[カタコト手帖]昭和家電、万歳!
うちの家では昭和から使っている家電がいくつか現役バリバリに活躍している。年期の入ったフードプロセッサーに、ガラス製のミキサー、「チンする」という言葉通り「チン」と音がする電子レンジ、二層式の洗濯機・・・。しかもそのほとんどが私が生まれる前、つまり30年以上前からずっと使っている物ばかり。電化製品に対する興味がすごく薄い家なので、基本的には壊れない限り家電は買い替えない。そんなものが今だに何の問題もなく動いているのには相当な驚きだけど、壊れないのも納得できる共通点がある。それらはどれも、ものすごく「単純」なのだ。スイッチはせいぜい2〜3個、もちろん液晶とかもついてないし、細かい設定は全くできません。いま流通している電化製品はひたすら付加価値をつけることに必死だけど、わが家の昭和家電辞書に「付加」という文字はありません。電子レンジで言えば指定した時間何かを温めるだけ。自動で時間を計ってくれたり、油をカットしたり、もちろん流行りの「エコばたらき」なんてハイカラなことは一切できません。
でも思う。昭和家電のような単純な商品こそが、とってもエコなんじゃないのかと。手をかえ品をかえ、いろんなエコ機能や省エネシステムを考えるのもいいけれど、今のエコシステムには「使い続ける」という思想が欠けている気がしている。実体験として、複雑な機能の付いた製品はすぐに壊れることが多い。年に何パーセントか電気の使用量を抑えるために、年に何万台ものプラスチックや金属製の商品を次々作っては、壊れてもいない製品を簡単にゴミにするのはエコなのか。まだまだ走れる車を乗り捨てて、高価な低燃費の車に買い替えるのも本当に地球に優しいことなのか。「修理するより買った方が安い」という世の中も、ちょっと正常じゃないと思う。資本主義のシステムの中、モノを売り続けなければいけない企業のことは置いてといても、「エコ」という言葉の響きと広告イメージに踊らされて、安易に「エコ」に貢献した気でいる消費者が増えているのはちょっと危険な風潮じゃないかと思う。
エコというのはファッションでもスタイルでもなく、地球規模・生命規模のもっと切実な問題だ。マスコミや広告によって、「エコ=オシャレ」なイメージが与えられることで、本当にエコの精神が広まるなら、それはそれで一つの手段だと思うけど、いま流行りの「エコ」という言葉にはどこか浮ついた感がぬぐえない。(オシャレなエコ雑誌も山ほど出てるけど、「エコ」と「健康志向・ナチュラル志向」がごっちゃにされてる気がするし。)まずは「エコ」ってどういう意味なのか、そこからちゃんと考えないといけない気がする今日この頃。個人的には、少々の不便さを覚悟してでも昭和家電のような、一度買ったら半永久的に使い続けられるものがもっと重宝されてほしい。何より、シンプル(単純)=オシャレは世の鉄則ですしね。
Takahashi Yufuko
[カタコト手帖]半端な繁華街
近ごろ三条から四条の河原町界隈を歩いているととても居心地の悪さを感じてしまう。この街のあり方を考えると空しく悲しい気持ちさえ湧いてくる。老舗の店がどんどん潰れ、パチンコ屋にカラオケボックス、そしてドラッグストアが軒を連ね、ここ数年のうちに見るに堪えられないくらいチープな街になってしまった。
繁華街というのその都市の「顔」であるように思う。繁華街の規模や様子、そこに出店する店などを見て、その都市に対するイメージが大きく印象づけられる。パリのシャンゼリゼ通りを歩いて、そこを美しくて洗練された街だと感じ、ニューヨークのタイムズスクエアをブラブラすればその溢れるエネルギーに圧倒される。
では京都はどうか。メインストリートは、悲しいくらいに趣味の悪い看板を掲げた魅力のない店ばかりである。(わずか数件だけ、自慢したいくらいすばらしい店舗が残っているのがせめてもの救い。)単なる景観だけの問題ではなく、その質がとても薄っぺらいように思う。もはやこの通りにはただ単なる消費という目的しか残されていない。京都で生活する人間でさえ愛着のもてないこの地域を、観光に訪れる人たちはいったいどう感じているのだろうかと時々心配になる。観光産業で成り立つ京都にとって、「京都らしいイメージ」というのは何よりも大切なはずだ。だけど今の河原町にはない。観光客を満足させる情緒もなければ、ここで生活する私たちを魅了する新しさも、存在感も。
じゃあ誰がこの界隈をそんな風にしてしまったのかというと、それは紛れもなくここで生活する私たちである。ちょっと前からこの周辺の景観問題についてはいろいろ言われているが、今のところ法律にできるのはせいぜい高さや看板のデザインの制限くらいだ。どんな店舗が生き残り、潰れていくかは、消費者である私たちにかかっている。当たり前の話だが、儲かる店はどんどん増えるし、流行らない店は消えていく。そうして街はどんどん生まれ変わっていくのだ。つまらない店で買い物をしない、そして本当にいいと思えるお店でお金を使う、そんな毎日の小さな心がけでしか、自分たちの街は守れない。その街の様子をただ嘆くのではなく、自分たちに必要なのはいったい何かと意識的にお金を使って生活することが消費という大きな力に対抗する残された手段だと思う。「小さなことからコツコツと」と誰かさんが言うように、小さなことを積み重ねれば大きな変化を必ず生むのだと、例え強がりでも、自分たちの力を信じたい。
それにしてもドラッグストアがかなりのスピードでどんどん増えてるけど、いったいみんな
何をそんなに買ってるんだろうか? かなり謎。
Takahashi Yufuko
[カタコト手帖]ABCポテトの誘惑
ABCポテトをご存じだろうか。お弁当のおかずとして人気だった、アルファベットの形をした冷凍フライドポテトである。
小学生の頃、友達のお弁当箱に入っているのを見て、早速家に帰ってABCポテトをおねだりした。しかしわが家では冷凍食品など子供に食べさせるなんてもってのほか、しかもフライドポテトは揚げたてが命、お弁当に入れても美味しいわけがない、と普通のフライドポテトさえなかなかお弁当に入れてもらえなかった。だけど子供の頃の私にとって、栄養がどうとか、冷めたらどうとかなんてどうでもよくて、お弁当に求めることはただ一つ、「華やかさ」だった。
それなのにうちのお弁当ときたら華やかさとは程遠く、真っ赤なウィンナーも、色とりどりのふりかけも、派手なものは全部ダメ。母親の作ってくれるおかずはどれもおいしかったけれど超地味で、見た目のセンスは最悪だと思っていた。(子供ってひどい)
そんなときにこのポテトの存在を知り、「これなら揚げるだけだし、変な色もついてないし、お母さんでも簡単にカワイイお弁当が作れる!」と子供ながらの判断でおねだりしたのだ。もちろん即反対されたが、何度も何度もしつこくお願いして、最終的には買ってもらうことができた。
念願のABCポテト。しかし正直なところ、それはあまりおいしくなかった。やっぱり冷凍食品より家で作ったものの方がおいしいし、フライドポテトは冷めたらおいしくないんだなと実感した。だけど私は家に帰ってから母親に「めちゃくちゃおいしかった」と嘘をつき、それからしばらくABCポテトはわが家のお弁当の定番となったのだった。恐るべしABCポテト。これぞデザインの威力である。
ときに人は、質よりも見た目を優先する。量より質、ならぬ「質よりイメージ」である。かわいくて、おしゃれで、かっこいいものが食べたいし、身につけたいし、お金を落としたくなる。そうして身に付けるもの、日々食べているもの、聴いている音楽などの「イメージ」をアイデンティティの拠り所としているフシもある。でもイメージに安易に惑わされることは言うまでもなく危険だ。質に見合わない高価な値を付けられた商品を買っていたり、環境や人に優しくない企業に簡単にお金を払っていたりしないか。「イメージ」という皮をかぶった商品や企業に対してもっともっと慎重にならなければいけない、と遠いお弁当の記憶に思いを馳せながら思う。(フライドポテトの話からビッグな話に飛びすぎたという反省は置いといて。)もちろん、ABCポテトには何の恨みもありません。このポテト、今でも売ってるのかな。
Takahashi Yufuko
[カタコト手帖] vol.1 親子リモコン
ふだん電化製品には全くと言っていいほど関心のない私が、かなりの愛情をもって使っているのがBOSE 『Wave Music System』。私にとっては決して安い買い物ではなかったけれど、店頭で実物を見た瞬間、ひと目惚れして購入してしまった。小さな本体にはボタンひとつついてない「超」がつくほどシンプルなデザイン。余計な機能は一切なし、聞けるのはCD1枚とラジオのみという潔さ。そしてもちろん、音の方も◎。音に関して全く知識もセンスもない私でさえ、今まで使っていたCDプレーヤーたちとは音の質が明らかに違うことがわかる。さすが。
そんな見た目や機能・性能はさておき。私がこのプレーヤーを愛おしく思う理由がリモコンにある。操作が分かりやすいということ、見た目も本体同様、シンプルでかわいいこと。これもさておき。愛すべきは、なぜか同じリモコンが2つも備え付けられているという点にある。
色、ボタンの数、その配置、そして機能、これらは全て同じ。ただひとつ違う点はその大きさにある。小っちゃいのと大っきいの。その比率はだいたい1:1.5といったところ。
手が小さい人、スタイリッシュさを求める人は小さい方。小さい文字が読みづらい、リモコンをすぐなくすという人は大きい方。個人の好みや条件にあわせて好きな方を使ってください、というBOSEの配慮とそのセンスが私はとても好き。しかもこれなら片方なくしてしまっても平気。ハイセンスなデザインを追求した結果、機能が落ちてしまったり、使い勝手が悪くなってしまったり。万人に受け入れられることをめざしたために、結局誰にも好まれない没個性的なデザインになってしまったり。そんなモノが多くあふれるなか、どちらかを取るでもなく、その間を取るでもなく、2つ作ってしまうという発想がいい。こっちを立てれば、あっちが立たず、てやんでぃっ、めんどくせぇ、そんなら両方作っちまえぃ、という江戸っ子の声が聞こえてきそうである(江戸でも日本のメーカーでもないけれど)。
何度も言うけど、大きさをのぞけば見た目は全く一緒。箱を空けた瞬間、リモコンがまるで親子のようにチョコっと並ぶ様子を見て、なんだかクスっとしてしまった。これは「買った人をちょっと驚かしてやろう」という、BOSEからのユーモアの混じったささやかな贈り物だと私は受け取っている。
一方で、これを過剰な配慮だという考え方もあると思う。資源のことなどを考えると、同じモノを2つも付けるなんて、もったいないことだとも思う。でも、世の中には無駄だと思われることがちょっと人を楽しい気持ちにさせたり、生活に潤いを与えることだってあるのも事実。果たしてそういったものが「無駄」なモノなのか、「無駄」と「無駄でないモノ」の境界は何なのか。そんなことをボンヤリと考えつつ、時々この親子のリモコンをテーブルに並べ、一人でニヤリと見つめている。

Takahashi Yufuko
hanare September 8, 2008 12:12 AM