、バザールも、異なった共同体間の、モノによる、やむにやまれぬコミュニケーションの形だったのではないか? 今や「値切る」/「ぼる」間の駆け引きにしか見えぬものも、元々は互いにコトバが通じない者同士が、しかしどうしても相手の持っているモノを獲得したいがために、自分の持ち物を、あたかもトランプの「切り札」の如く、"切っていく"駆け引きのテクニックだったのではないか。ギリギリの駆け引きだからこそ、勘を最大限に発揮し、自分に有利な条件を作り出しつつ、"切って"いたのではないか。
 今回の旅を経る中で、私も徐々にだが、この"切り札"の感覚を身につけ始めている。

〈9月13日(土)タシケント→オシュ〉
 今、オシュのチャイハナにいる。夜の7時。ビールを飲んでいる。タシケントから、今回は「大きな」トラブルもなく、何とか着いた。
 朝7時半頃、タシケントのホテルを出、タクシーで、キルギスとの国境近くの町アンディジャン行きのミニバス/タクシー乗り場に向かう。それらしき?くもない?町外れの、しかし人ごみの中に降ろされ、運転手によると、ここにアンディジャン行きのバスが来る(と言っているようだ)。しかし、この、またもやタクシーの運転手たちが取り囲んでいる中に取り残されるのは辛い。ホテルからの運転手が気を利かせて、英語のできる知り合いに電話して、この状況を解決してくれているようだ。何とか、アンディジャン行きのタクシーに乗りたい旨が伝わり、周りにいる運転手の一人が行ってくれると言う。3万スム。4人で乗り合いになる。約5時間の行程。なぜか皆窓を開けないので、車内がかなり暑い。しかも、皆かなり厚着をしている。遺伝子的にこれが当たり前なのか。途中、風景を写真に撮ろうとするが、どうやらここら辺は軍事的に重要な拠点らしく、止めた方がいいと言われる。それにしても、岩肌が荒々しい。路面も荒々しいが(笑)、運転手はお構いなくぶっ飛ばす。
 アンディジャンの町中に着く。ここで降りて、国境の町ドストリック行きのタクシーに乗り換えろということらしい。気がついてみると、ここまでの料金を払うに十分なスムがなかったので、30ドル払ったら、差額(?)の3千スムをバトンタッチする運転手に渡し、もう俺がこうして払ったからお前は払う必要はないと言う。ウズベキスタンは、割と誠実な人が多いようだ。コトバが全く通じないながらもこちらの状況を把握し、タシケントから国境までの乗り継ぎもきちんとアレンジしてくれるし、極度にぼったくろうという素振りもみえない。カザフスタンとはかなり違う。
 ドストリックに向かうタクシーも乗り合いなのだが、いっこうに客が集まらない。30分くらい待ち、誰も来ないので、一人でも行くかと訊かれる。代わりに他に乗るはずだった三人分(9千スム)を払えと言う。これ以上、いつとも知れぬ出発を待つのも嫌だったので、仕方なく承諾する。ドストリックまで30分くらい走る。予想より遠い。
 さて、問題の国境。ウズベキスタン側は、通関書類を書き、あっさり通過。キルギス側。別棟でパスポートのコンピューターへの入力に時間がかかっているらしい。パスポートを持っていかれたので、やや不安。でも、同様に待っている人たちがいるので、仕方なく待つ。30分後、ようやく入国印が押され、無事入国。賄賂も要求されなかった。また、タクシー運転手たちが待ち受ける。まだ貨幣感覚がわからないが、150ソムを120ソムまで値切る(1ソム≒3円)。
 オシュに着く。なかなか活気のありそうな町だ。まず、ホテルを探す。中国行きの国際バスの出発日まで四泊するつもりなので、慎重に探したい。目星をつけていた中、アパートメントタイプの方からチャレンジ。看板がなく、どこが入口なのかわからない。辺りにいる人たちに尋ねるが(もちろん英語は全く通じず)、「ここが入口だが、今鍵が閉まっているので、今人を呼んでくるからもう少し待て」と言っているらしい。しばらくすると、英語のかなりできるおばさんがやってくる。いくつか異なったタイプの部屋を見せてもらう。結局、700ソムの、ホテルタイプの部屋にする。
 もう気がついたら、夕方の6時くらいになっている。朝からチョコバーを一つ食べただけなので、早速何か食べに出ようとすると、一人の青年が現れる。やたら流暢な英語なので(今回の旅で一番の英語力だった)アメリカ人かと思ったら、現地人でしかも現地でしか英語を習ったことがないと言う。車での国境越えを勧めてくる。国境までで170ドル。高い。最初から国際バスに乗るつもりだったので、断る。そんなにしつこくはない。明日、バスのチケット売り場(かなり遠い町外れにある)まで車で案内してくれると言う。その後、両替に付き合ってくれ、割と気持ちの良さそうな青年なのと、国境を越えてほっとしたのか、彼を夕飯に誘う。ところが、彼は今ラマダンの最中とかで日暮れまで後一時間、食べられないと言う。後で改めて待ち合わせることにして、その間こちらは一人でビールを飲むことにする。チャイハナに入ると、路上から多少英語のできる青年が話しかけてくる。しばらく話していると、明日よかったら町を案内すると言う。どうせガイド料を取られるだろうから、断る。
 待ち合わせのレストランに行く。ミンチ・ケバブを頼む。赤ワインも頼む。尻問題がほぼ解決したのと、国境越えの嬉しさから、一人で一本空けてしまう。青年ネマト君は、敬虔なイスラム教徒なのか一滴も飲まない。英語で(彼のほうがはるかに上手い)話し込み、終いには勢い余って彼を日本に招待したいとまで言い出し、夕飯もご馳走してしまう。勘定がいくらだったか覚えていない。ワインが150ソムだったことは確か。素朴な味だったが、飲めた。

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 ガイドブックによると、中国への国際バスは水・木・日と出ていて、うち水・木が比較的乗り心地のいい中国製のバス、日が旧ソ連製のバスなので、水曜日まで待とうと思っていたが、ネマトによると、今はもう日曜日も中国製のバスになったとのこと。なので、予定を繰り上げ、日曜日=明日、バスに乗ることにする。

hanare February 4, 2009 12:00 AM

[地球日誌] vol.05 パリから上海へ:ユーラシア大陸横断の旅(11)

〈9月8日(月)サマルカンド〉
 7時に目覚める。よく寝た。B&Bということもあり、珍しく朝食を食べる。ナン、まだほんのりと温かく、昨晩のものに比べると格段に美味しい。美味しいピザ生地のように(元々こちらが元祖だろう)モチモチして美味しい。クミンが軽く香る。手作りジャムも美味しいし、ヨーグルトもねっとりして美味しい。砂糖など要らない完結した味。卵も自然の旨みで、塩をかける必要なし。凄い朝食だ。

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 昨日から痔が気になりだした。20年程前に手術して完治しているはずだが、内部で少し腫れている気がする。ここまで怪我をするでもなく下痢をするでもなく、健康的には順調に来たが、こんな搦め手から攻めてくるとは思わなかった。今日は無理しないようにしよう。
 ゆるゆると、お尻に気遣いながら、アフラシャブの丘に向かう。ゆるゆると歩いているせいもあり、けっこう時間がかかる。サマルカンドの町は元々何百年もの間この丘にあったが、モンゴル来襲で破壊され、その後現在の場所に移動したらしい。その都市跡が幾層にもなって丘に埋もれているらしい。言われてみれば、多少人工的な起伏のようだ。ある程度歩けば、発掘跡も見られるらしいが、お尻が気になり断念する。土から出来たレンガで作られた家々=都市は、また土に戻る。今は、遊牧の様々な動物たちの糞だらけ。隣接する博物館を見学。発掘されたソグド人の壁画(7世紀)などを見る。婚礼の行進を描いているようだが、花嫁が白い像に乗っていたり、朝鮮人や中国人らしき人まで描かれていて興味深い。客は、私以外、韓国の団体のみ。

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 またゆるゆると、(日差しが強いので)街路樹や壁の陰に寄り添いながら、旧市街に戻る。お尻のこともあるので、バザールで買い物だけして帰ろうと思ったが、近いので結局シャーヒズィンダ廟群にも行く。ティムール王国の王や后が祀られている。相変わらずモザイクは素晴らしいが、見慣れてきて最初のような感動がない。

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 昨日、必死の思いで通り抜けたシャブ・バザール。昼・夕食の調達。一渡り巡る。ほとんど「観光」とは関係なく、「地元パワー」炸裂。アルマトゥの中央バザールのように整然とはしていず、とにかく露店が所狭しと並んでいる。よくもこんなところをトランクを引きずりながら歩いたものだ。「漬物」屋で、オイキムチのようなものと豆の漬物を買う。アルマトゥでは、まさに朝鮮系の人たちが朝鮮の漬物を売っていたが、ここではいわゆる「ピクルス」系のものと混在している。次に、トマト、ハーブ・スパイス入りのソフトなチーズ、洋梨、(何だかよくわからない)ナッツを買う。だいぶ慣れてきたのか、今回は値段の交渉も楽しめた(もちろん言葉は全く通じない)。「観光客」を前にぼろうとするが正直者でやっぱり出来ない人、あくまでぼろうとする人などなど。おばさん5~6人につかまり、質問攻めにあい(もちろん言葉はわからない)、「48歳! 信じられない! 若いわねえ」とでも言っているみたいだ。相手も大方同年代らしいが、どう見ても10歳くらい上に見える。皆、苦労してきたのだろう。
 いろいろと買い込み、宿に戻る。かなり歩いたせいか、お尻の様子が悪化している。大事を取って、少しベッドに横になる。テラスで昼食。日陰でそよ風が気持いい。オイキムチと豆サラダ美味しい。

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 食後、お尻を休めるためもあり、30分ほど昼寝。外出。遠くまで歩きたくないので、最も近場のミュージアムに行くことにする。サマルカンドの考古学的歴史と民俗の展示。監視のおばさんたちが(暇なので「監視」しながら作っている)土産物を押し売りに来て煩わしい。なぜか秋野深という日本人写真家の展覧会をやっている。現地に「日本語センター」があるが、それとのつながりか?
 スムの現金が底をつきかけているので、両替に向かう。とにかくスムの貨幣価値が低く、大量の札を持ち歩かねばならない関係か、ATMというものが存在しない。(何しろ1万円相当で千スム札100枚になる。)昨日行った旅行代理店に両替所があったので行ってみるが、もう時間が遅くて閉めたという。歩いて10分ほどのホテルに両替所があると紹介してくれる。行ってみるが、20分前にスムが品切れになったという。仕方なく、お尻を気にしながら(途中でビールを買い)ホテルに戻る。今日はワインが飲みたかったが、現金もないしお尻のこともあるので、やめておく。
 シャワーを浴びた後、ずっと洗っていないズボンなどを洗濯しようと思ったが、お尻のことがあるので(手洗いでけっこう力が要る)、無理しないでおく。いずれにしても、パリで買ったチューブ入りの洗濯洗剤が大分少なくなってきたし、新たに大きな洗剤の箱など買いたくなかったので、着替えを二日に一度にしようと思う。
 夕食までベッドで休息。ガイドにある中央アジアの歴史や民族の欄を読む。
 〔今、タシケント行きの列車をサマルカンド駅で待ちながらこれを書いているが、隣には日本の団体旅行客、ホームには入ってきた電車でナンを売ろうという地元民たちが待機。これがいつか逆の関係になることはないのだろうか?とふと思った。〕
 アペリティフにビール。つまみにバザールで買った(正体不明の)ナッツを食べる。なかなか美味しい。日記を書く。昼と同じ物で夕食。ただし、チーズだけだとかなりキツイ味だったので、トマトと一緒に食べる工夫をする。結局チーズは食べきれず、舌にも合わないのでもったいないが、便器に処分する。横になりながら、ガイドのイスラム建築に関する文章やゲバラを読みながら、11時前に寝てしまう。

〈9月9日(火)サマルカンド→タシケント〉
 今日の朝食は、目玉焼きの代わりにクレープだった。ジャムやチーズを巻いて食べる。残念ながら、ナンまでは辿り着けなかった。
 両替をしてくれるかどうか、試しに宿の主人に尋ねてみると、何てことはない、してくれるという。30ドル換えてもらった。発つまで時間があるので、ベッドで横になり、ゲバラを読む。キューバのジャングルで、死と背中合わせで行軍するチェに比べれば、私の旅など「屁」みたいなものだ。でも本人にとっては何がしかの意味がはずだ。まだ自覚できないが。
 11時過ぎの列車に乗るのに、念のため10時にタクシーを頼んでおいたが、9時半に来てしまった。慌てて身支度をする。駅まで10分足らずで7000スムを要求され、相場的には高い気がしたが、生まれたばかりの子供の写真を見せられたばかりなので、気持ちよく渡す。駅の待合室には、日本人の団体がいる。いかにも楽そうでちょっと羨ましい。(旅の疲れが溜まり少し気弱になったか?)
 切符には「0号車00席」とあり、タシケントで切符を購入時車掌が空いている席に案内してくれるはずだと言われたが、その通り無事席をもらう。通路に隣接した荷物を置くスペースは既に荷物で一杯でぎりぎり通行を邪魔しないように自分の荷物を押し込めるが、置き方が不安定で倒れて通路を塞ぎやしないだろうかと最初気が気でなかったが、やがて気にならなくなる。今までもそうだったが、なかなか列車で窓際の席になれず、残念。DVDでウズベキスタンのドラマを見る。非常にセンチメンタルで「韓流」に似ている。
 午後2時半過ぎ、タシケント駅に着く。お尻問題があるので、無理せずタクシーで宿まで向かうことにする。ホームに下りた途端寄って来た運転手二人と交渉するが、こちらも大分手馴れてきたので、向こうが「とんでもない」と思う値段=1000ツムから始める。向こうは当然「5000」とか言ってくる。サマルカンドの相場を考えればとんでもない(しかもホテルは駅からおそらく車で3~4分)ので、こちらも譲らず、すると二人とも割に合わないと思ったのか、もっといいカモがいる筈だと思ったのか、あっさりと引き下がる。さてどうしよう。仕方ない、トラムにでも乗るかと、構外に出ると、また客引きが何人も。試しに内一人に1000で訊いてみると、2000なら行くという。「ホントか?」と思ったが、交渉のメモ書き=証拠もあるし、車に乗る。結局言葉通りの支払いで済んだ。
今までの経験から、中央アジアで値段を交渉するときのコツは以下のようだ。1)こちらから先手を取って値段を提示する。2)落ち着き所と予想する値段の半値くらいから始める。落ち着き所がわからない場合は、少なくとも相手が「とんでもない」と思いそうな値段から始める。3)交渉して値が決まったら、そのメモ書き=証拠を残しておく。
 ホテルの部屋は(以前にタシケントに泊まったホテルと違い、レベル的には中程度か)、一階で窓の外はすぐ隣の建物の壁で、部屋自体もみすぼらしいが、一応設備は揃っているようだ。フロントで英語も通じる。
 もう午後3時で、いい加減お腹も空いているので、早速食べに出かける。偶然、屋台風の気軽な店を見つける。写真と値段が壁に貼ってあるので、注文もしやすい。念願の"うどん"「ラグマン」を頼む。予想より汁が少なく、ソースが多めのパスタという風情だが、麺は明らかに日本の"うどん"。ソース=汁はトマト味で、日本からイタリアまでがこの皿一点に凝縮されたようで、眩暈を覚える。まさにユーラシアの"ど真ん中"である。でも、素朴ながら、肉の出汁、野菜の味がよく出ていて、麺も手打ちで美味しい。400スム。

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 昼食後、ちょうど近くにいくつか航空券を売る店があったので、二三軒尋ねる。(つい最近墜落事故があったらしい)キルギス航空で13日(四日後)が最速。それでは旅程上無理があるので、空路は断念する。
 無理すると、お尻が心配なので、それ以上の遠出を諦める。代わりに、明日からホテルを変えたいので、近くの宿を二軒ほど見る。うち一軒が良さそうなので決めるが、シングルはなくダブルの部屋のシングルユースで50ドル。
 部屋に戻り、テレビを見たり、ゲバラを読んだり、仮眠したり。夕食に出る前に洗濯。かなり汚れているズボン(ハエも必ずズボンに止まるようになった)を3週間ぶりに洗う。
 7時過ぎ、夕食に出る。今、地下のビヤホールにいる。ジョッキ三杯目。日本では不可能な量。やはり無添加で製造方法が自然のせいか。ドイツやベルギーでもこれくらい飲めたが、日本の「生」は無理。生三杯、ピスタッチオ、例の「さきいか」状スモークチーズで、15000スム。けっこう高いか。でも一杯3000スム(といっても300円だが)のビールは美味しかった。
 その後、昼を食べた屋台風食堂にもう一度行く。閉店に近かったため(といっても9時少し前だったが)、メニューが限られていた。ミンチのケバブを頼みたかったが、代わりに羊の肉片に。でも、これが美味しかった。例のようにクミンなどでマリネしてあり、しかも小ぶりなので、焼き鳥感覚で串からじかに食べられる。その後、写真では焼きそば風に写っているものを頼む。出てきたものは何と「つけ麺」! スープは鶏だしが効いていて絶品である。比して、麺は少し延び気味もあり今一つ。このスープに日本のちぢれ麺を入れたら、さぞ絶品の「ラーメン」となろう。

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 アルマトゥもそうだったが、ここタシケントも東西の食の混淆ぶりが面白い。麺文化はおそらく中国から来たものだろうし、ナンはメソポタミア? 豊富な香草類の利用はどこからだろう? 地中海?
 いったい食的「アイデンティティ」とは何だろう? 例えば、パスタやピザは今やイタリア料理の(国内外ともに)「アイデンティティ」を構成する重要なアイテムだが、由来は上記の地方だろうし(しかもイタリアに普及したのは中世以降のことだという)、今や少なくとも「外国人」から見て「日本料理」の代名詞の一つである「テンプラ」は、もちろんポルトガル由来だし、その海産物を小麦粉で揚げる技術は、地中海のどこかの地方がおそらく起源だろうし...。
 生の素材は、流通が発達していない時代にあってはほとんどが地産地消であったろうが、それを加工する素材や技術は外来でありうる。また、実は素材にしても、原産は外来であったりすることが多い。有名な話は、今やヨーロッパの食材の基本中の基本であるトマトやジャガイモでさえ、新大陸発見によりもたらされたものだという。
 そうしてみると、食的アイデンティティは須らく相対化され根拠がないように思えるが、かといって、ある国、地方に行った時、食の"特異性"を感じることも事実ではないか。その"特異性"は地産の素材に負うことが多いものの、それを加工する(副)素材と特に技術にも多くを負っているのではないか。地産素材の独特のクオリティとそれを加工する技術の妙が相俟って、その地の食の"特異性"を形成しているのではないか。
 カザフスタンやウズベキスタンにいると、ややもするとアイデンティティとして既に見知っているものの変奏ないしアレンジにしか映らない料理が、実はそんなことはなく、アイデンティティと思えるものさえも元々は"特異性"の一つにすぎなく、その「変奏」や「アレンジ」に見えるものも一つの立派な"特異性"なのだ。昨日食べた、一見日本の「うどん」とイタリアの「パスタ」のアレンジにしか見えなかったラグマンも、従ってこの地に特有な"特異性"なのであり、もしかするとそれどころか「日本」や「イタリア」に中国から麺文化が伝わるずっと以前からこの地ではこうした麺を食べていた可能性だってあるのだ。昨日、食の眩暈が起きたのは、おそらく自らにもまだ根強く残っていた食的アイデンティティという"近代主義"が崩壊したからかもしれない。

hanare February 1, 2009 08:44 AM

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